216. 優先順位
学習室に併設されたミーティングルームを訪れると、パトリースが振り向いてきた。
「師匠! 目が覚めたんですね! あ、きゃ……っ!」
「ピ! ピピッ!」
「こーらホムラ。パトリースは作業中なんだから、邪魔しちゃダメだろ」
こちらの右肩より飛び立ちパトリースにじゃれつくホムラを、軽く窘めて室内を見回す。
探していた相手は、部屋の中央に配された円卓の席についていた。
「あ、セレンさんもやっぱりここにいたんですね。さっきは――」
「しー……! ちょっとタンマです、師匠……!」
黒衣の女史に声をかけてところで、パトリースから制止の声が飛んできた。
人差し指を口元で立てたその仕草を受けて、俺はコクリと頷きを行う。
みればホムラも、石床の上に降りてその場に蹲っている。
セレンの向かい側で紙の束をまとめていたパトリースへと、俺は声を潜めて問いかけた。
「どうしたんだ? ジングのことで、なにかわかったのか?」
「はい。どうやらそうみたいなんですけど……途中から突然、声をかけても反応がなくなっちゃって。物凄く集中しているようなので、いまは邪魔したらいけないかなーと」
「なるほど、了解だ。ところで……フェレシーラのヤツを見なかったか? さっきから探しているんだけど、姿が見えなくってさ」
「フェレシーラ様でしたら、つい先ほどお見えになられてましたよ。挨拶だけされて、すぐにどこかに行かれましたけど」
こちらの立て続けの質問にも、パトリースは淀みなく答えてきた。
その様子をみるに疲れはそう溜まっていないのだろうが……
「私はてっきり、師匠のところに戻られたのだとばかり。あ、良ければ一緒に探しにいきましょうか? 頼まれた作業は終わっていたので」
「……いや、いいよ。ありがとう、パトリース。なにかセレンさんに手伝いを頼まれるかもだし。取りあえずはここで待機しておくよ」
「そうですか……わかりました。たしかにいまはジング対策が最優先事項ですね」
「そういうことだな。だからしばらくは、寝室か診療所で休憩してくるといいよ。パトリースにも協力してもらい通しだしさ」
「私はまだまだいけますけど……師匠がそう言われるのでしたら、そうしておきます」
そう言うと、彼女はぺこりとお辞儀を行い書類をこちらに手渡してきた。
ざっと見た感じ、ジング対策に関する物で間違いなさそうだった。
おそらく誰に言われるでもなく、パトリースなりに今回の件に関してまとめてくれたのだろう。
「ありがとう、目を通しておくよ。本当に助かる」
ややクセのある丸文字で書き連ねられたそれを受け取り、俺は重ねて彼女に礼の言葉を述べた。
「いえいえ。こちらこそ、フラムさんにはお世話になっていますので……では、お言葉に甘えて診療所で休んできます。なにかあったらすぐに呼んでくださいね。師匠こそ病み上がりみたいなものですから、無理しちゃ駄目ですよ?」
「ごもっともで。あ、おい、ホムラ! お前はここにいろって。パトリースがゆっくり休めないだろ?」
「大丈夫ですよ。ほらっ、チビ助っ。こっちこっち、おいでおいでー! 診療所まで、競走しよっか!」
「ピ? グルルゥ……ピピーッ♪」
こちらが手を伸ばす暇もあらばこそ。
手を打ち鳴らして駆け去る従士見習いの少女に導かれて、小さな幻獣が通路の角へと消えてゆく。
暫しの間、部屋の中で紙片を捲る音とペンの走る音とが行き交い続けた。
「……ふぅ」
パトリースが認めてくれた書類――内容としては一連の事象を簡潔に纏めた後に、因果関係からくる推測を赤ペンで併記したものだった――を熟読し終えて、俺は溜息を溢す。
セレンは未だ、作業に没頭している。
よほど集中しているのだろう、こちらの動きを気に止める気配もない。
……正直言って、まだ俺は混乱していた。
その原因は当然ながら、言うまでもなく、フェレシーラがとってきた行動にあった。
いや……正確には『フェレス』を名乗る誰か、というべきなのかもしれない。
それぐらい、先ほどの診療所での彼女とのやり取りは、俺からしてみれば信じ難いものだった。
「……いやいや」
無意識のうちに右の頬を指でふれてしまったいたことに対して、俺は軽く頭を振って正気を取り戻す。
なにかの間違いだろう。
そう思うより他になかった。
「なにかあったのかね」
不意に飛んできた声に、ビクンと全身が跳ねてしまった。
「フェレシーラ嬢となにかあったのか、と聞いているのだよ」
「……お疲れ様です」
「ふむ」
円卓に術ペンが置かれる。
そこにセレンが両肘をつき、合わせた掌で指を交差させてきた。
「結論から言おう。君の精神領域からジングを切り離すことには成功した」
「……は?」
「我々の試みは成功した、と言ってるのだよ」
唐突に過ぎた感のあるその言葉に、俺は固まってしまう。
そうだった。
パトリースがくれた書類に目を通しておきながら、あれだけ大掛かりな、五星陣と六芒陣を用いた仕掛けでそれに臨みながらも……俺はそのことを、完全に失念していた。
セレンが盛大に溜息を吐いてきた。
一瞬、それがこちらに対するものかと思いもしたが、それにしては彼女が深刻な表情をしていたことに今更ながら気づく。
「ええと……ありがとうございます。でもなにか、問題が?」
「いや。問題はないよ。今回の件に関しては、だが……こちらの都合だ。気にしないで欲しい」
「そう、ですか……」
互いに歯切れの悪いやり取りに、どうにも居心地が悪くなる。
セレンが何故、そんな反応を示してきたのかはわからない。
わからなくとも、もっとこちらは感謝すべきなのに、それが出来ない。
自分でも驚くほどに、気持ちがふらふらとしていた。
ぶっちゃけ「あのお姫様のせいだ」としか思えない。
「すみません。あとでしっかりとお話を聞かせてもらうので。お礼も言わせてもらいますので」
「ああ。行ってくるといいよ。君が話せることであれば、そちらに関しても後程ね」
「……はい!」
こちらの意図を察してきたセレンには、せめてとばかりに力強い返事で返した。
それでようやく、混乱の内にあった思考が纏まり始める。
フェレシーラと会って話をする。
まずはジング対策に関して進展があったことを告げて、それからこの場に連れてくる。
休憩を取っているパトリースにも、もう一度声をかけよう。
四人でしっかりと、話を進めていく。
すべてはそこからだった。
順番を間違えてはならない。
そんな真似をすれば、こちらに協力してくれたセレンとパトリースに対して、失礼にあたる。
「では、フェレシーラを探しに行ってきます」
了承の頷きを得て、踵を返す。
フェレシーラと二人で話をするのは、成すべきことを成してからだ。
「貴方が何故、このような――」
微かな呟きを背に受けながら、俺はその場を後にした。