112. 従士咆哮
「お、の……れええぇぇ!」
「ッ!」
亀のように丸まり急所を守っていたイアンニが、怒号と共に向き直ってきた。
それと同時に、石床の上に剣が落ちる。
一撃ぐらいは好きにさせてやる。
その代わり、どこを蹴られたとしてもその五月蠅い足を掴み捉えて、叩き折ってくれる。
青い瞳の奥で燃える屈辱の炎が、そんな決意を物語っていた。
そこを見計らい、俺は両脚に力を溜め込む。
数えて四度目となる、跳躍を果たす為だ。
だがしかし、今度のそれは回避の為の挙動ではない。
一度きりのチャンスを最大限に利用するには、これしかない。
敵の体で、唯一無防備な場所を攻めるため――
やるべきことは、攻撃のための跳躍だった。
「――せぁっ!」
僅かな助走に裂帛の気合を乗せて、跳び蹴りを放つ。
狙いは当然今度こそ、顔面一択。
重量差を踏まえても、当たり所がよければ気絶も狙えるであろう部位だ。
だが、相手もそれを素直に喰らってくれるわけもな……!?
「良かろう……!」
こいつ、マジか!?
「あ……ッス」
「はぁ……あの、馬鹿が」
観客席から、またもや従士たちの呆れ声が飛んでくる。
イアンニは……迫るこちらの靴底を前にして、不敵に嗤っていた。
計算外の、想定外の行動だ。
ぞくりとした悪寒が、俺の背筋を駆け巡る。
足裏には、鼻骨の砕ける鈍い感触。
それに僅かに遅れて、俺の右足首を、ヤツの右手が握りしめてきた。
「ぐっ……はは!」
気絶狙いの攻撃を真正面から受けきって、その美貌を己の鮮血と矜持の痕跡で染めながら――
「残念、だったな……!」
イアンニが、凄絶な笑みを浮かべてきた。
「それは――」
勝利宣言にも等しいその笑みを前にして、しかし俺は気を吐き、自由になっていた両腕を思い切り旋回させてゆく。
そうして生みだした遠心力で、僅かな間だけ宙に固定されていた体を一気に捻る。
「こっちの台詞だ!」
お返しの言葉と共に、俺は残る左の踵を、右の踵と揃えるようにして突き出していた。
「ぐ――」
続けてそこに、ぐしゃりとした肉の潰れる感触がやってくる。
遅れて、俺の全身が石床の上へと落ちた。
「ぐ……っ」
「ぐおおおぉぉぉぉッ!?」
絶叫と共に、イアンニが見つめる先――
そこにあったのは、鉄籠手に包まれた従士の指先だ。
遠慮の欠片もない俺の踏みつけを受けて、あらぬ方向へと歪んだ彼の指だった。
「き、貴様……初めから、これを狙って……!」
「だなぁ」
額に脂汗を浮かべるイアンニに、俺は短く返す。
「ま、足を掴みをくるのは予想してたけどさ……あんたが顔面で受けにきたときは、ヒヤッとしたぜ」
捻りの加わった踵蹴りの餌食となったのは、小指と薬指。
それを確認して、俺は床に手をつき立ち上がった。
「あそこで単なる有効打どまりで一本になってたら、指狙いには行けなかったからな……!」
「ぐぬ……!」
こちらの浮かべた勝利の笑みに、巨漢の従士が歯噛みを見せてきた。
作戦が上手く嵌ってくれた。
右の鎖骨に、握りの要となる右指二本。
金属製の防具であっても、痛打となり得る部位は存在する。
頭頂部とみせて、装甲の薄い鎖骨に。
足を取らせてから、装甲の上からでも潰せる指先に。
直接のポイントに成らずとも、それを囮に痛打を重ねる。
それが通用したということは……
やはりイアンニもまた、この戦いを試合として認識していた、という証左でもある。
これが実戦であれば、彼もこんな落ち度は犯さなかっただろう。
頑健な肉体と守りを軸に、多少の被弾など意にも介さず最初から相打ちに持ち込む。
それだけのことで、俺は成す術もなく叩き潰されていたはずだ。
だが――
「うーん。フラムくんってば、めちゃくちゃ足癖悪いッスねぇ。下手な武器よりよほど厄介ッス、アレは」
「獣じみたバネあっての代物だが……見た目よりパワーもあるようだな」
「そッスね。短剣投げは信頼性低いんで、引っかかったパイセンの落ち度ッスけど。にしても……指狙いはエグいッスね。あそこは利き腕で取りに行きますもん、逃がしたくないし。いやー、エグいッス!」
ハンサの横で、にこやかに先輩の失策を語るミグ。
おそらくではあるが……彼の存在が、イアンニに無意識下の重圧を与えていたのだろう。
後輩が一本止まりで敗れた相手に、一本も与えずに完勝する。
実戦では勝利が確実であろう相打ち前提の動きでは、それが難しくなる。
上手く有効打を躱してポイントを取れればよいが……最悪は、二本先取されて完敗だろう。
相打ちを避けたからこその、失策。
言い換えればそれは、俺がミグに勝利していたからこそ生まれたアドバンテージだった。
「先輩後輩ってのも、案外大変そうだな……!」
「うぬ……!」
僅かな睨み合いの後に、俺は横滑りに駆け出していた。
向かうは地対空の攻防で弾かれていた、短剣の元。
それを見て、イアンニもまた剣を手に取る。
痛みと怒りに震える手で、彼はそれを握りしめた。
「卑怯なり――などとは、言わぬ! すべては、貴公を侮っていた……私自身の招いたこと!」
怒りの矛先を己に、剣が構えられる。
無傷の左腕でそれをしないのは、慣れの問題以前の、彼の誇りからくるものだろう。
なんて言うか、色々と不器用にもほどがある。
あるけど……
実際にこういう人が先陣を切ってくれていたら、戦いの場では相当に心強いだろうとも思う。
戦場では公国の兵士を率いる立場にあるという、神殿従士。
イアンニ・カラクルスは、そうした者の鑑だと思える烈士だった。
拾い上げた短剣を逆手に持ち、俺は彼へと向き直る。
イアンニが、息を荒げながらも剣を振り上げる。
利き腕の鎖骨と指二本が、軋みをあげてそれを支えたように見えた。
姿勢を高く保ち、俺はそこに突進する。
大上段にされた剣が、それを迎え撃つ。
既にイアンニに、連続して剣を振るう余力はない。
出来たとしても、それが俺を捉えることはない。
彼に残されていたのは、優れたリーチと、ただ一振りを生みだすための膂力。
そして、戦士としての矜持だった。
剣閃が交錯する。
先に落ちてきたのは、縦一直線の剛剣。
冷たい石床を砕き散らしたそれを潜り抜け、俺は横一文字に疾る。
渾身の一撃と共に落ちてきたイアンニの首筋を、短剣の刀身が打ち据えていた。
「一本! 旅人、フラム!」
間髪入れずに響く、審判の声。
イアンニが片膝をつき、その場に崩れ落ちる。
「治療は必要ですか?」
「……不要です。まだ、試合は終わっておりませぬゆえ」
審判の呼び掛けに、イアンニが首を横に振る。
他の者は、誰一人として声を発さない。
戦う本人の意思がある限り、よほどの事態でなければ横やりなど入らない。
……俺からすれば重傷に見えていても、従士たちにとっては違う、ということなのか。
それともそれが彼らの流儀なのかは、俺にはわからない。
「了解しました。試合を再開します――」
わかるのは、試合がまだ続くという事実だけだった。
開始円を前に、俺は後ろめたさに囚われてしまう。
「両者、構え――始め!」
開始の声で、イアンニが剣を構える。
やはり、右腕だ。
俺が意図的に負傷させた側の腕だ。
だが、それがたとえ無傷の左腕に支えられていたとしても……俺が抱えてしまった後ろめたさは、消え失せはしなかっただろう。
リタイア負けとならぬために、治療抜きで次戦に臨む。
鎖骨に指、顔面への蹴り。
加えての、首筋への痛打。
すべて手加減する余裕など、俺にはなかった。
直前の一本も、相手が立ち直る前にと決死の思いで繰り出した渾身の一撃だ。
だからもう、それらすべてを受けたイアンニに勝ちの目はない。
それならば、せめて後は一撃で――
「イアンニ!」
横合いからきた声に、思考ごと視線が持っていかれた。
ハンサだ。
「従士魂だ! イアンニ! 貴様の意地、ここで見せてみろ!」
彼は長椅子から立ち上がり、誰の目にも憚ることなく声を張り上げてきていた。
「おぉ……!」
ハンサからの激励に、巨漢の従士が声をあげる。
歓喜の声をあげて、彼は俺の前に立ちはだかってきた。
仁王立ちとなったその手には、既に練習用の剣は収まってはなかった。
あるのは握りしめられた両の拳と、再び闘志を灯した青い双眸だった。
……え、ちょっと待って。
なんかこの人、いまの一言で蘇ってないか?
構えも、まるで別物になってないか?
シュッシュッ、って切れのいいジャブを繰り出すの、矢鱈と様になってないか?
いや、マジで待ってくださいって……ガチで想定外なんですけど!?