194. 旅人終了のお知らせ
「フェレシーラ嬢と別れる、か」
白羽根の名ではなく、彼女の名を口にセレンが小首を傾げてきた。
「それはジングとやらが君の体を奪い、彼女に害を成すからかね?」
「勿論、それもあります。フェレシーラに限らず周りの人たちは迷惑を被りますから」
その問いかけには、予想ではなく、断定する形で俺は答える。
どう考えてジングは危険だ。
こればかりは理屈ではない。直感、本能的なものだ。
あいつが何をどうしたいのかはわからない。
しかしその狙いがなんであれ、俺はヤツという存在を許容できない。
ジングは、ただ俺に話を聞かせたいという……ただそれだけの理由で、言ってきたのだ。
フェレシーラの首をへし折ると言ってきたのだ。
許せるはずがない。
……もしも俺が自ら命を絶ち、この体の中にいるあいつを確実に道連れにすることが可能だとすれば。
今すぐこの場でそうしたい、という気持ちすらある。
右手を開き、握りしめる。
「俺はこの手で、フェレシーラを殺しかけたんです」
「それは違う。君がやろうとしたことではない。気に病むな。そのジングとて、君にいうことを聞かせるために――」
「そういう話じゃ、ないんです!」
やめておけ。
セレンはお前を気遣ってくれた上で、言ってくれているのだ。
冷静になれ。吼えるな。
そんな元気があれば、彼女の気持ちに報いるためにも意義のある話をしろ。
頭の片隅で醒めた自分ががそう告げてくるが、一度噴き出した思いは止まってはくれなかった。
「他の誰でもない、俺が……俺のこの体が、この手が、あいつを殺そうとしたんです! こんな、こんな手、いますぐにでも切り落として――」
不意に、左の頬に衝撃が走った。
視界が右へとブレて、耳の奥がジンと痺れる。
「間違っても彼女の前でそんなこと口にするな。絶対にだ」
突然のことにわけもわからず前に向き直ると、目の前にセレンがいた。
右手を静かに下ろして、彼女は続けてきた。
「約束するんだ。そうでなければ、君の力になることはできない」
頬を叩かれた。
それを理解したところに、セレンが続けてきた。
「丁度良い。フェレシーラ嬢と、別れようと考えているといったな。あれもこの場で撤回しろ。今後、口にすることも許さん」
「……さっき言ったのは、万が一の話で」
「では、彼女と話し合った上での話か? 嬢がそれを望んだか? 違うだろう。子供が御託を抜かすな。一人で抱え込むな」
「それは……」
普段とは異なる口調と鋭い眼差しに、その言葉に、俺はたじろぐ。
「君はまだ子供だ。子供でいいんだ。無理に大人になろうとするな。大人など、君が思っているほど優れてもいなければ、正しくもない。ただ、長く生き、長く歩いてきただけだ。大事なのはその行き先だ」
「……いやに感情的なことを言うんですね」
大事なのは行き先。
そんなことを言われて、俺はセレンにまともに返事をできなかった。
「あなたはもっと……冷たい人だと思っていました」
遅れてやってきた頬の熱さに、思わずボソリと漏らす。
「そういう物言いが子供だと言ってるのだよ。ところで返事はまだかね? きっと気の長さも君が思っているほど長くはないぞ?」
「わかりましたよ……約束、すればいいんでしょう。人の気も知らないで無茶言ってくれますよね、ほんと」
「ボヤくなボヤくな、年寄り臭い。言いたいことがあれば聞いてやろう。どのみち、フェレシーラ嬢とも話すことになるからね。試合場の件も含めて」
「あー……それもありましたね。ぶっちゃけ完全に頭の中からすっとんでましたよ、その話」
普段の口調を取り戻してきたセレンに、頬を掻き、考える。
約束しろと言われたその意味を。
一人で抱え込むなと言ってもらえたその有難さについて、しっかりと考えてゆく。
「フェレシーラには、俺から別れようとは絶対に言いません。ジングのヤツを道連れ云々も、言いません。でも、選択一つとして考えることは今後もありますよ。さすがにそこまで能天気じゃないんで」
「うむ。もしも彼女の方から言い出してきたら、遠慮なく泣きついてき給え。その時は一晩付き合おう」
「……たしかに、言われたときのことを考えるとキツイものがありますね。すみませんでした……!」
「謝罪ついでに感謝もしていいぞ。きっと私を挟まずにフェレシーラ嬢に話を切り出していたら、間違いなくとんでもない事態になっていたからね」
たしかに。
彼女のいうとおりに、いきなりフェレシーラにこんな話をしていたら、無用なショックを与えていたかもしれない。
セレンのおかげで、早まった真似をせずに済んだ。
「まあ、気持ちはわからんでもない。下手をすれば君は自分の手で彼女を殺してしまいかねないし……彼女もまた立場上、場合によっては君を拘束するか、さもなくばその手で討ち果たさねばならない。突然どころの話ではないし、思い詰めるのも無理はないよ」
「ええ、まあ……そんな感じでしたけど。なので最悪、別れるしかないかなぁと。ジングをなんとかする方法は、一人で探すって手もありますし。フェレシーラには公国の人間を守る役目も、実家のこととかもきっとあるんで」
「ふぅん。君も大概ではあるが、まあ彼女とてまだ若いからね。すべてを投げ打って……という可能性も、存外ありえなくもないとは思うよ」
「やめてくださいよ、そういう無責任な煽りは。俺だって、考えないわけじゃないんですから」
「はっはっは。いや若いね。結構結構。羨ましい限りな話だが……」
そこまで言って、彼女はからかうような視線を向けてきた。
……あれ?
なんだろう、この感じ。
フェレシーラとのことをおちょくられている風でもないし……
「え。なにか俺、見落としてました? いまの話で、どこか」
「おや、流石にそこまで鈍くはないか。そのとおり、あるね。大きな……というよりは、基本的な見落としがあるよ」
「基本的な、ですか」
セレンの指摘に、俺は思わず首を捻る。
彼女の口振りだと、俺とフェレシーラが行動を共にし続けるための、効果的な手段が存在するということなのだろうが……
いやほんと、マジでピンとこないぞ?
基本的というからには、達成への敷居がそこまで高いわけでもないのだろう。
もしかしたら、既に俺が知っていることなのかもしれない。
「……ええと。ちょっと思い当たらないっていうか。本当にそんな都合の良い手があるんですか? いつ暴れるかもわからない危険人物が、神殿従士のトップと同行できるだなんて」
「ああ、ある。わざわざ希望を持たせておいて、嘘でした等という趣味はないからね。安心し給え。というか、本当にわからないのかい? フェレシーラ嬢からは、君の公国に関する知識はもうそれなり、と聞いていたのだが」
そう言われても、わからないものはわからない、
セレンの問いに諦めの首振りで返すと、彼女は「まあ、あまり勿体つけるのも良くはないか」と呟き、黒衣の内側へと手を伸ばし……掌に収まるほどのサイズの、小さな箱を取り出してきた。
「これって……なんですか? なんとなく、術具っぽく見えますけど」
「正解だよ。これは登録機さ。アトマ認証用のね」
「アトマ認証……」
その言葉には、聞き覚えがあった。
そしてそれが、レゼノーヴァ公国でどういった形で使われているのかも、以前、フェレシーラから教わっていた。
「ということは、もしかして」
「ああ、そうだ。これですべてとは行かずとも、理由はできる」
こちらが憶測の言葉を飛ばしかけたところに、黒衣の裾がバサリと翻されて――
「取りあえず……いまは旅人から公国民になり給え。話はそれからだ」
ニヤリとした笑みと共に、彼女は手にした小箱を開いてきた。