120. 銀の剣、黒胡桃の杖
「おかしい。人長が戻って来ぬ。これはなにかあったに違いない」
「奈落に落ちて戻れなくなりましたか。私と竜長であれば、術と翼で様子を探りに行っても戻ってこれるかもしれませんが……」
「いや……もしかしたらゼストさまにもうお会いして、自分だけ願いを聞き入れてもらったのかもしれんぞ」
「うむ。獣長の言うことも尤もよ。抜け目のない人の長のことじゃ。この杖にしても、儂らには扱えぬようにしておった。すべてがヤツの掌の上、という可能性もある」
人長が戻って来ないことに、他の種族長たちは不信感を募らせていた。
すぐに戻って来なければ、穴を塞いで欲しい。
そう頼まれていたのに、中々それをすることが出来ない。
最初のうち、それは奈落からの帰り道を残しておくためであったが……
奈落の瘴気がまったく溢れて来なかったこともあり、最早そのことも忘れ去ってしまっていた。
自分たちも、彼の後を追って奈落に飛び込むべきか。
そしてゼストに目通りして、己が願いを叶えてもらうべきか。
長たちがそんなことを思い悩んでいると、物音がしてきた。
「なんだ、この音は。人の足音か? 蓋の隙間から聞こえてくるぞ。もしや人長が戻ってきたか?」
「そうだな、そうに違いない。まったく、やきもきさせやがって。こちとら心配しすぎて、酒しか喉を通らなかったってのに」
「いえ……それにしては、足音が多すぎます。それに奥の方から、薄っすらと煙のようなものが……」
「お、おい! あれを見るんじゃ! 人長が通って行ったところを!」
突然のことに慌てふためく種族長たちの前で、音がどんどんと大きくなってゆく。
罅割れた隙間の淵に、誰のか手がかかった。
人の男長そっくりの形をした手に、しかし長たちは動けない。
真っ黒い……黒胡桃のそれとは比較にならぬほどの、闇色をした掌に。
彼らは怖れ慄き、叫び声をあげた。
「人だ! 黒い人の群れだ! 奈落から、這い上がって来ているぞ!」
「それだけではありません! あれは奈落の毒……瘴気です! 瘴気がどんどんと……ああ!」
「このままじゃ、あの気色の悪い連中が地上に出てくるぞ! はやいとこ蓋を閉じねえと!」
「しかしそれでは、人長の帰り道が……! せっかく酒宴の用意をしておいたというのに……ああ!」
あれよあれよと、彼らが取り乱している間に。
奈落の入口は、黒い人影と毒々しい瘴気で溢れかえってしまっていた。
堰を切るようにして流れ出てきた、災禍の波。
その中心に立つ一際大きな人影が、種族長たちに向かい口を開いてきた。
「長の諸君、出迎えご苦労。我が名は魔人王ノーシュ。魂絶神ゼストの命を授かり、諸君らの血肉を糧にこの地を魔人にて埋め尽くしに参った。いまこそ、終わることなき闘いを」
魔人の王を名乗るからの宣戦布告に、長たちは言葉を失い立ち尽くした。
それは突然現れた異形の軍勢に、彼らが怯んでしまったからではない。
種族長たちが耳を疑ったのは、他でもない。
魔人王の名が、彼らにとって旧知の名であったからだ。
ノーシュとは、彼らの盟友であった人の男長の名前だったのだ。
魔人王はそれきり長たちと言葉を交わすことなく、配下の魔人たちを解き放った。
空に立ち込めた瘴気は黒い雨となって地に降り注ぎ、数多の魔物たちを産みだした。
長たちは我に返り、彼らとの闘いを始めた。
雲霞の如く押し寄せる魔人の殆どは、彼らの敵ではなかった。
だが、魔人の王と、それに仕える魔人の将の力は凄まじく。
力ある長たちであっても、それを抑えることで精一杯だった。
やがて魔人と魔物が地に満ちると、種族長たちは退くことを余儀なくされた。
押し寄せる脅威から、それぞれの子らと領地を守らねばならなかったからだ。
魔人の王は、地上の至るところを戦場として荒れ狂い、多くの人の血が流れた。
否。
それは闘いなどではなく、一方的な虐殺だった。
まるでそのために生まれたきたかの如く、猛威を振るう魔人という存在に対して。
地上の人々は、あまりに無力だった。
種族長たちは急ぎ村々から生き残った子らを集め、それぞれ領土で最も堅牢な守りを敷ける土地に立て篭もり、再起を図った。
だが……長であるノーシュを失った人族だけは、それすら叶わず数を減らし続けた。
「人族への救援を送るべきでしょう。いまはノーシュの番いであったミシェラが長となり持ちこたえていますが、そう長くはないはずです」
「いや。その判断は早計だ、兎長よ。彼女のことは私とて気にはなる。だが、そもそもこの闘いの発端はノーシュにあるのだ。あの魔人王が、本当に彼であるかはわからないが……獣長はどう思う? 自慢の嗅覚で、わかることはなかったか?」
「悪いがあそこは毒気が強すぎてな……しかし、奴は俺たちのことを知っていた。それに瘴気は魔物を生みだしやがる。ノーシュの奴がその毒に当てられて、変わり果てたとしてもおかしくはないぞ」
「なんにせよ、ゼストさまの名を持ち出して地上を荒すなど断じて赦すことは出来んが……領土の広い人族に救援を送るよりも、各々が持ちこたえるのが先決だろうて」
魔人による突然の地上侵攻と、瘴気の脅威。
魔人王の正体。
彼らの神であった、ゼストへの不信感……
それらが綯い交ぜとなり、種族長たちの動きを封じていた。
人族の命運は、尽きたかに思えた。
そんな中、一つの報せが彼らの間を駆け巡った。
「人族の女長ミシェラが、ただ一人で魔人王と相対している」
誰もが耳を疑う報せだった。
魔人の王の力は、種族長たちが束になってようやく抑え込めるほどだったのだ。
周囲に侍らせた魔人の将の力も、無視することは出来ない。
魔人将がいなければ、魔人の群れを逃さずに済んだだろう。
地上全土にまで、戦火が広がることもなかったのだ。
ミシェラの行いは、正気の沙汰とは思えぬものだった。
だがしかし、彼女には理由があった。
これまで長たちが他言を控えていた魔人王の名が、魔人側から洩れたとすれば……
彼女が番の名を持つ者の元を目指すことは、当然の帰結とも言えた。
「もうこれ以上、待つことは出来ません。皆が止めても私は行きます」
「まてまて……気持ちはわかるが、早まるなよ兎長。これで俺たちが魔人の王に討たれでもすれば、地上は総崩れだぜ? そうなれば、誰がガキどもの面倒をみるってんだ」
「臆したか、獣長。そんなものはあちらを真似て、こちらも見どころのある子を『王』とやらを名代に立てればよかろう。ミシェラが逝くというのであれば、私も逝くぞ。彼女に神器を渡した手前、見過ごすことは出来ん」
「なるほど、『王』か。ならば『将』も力比べで決めてみるかの。それが終わったら、皆でまた魔人王の面でも拝んでやろうではないか。ま、魔人の王とやらに続いて、神でも出てきたら逃げるしかないがの!」
元より彼らは、我が子らの元から離れようとも考えていた身。
種族長たちは己の代理としての王を立てると、守りの要衝としていた町を預からせたのちに。
すぐさまミシェラの後を追うべく、飛び立っていった。
そして魔人の王が居城を構えていた奈落の淵にて、彼らは見た。
「ノーシュ! 愛しい私の番い! どうか目を覚ましてください!」
居並ぶ魔人の将兵に囲まれて、打ち合う男女の姿を。
ぼろ切れのように千切れた白い衣を纏い、黒胡桃の杖を握りしめた金色の髪の少女と。
黒ずくめの鎧を身を包み、銀の剣を手にした男の姿を。
繰り返される打と斬、そして魔と神の応酬を、彼らは目撃することと相成った。