プロローグ 2 隠者の塔にて - 少年と魔女 -
魔の森、或いは還らずの森。
その奥地に聳える黒胡桃の大樹の元にて。
「もう。何度言ったらわかるのですか、フラム」
「ごめんなしゃい……」
一人の魔女と子供が暮らしていた。
「こんなことなら、ぺルゼルート卿の提案を受け入れておくべきでしたね……」
べそべそと泣きべそを掻く――たしか今年で四歳となる、と彼女は記憶している――男の子を見下ろしながら、魔女マルゼスが大きなため息を吐いた。
中央大陸の西にある新興国家『レゼノーヴァ公国』と他国との国境。
狂猛な魔物が蔓延るその地を人々は『魔の森』『還らずの森』と呼んでいる。
「良いですか。私が許可した時以外、貴方は外を出歩いてはいけません。殆どの魔物の駆除が済んだとはいえ、入れ替わるように得体の知れない人間たちも森に姿を現し始めているのです。私が研究中の結界が完成するまでは――また勝手に動いて! 話を聞いているのですか、フラム!」
「あ、ご、ごめんなさい、まるぜすさ……ぅ、あ、うわあああぁぁぁん……!」
小鳥一匹寄り付かない、巨大な洞を覗かせる大樹に男の子の泣き声が木霊する。
「はぁ……本当に勘弁して下さい。泣きたいのはこっちですよ……」
異界の住人である魔人の襲撃と争乱を乗り越えて、はや四年が過ぎ去った頃。
そういえば自分も来年で二十歳になるかと、他人事のように考えながら――
魔人将の首を叩き落とし、レゼノーヴァ公国に平穏をもたらした救国の英雄。
『煌炎の魔女』マルゼス・フレイミングその人は、たった一人の幼子相手に悪戦苦闘する日々を送っていた。
「拝啓、ぺルゼルート・シェットフレン卿……昨今の公国におかれる貴方様のご活躍、東方より聞き及んでおります。先日の物資支援、旅商の手配共に誠に有難く――」
艶のある木製の机と向かいあい、羊皮紙の上に羽根ペンを走らせていたマルゼスが、ピタリと動きを止めた。
「はぁ……毎度毎度、これで書き方があっているのかまったくわかりませんね。『伝達』の術で済ませられたらいいのに、本当、面倒くさい……」
書きかけの手紙を前に、マルゼスが盛大に溜息をこぼす。
彼女がこの森に密かに移り住む際に、御者と護衛を務めていた男……ぺルゼルート・シェットフレン。
彼は今現在、レゼノーヴァ公国の将軍職に在る人物であると同時に、マルゼスにとっての数少ない、しかし強力な支援者の一人だった。
ろくに人の寄り付かない森の奥地にまで、生活に必要な物資や『術具』と呼ばれる品を手配し、秘密裏に運び込ませる。
救国の英雄への恩賞としては実に些細なささやかな、しかしそれなりの以上の労と財、権限を必要とする助力の数々――
それに対してマルゼスは、以前『伝達』の術で礼の言葉を済ませようと試みたことがある。
結果彼女の元には、十数頭の早馬注ぎ込んでの手紙が送りつけられてきた。
【マルゼス殿。大変言いにくいのだが、今後あのような真似は控えていただきたい。公都の結界をああも容易く破られては、教皇聖下、ひいては聖伐教団の沽券に関わる。こちらは貴女とは違い術の傍受もありえる故、『伝達』の使用を控えていたというのに――】
「はいはいはいはいはい……! ちゃんと手紙を使えばいいんでしょう……! まったく、こっちの頭があがらないからって、チクチクネチネチと、あの、お小言覆面男は……!」
頭があがらない。
マルゼスとぺルゼルートの関係は正にその一言で表せるものだった。
この森を訪れ、古代樹の洞を隠れ家とし、まだ乳飲み子であったフラムの為に必要なものの数々……
口の堅い乳母、家具の手配に必要な書物といった養育に欠かせぬ人や品の殆どを、彼女は仮面の将軍に頼り切っていたのだ。
母を失った子供を女手一つで育てる。
稀代の魔術士と賞賛されていたマルゼスにとって、それぐらいのことは朝飯前、ぐらいのつもりでいたが……自分がどれ程の愚か者であったのかを身をもって知ることになるのに、そう時間はかからなかった。
自分はどうやら子供の扱いが苦手だということも、今更ながら自覚していた。
この先、ちゃんとあの子を育てていけるのだろうか。
今日だって苛立ちに任せて叱りつけてしまった。
ここに来てから、ずっとそうだ。
大事にしないといけない。
守ってやらねばならない。
そう思いながらも、余裕のなさからあの子に嫌な想いばかりをさせてしまっている。
ちらりと、頭の片隅を小さな女の子の姿が掠めた。
亜麻色の髪と青い瞳を彼女は思い出す。
出会ったその日から、あの子がちっとも泣きもせずに抱かれていた、ぺルゼルートの娘だという女の子。
あの少女が本当にフラムの姉であれば――
「って、何を考えているのですか私は。べつに、あんな小さな子の手を借りなくても」
そこまで言って、それが強がりであると気づき言葉を止める。
「こんなことなら、彼の言うとおりにもっと人を送ってもらうべきでしたか。でもそれだと、あの子の……ん?」
ぐちぐちと文句を連ねている途中、不意にマルゼスが椅子から立ち上がった。
「んしょ、うんしょ……」
古代樹の中、螺旋を描いて伸びる石造りの階段。
そこをぼさぼさの真っ赤な髪が、ふらふらと揺れ進む。
マルゼスが魔術を用いて一晩の内に積み上げたその道を、一人の男の子が壁に手を預け、昇り続けていた。
「もうちょとで……んっ、しょ!」
既に何度も階段を踏み外しかけながら、男の子が――フラムが、上へ上へと進んでゆく。
今年で四歳となったばかりの彼には、相当な労力と、なにより根気を必要とする作業だ。
「お、おそとには、でちゃだめだから……あそこなら、れんしゅー……できる……っ」
フラムが目指していたのは、古代樹の天辺にある大広間。
『隠者の塔』の頂上に配された、今はまだ使われることもない『教導の間』だった。
「んしょ……!」
一体どれだけの時をかけて、彼は成し得たのだろう。
いつしかフラムは、巨大な枝の分かれ目に座した板張りの広間へと辿り着いていた。
「ついた……ふぅ、はぁ……うん。やっぱり、ここならだいじょうぶそう……!」
バクバクと悲鳴をあげていた胸を、覆い茂る葉の向こうから吹き付けてくる風を吸い込み落ち着けて、彼は大きく頷いた。
まだ明るい空には、輝く日輪。
木漏れ日として降り注ぐそれを、幼子が見上げる。
小さな手を目の前で重ねて、思い出す。
「んと……げ、げんひょの……あれ? なんだっけ……」
だが、上手くいかない。
試みようとしたことが、彼には上手くいかなかった。
「うぅ、まるぜすさん、なんていってたっけ……」
そうこうしている内に、吹きつける風が冷たくなってきた。
陽が傾き、差し込む光も減じてきている。
「い、いそがないと、よるになっちゃう……っ」
夜になれば、眠らなければいけなかった。
彼は眠るのがあまり好きではなかった。
一人では到底寝つくことは出来ないのだ。
眠る時は、必ずあの赤い髪の傍でしか――
「……!」
赤い髪。
長くまっすぐで、とても綺麗な真っ赤な髪。
自分と同じ色をした彼女の髪を……彼は心の内に想い描いていた。
「げんひょのともひび、ひのげんゆー……」
枝葉の合間を吹き付けてきていた風が、押し戻された。
「みひびくきへきにて、わえはもおいゆう……」
火が灯る。
赤、そして青。
彼の瞳に、鏡映しの如く火が灯り――
沈み逝く陽を、赤一色の奔流が貫いた。
「――ニア!?」
弾かれたような叫びと共にマルゼスが動き、椅子がガタンと床に転がった。
上。
上にいる。
それを感じ取り、マルゼスが駆けだす。
とてつもない力。魂の輝き。
煌々たる魂源力の噴出――もしや、そんな筈はと思いながらも、彼女は塔の壁を一睨みする。
分厚い木の幹ごと外壁が爆ぜ飛んだところに、そのまま宙へと躍り出る。
そして瞬時にして呼び出した焔の杖、火翼を従えた箒へと跨り、天を仰ぎ見た。
「あれは……!」
古代樹の外周すれすれに加速しながら直上を目指す魔女の目が、一筋の火線が捉える。
破壊の魔術『熱線』に由るものとおぼしき、超高温エネルギーの持続照射。
それも今までみたこともないほどの、膨大なアトマの噴出を伴う代物だ。
「一体、どういうことですか……今の今まで、術士どころが人の気配すらなかったというのに……あ!」
もしかすれば、己に匹敵するやも知れぬ外敵、脅威の出現。
それを前にして、マルゼスは自身の知覚が掻き乱されていたことを遅まきながら自覚した。
「そ、そういえばあの子は……フラムは!」
巨大なアトマの波動に掻き消されたのか、あの幼子の気配を感じることが出来ない。
あの子の身に、フラムの身に危険が迫っているかもしれない。
そう思ったときには、既に火箒の翼が八つに裂け爆ぜていた。
「フラム!」
守るべき者の居所が掴めぬ以上、目指す場所は一つしかない。
彼を傷つける可能性がある敵の懐へと飛び込み、一撃の元に焼き尽くす。
向かうは教導の間。
螺旋を描きその直上へと、緋と銀の輝きを纏った魔女が突き抜けていき――
「……え?」
そこで彼女は、木の床に倒れ伏した男の子の姿を目にしていた。
「フ、フラム……まさか貴方――い、いえ! 今はそれよりも……!」
一瞬、最悪の事態が脳裏を掠めるも、マルゼスの行動は早かった。
フラムを傷つけぬように火箒を消し去り、アトマの力のみで飛翔して傍に降り立つ。
そしてフラムを素早く抱き上げると、外傷がないことを服を捲って確認しつつ、『治癒』の神術を施してゆく。
医術に関する知識は、彼女には殆どない。
頼みの綱は馬鹿の一つ覚えの、術法のみだ。
それが今回は、なんとか役目を果たしてくれたようだった。
「う、ううん……」
「! フラム! 大丈夫ですか、フラム!」
「あえ……まうぜう、さん……ぼく……」
「喋らないでください、いいから、いいから……!」
己を見上げてきた錆色の瞳に、彼女はふるふると首を横に振り応えることしか出来なかった。
「ごめんなさい……ぼく、ぼくね。いっつもまるぜすさん、もりから、きずだらけでかえってくるから……ぼくね」
そこに突如やってきたのは、たどたどしい声。
一瞬その意味を測りかねたマルゼスは、彼を呆然と見つめていた。
「森から、傷だらけって……」
「うん……まるぜすさん、こわいまものをたおしに、もりにでかけてばかりだから……」
マルゼスが絶句する。
彼女が森から魔物を排除しているのは、他ならぬこの男の子の為であり、彼に危険が及ばないようにする為だ。
毎日のように森を飛び回っているので、多少は汚れもするし、偶にかすり傷も負いはする。
あまり派手に暴れて火事や騒ぎを起こさぬようにと手加減もするので、魔物の群れに出くわした際は時間もかかり、道に迷って帰りが遅くなることもありはしたが……
「フラム……貴方もしかして、私のことを……」
気づけば彼女の腕の中で、男の子は寝息をたて始めていた。
マルゼスの視線が、天へと向かう。
斜陽の気配を見せ始めたそこには、小さな掌が伸ばされたままだった。
普通に考えれば、誰があの『熱線』を放っていたのか……この光景を前に戸惑うばかりだろう。
だが、マルゼスには確信があった。
「馬鹿ですね、こんな真似を仕出かして。親子揃ってそっくりです。ほんの少し目を離している間に大きくなってしまうところとか、そっくりです」
魔女が立ち上がる。
少年を腕に抱き、階下へと向かう。
「むにゃ……まるぜすさんは、ぼくがまもるよ……」
「はいはい。今日はもう寝ましょう。それと、今後は危険な真似をしないように。私の真似をするのは、金輪際禁止――ああ、いえ。もう、二度とやっちゃダメです。わかりましたか?」
「うん……おかあさんは、ぼくがまもってあげるからね……」
「――!」
むにゃむにゃと寝言を繰り返し始めた彼を、ぎゅっうと、ぎゅうっと抱きしめたまま。
「本当に馬鹿ですね。これだから、子供の相手は苦手なんです……」
沈む陽を背に、少年と魔女は帰路についていった。
これは後に『隠者の森』と呼ばれることとなる嘗ての魔境より、運命の少年が旅立つまでの安らぎの日々。
救国の勇者と謳われた魔女が再びその身を焦がし立ち上がるまでの、泡沫の時が垣間見せた一幕だった。
『君を探して 白羽根の聖女と封じの炎』前日譚
- 隠者の塔にて 少年と魔女 - 完