206. 『自傷』
外に五星、内に六芒。
二つの陣が、その刻線から光を放ち起動する。
『考えるにね。フェレシーラ嬢がアトマ欠乏症により、一度は倒れたように――』
その中心部たる試合場の開始円の中にて、俺は昨晩、夕食の場でセレンが述べた言葉を思い返していた。
『君の身にもまた、変化が現れていたのではないかと。その結果が今回の、ジングなる輩の出現を招いたのではないかと。私は考えたのだよ』
木皿に盛りつけられたパスタをスルスルとフォークで巻き上げつつ、彼女は続けてきた。
『アトマか体力、もしくはその両方を大幅に消費する。その状態でのみ、ジングはフラムくんの体に強く介入できる。あくまでこれまでの経緯、状況から判断しての推論ではあるがね。被術者の抵抗力が弱まるほど、術者側にとって有利な状態であることはたしかだろう』
獲物が弱れば弱るほど、追い立てる狩人にとっては都合が良い。
子供でも分かる、自明の理というヤツだ。
『ジングの用いる術に関して、仮説なら幾つか立てられる。が、それをあてにしてあれこれと試している時間はこちらにはない。ならばリスクを承知で、実物を見てみるしかない。これに関して決は採らないよ。私が考え得る最善の手だからね』
こちらの狙いは、狩人だ。
俺という餌を前にしてジングという狩人が現れたところを、逆に狙い撃つ。
セレンが仕掛けようとしていたのは、そういう戦いだった。
『伸るか反るか、それぞれ決め給え。私からは以上だ』
彼女が手にしたフォークが再びその先端を現すよりも早く、参加者は決定していた。
「ジング。お前が俺の体を欲しがっていることはわかっているんだ。見てのとおり、こっちはアトマも体力も底を尽きかけているぞ。乗っ取りたいのなら、またとない絶好の機会だろ?」
『ぬかせ。手前の体で造られたアトマが、その程度で尽きるかよ。それにこの術にも見覚えがあるぜ……まさか、カラスの野郎を味方につけていたとはな。イラつく餓鬼だぜ』
疲弊しきった体に鞭を打ちジングに語りかけると、間髪入れず『声』が返されてきた。
それに対してこちらは迂闊に答えない。
なにが『制約』の条件に引っかかり、体の支配権を奪われるか、まだ不明瞭だからだ。
「フェレシーラ」
共に開始円の中にいた神殿従士の少女の名を口に、俺は右の掌を翳してみせる。
それを視て、フェレシーラが頷きだけで応じてくる。
彼女が目にしていたのは、「カラス」という文字。
手甲の力でアトマを操り、文字として手に浮かび上がらせる。
言葉を交えずに伝達を行うための手段。
状況を打開するには情報は多いに越したことはない。
しかしその動きを、ジングに勘付かれては色々とやりにくくなる。
なので、まずはコイツを勘違いさせておく。
今日特訓のみを行うという話についても、わざと皆と口頭で相談を行い、偽情報として提供済みだ。
カモフラージュ程度の策だが、動揺を誘うことは出来るだろう。
『ジングには、俺が焦って勝負を仕掛けているように思わせた方がいいと思います』
『ふむ……聞こうか』
『はい。アイツはアホですが、ある程度こちらの情報を掴んでもいます』
ジングにとっての武器である、視覚と聴覚。
コイツが平時からそれを頼りにして、周囲の状況を把握したであろうことは検討がついていた。
このミストピア神殿へとやってきて、最初に聞いたジングの『声』。
カーニン従士長との面会を果たした直後についても、そうなのだろうが……
ハンサ副従士長との模擬戦で、彼に対して全力のアトマ光波を打ち込むのを回避した際には、明らかにジングはその状況を把握した上で、俺に文句をつけてきていた。
返す返すも、いままでコイツに俺のことを――マルゼスさんとの生活や、フェレシーラとのやり取りを盗み見られていたかと思うと業腹ではある。
あるが……それだけに、ここはしっかりとジングの武器を逆手にとっていく必要があった。
『ジングが俺の体の中にいる以上、全てを隠し通すのは無理です。なのでここからはアイツに見られているという前提で……こうしていきます』
夕食を終えた後に皆で移動したのは、学習室。
パトリースに陣術のレクチャーを行った際に用いた黒板に、俺はチョークを走らせていた。
『見ながらでないので、たぶん字がめっちゃ汚いのはアレですけど。まあ、こんなところですね』
『ううーん……なるほどですね。たしかにそれなら、目と耳に――おっと。失礼いたしました、師匠』
『いやいや。仕方ないよ、パトリース。そもそもあいつが常時見れてる可能性も結構低いしな。条件が揃ってもいないのに『声』を投げかけてくるのは難しいんだと思う。それが簡単に出来たのなら、普段から話しかけてきまくってこっちをノイローゼに追い込んで弱らせるとか……色々とやってきていたと思う』
『たしかにねぇ。貴方、特にそういうのには弱そうだし……それにしても、よく思いついたわね。そんなやり方。私はいい手だと思うけど……セレン様はどう思われますか?』
『私もフェレシーラ嬢と同じ感想だよ。善いと思う。無論、こちらの計画に合わせてもらう形にはなるが……試す価値は十分にあるね』
目と耳に頼り、そこから『制約』の発動に持ち込んでくる。
それがジングの攻め手であるのなら、そこを封じてやればいい。
その為にまずジングには、こちらが早期決着を狙って陣術による包囲を行っていると思わせておいた方が、なにかと都合が良かった。
ジングに……つまりは俺自身には見えぬように、掌に文字を浮かべてのやり取りをフェレシーラと行いつつ、次々に探りを入れていく。
それが俺の立てた対抗策だった。
『ケッ! 人が大人しくしてりゃあ、こんなモノまで用意しやがって……姑息なヤツらだぜ。そんなにこのジング様が怖いかよ。こっちはユーコーテキな話し合い、ってヤツを望んでるってのによぉ』
「なに言ってやがる。お前、俺がハンサと戦っているときにも文句いってきてただろ。友好的なヤツが人が傷つくようなことを望んだりするかよ」
『はぁ? よく言うぜ……猿真似で技を盗んで暴れてたのはテメェの方だろうが! イイ子ぶったところで、おれぁ知ってんだぜ? テメェがどれだけそこにいる女に――』
そこまで聞いたところで、俺はジングとのやり取りを中止した。
この会話に意味はない。
なにかしらの情報が得られることを期待してみたが、無駄だ。
フェレシーラの顔を直視できぬまま、首を横に振り会話の中断を伝える。
元より皆には、俺がジングの挑発に乗りかねない場合、次の段階に移行してもらうことを頼み込んである。
カラス、という言葉が何を指し示すのかはわからないが、情報としてはプラスだろう。
計画は順調に進んでいる。
だからここからは、俺がやるべき事は別にある。
その為に皆に協力してもらっているのだ。
何一つ、無駄にすることはできない。してはならない。
それを念頭に置き再び前を向くと、青い瞳が悲しげに揺れていた。
「フラム。苦しいときはすぐに言ってくださいね。そのときはアトマも体力も、私が責任をもって回復させますから」
「……ありがとう、フェレシーラ。でもまだ大丈夫だ」
『おいおい……この俺様を呼び出しておいて、まぁた乳繰り合いかよ。これだから盛りのついた餓鬼共は手に追えねぇなぁ……今日はコウシュウのメンゼンで見せつけてくれんのか? サービス精神だけは一人前だねぇ、まったくよぉ……カカカ』
「――ジング」
会話の途中、割り込んできた侮辱の『声』に対して、俺は十分な間を置き、応えた。
「アンタには悪いが……こちとらずっといい加減、色んなことにムシャクシャしまくってたんでな」
言いざま、逆手にしていた短剣を眼前で握りしめる。
少女の瞳が伏せられて、その整った眉根がきつく寄せられるのを目にしながらも――
「ここから先は――俺の八つ当たりに、付き合ってもらうぜ!」
俺は蒼刃を閃かせて、己が掌を掻き切っていた。