110. 反転攻勢
「後がないようだな、旅人よ」
巨漢の戦士、イアンニの声が試合場に響き渡る。
模擬戦が開始して以降、こちらはまだ一度も攻撃に転じられていない。
それに関してはルール上の問題はない。
だがしかし、その事実に俺は焦りを覚えてしまっていた。
今度ばかりは、流石にスピードでは分があるはず。
そこを軸に、試合の主導権を握っていけるはず。
ポイント制の戦いであれば、まともに打ち合わなければ勝負になるはず。
そんなことを考えていたのに、現実はこれだ。
ミグとの戦いを経て、少しは戦いへの気構えを掴んだつもりになって……このザマだ。
短剣を握る指先が、ガチガチに強張っている。
ジャラジャラと鎖帷子の鳴らしてくる間合いを狭めてくるイアンニを前に、委縮してゆく自分がいる。
このままでは、なにも出来ずに追い込まれるだけだ。
それは嫌だ。
これではフェレシーラから受けた治療も助言も、まったく活かせない。
かけられた期待に、なに一つ報いることが出来ない。
このままではいつか捕まる。
なにも出来ないまま、負けてしまう。
それならば……そんな醜態を晒すぐらいならば、いっそ玉砕覚悟でポイントを取りにいくべきだ。
狭まってゆく視界の中で、俺はいつしか両足に力を籠めていた。
……そうだ、落としてやればいい。
そんなに言うのであれば、その首級を落としてやる。
大声だけが取り柄のウドの大木を、叩き切ってやる。
二度と彼女の前で、俺を落ち首拾いだなどと――
迫る白銀の巨体に真っ向から跳びかかろうとした、その寸前のこと。
「う……ううーん……ッス」
狭窄しきった思考の片隅に、間延びした少年の声が紛れ込んできた。
視線が、無意識に横へと流れる。
白線の外側、長椅子の足元。
そこで茶髪の少年が、尺取虫のような体勢となって身を蠢かせていた。
「ふあぁ……あ。フラムくん、おはよーッス」
「え……あ、おは……よう?」
妙にフレンドリーなその声に、俺は首を傾げつつも返事を行う。
すると彼は、うつ伏せの上体で「スチャッ」と器用に手を挙げて見せてきて、
「あ――ヤバいッスよ! 前、まえッス!」
「へ?」
その声に再び前を向くと、そこには銀色の巨体と、大上段に構えられた剣とが間近にあった。
「聖伐!」
「ぉわっ!?」
わけのわからぬ気合の叫びを耳に、俺は体を右前方へと投げ出していた。
それと入れ替わるようにして、「ガィン!」という耳障りな音がやってくる。
鉄と石とが弾ける、衝突の音だ。
脳天から一直線に放たれた剣閃が、石床に敢え無くフラれた拒絶の音だ。
「ぬぐっ……!?」
ジンと震える鼓膜へと、イアンニの声が遅れてやってくる。
避けた。
脳天からの打ち下ろしだ。
直撃すれば、死んでいてもおかしくない一撃だ。
でも避けられた。ダメージはない。
まだなにも失ってはいない。
その結果を足掛かりに、うつ伏せとなっていた体を起こす。
白線の内側ギリギリに滑り込んでいた体を、俺は無理矢理に立たせた。
「いや……いやいやいや。ないだろ……! 幾らなんでも、いまのはないだろ……!」
そしてそのまま開始円を目指しながら、首をブンブンと横に振る。
イアンニの放った一撃に戦慄しながらも……俺は正気に戻っていた。
一体、なにを考えていたのだろうか。
玉砕覚悟でポイントを取りに行く?
刃のない得物で首を落とす?
ありえない判断だった。
あのまま跳びかかっていれば、良くて正面衝突で弾き飛ばされて場外行き。
悪ければミグのように気を失ってリタイア負け。
最悪は、剣で頭をカチ割られていただろう。
そうなれば、いかにフェレシーラがいるとはいえ命の保証はない。
わざわざ自分から死ににいくような真似まで、フォロー出来るはずもない。
視野狭窄に陥っていたとしても、限度というものがある。
普通に考えてみれば、こちらの短剣が相手の首筋に届くわけはないのだ。
あのタイミングでミグが起き上がってこなければ、少なくとも無傷では済まなかっただろう。
「おおー……なんとか切り抜けたッスね、副従士長!」
「……お前は誰を応援しとるんだ。状況がわかってるのか?」
見れば、にこやかに話しかけてくるミグに、ハンサが呆れ顔を見せていた。
「もちのロン、ッスよ! 自分、フラムくんに負けたんスよね? いやー、初見で頭突きにカウンターは激ムズッスね! 今度練習に付き合って欲しいッス!」
「わかった。イアンニから兜を借りておこう」
「はっ! 副従士長の御命令とあらば……このイアンニ、秘蔵のコレクションを解放いたしましょう!」
「……お前は試合に集中していろ。そら、いまので小僧が生き返ったぞ」
「ぬ……!? まだ殺してもいないのに、生き返ったとは面妖な……!」
疑問の言葉を口に、イアンニがこちらに歩み出てきた。
なんか……神殿従士って凄い人多いな。
というか「まだ」って言うな。「まだ」って。
これが試合だっていうの忘れてないか、この人。
……いや。
忘れていたのは、むしろ俺のほうか。
「頑張るッスよー、フラムくん! パイセンは盾なしだと守るの下手くそッスからね! 攻め攻めで崩してポイント稼ぎがおすすめッスよー!」
「……りょーかいっ」
観客席からやってきたアドバイスに、俺は短く了承の言葉を返した。
元気いっぱいなその様子を見るに、俺から受けた頭突きの影響はないだろう。
とはいえ、彼は一応俺に負かされた身だ。
そのミグが、どうしてこちらの肩を持ってくるのかまでは、いまいち理解できなかったが……
少なくともこの試合においては、スピードではイアンニに負けていないのだ。
ここは彼の言うとおりに、積極的に攻めてリズムを作っていくべきだろう。
上唇を舌先で軽く湿らせて、短剣を低く構える。
ガチガチになっていた両肩から、無駄な力が抜けていくのがわかった。
体を縦に揺らして、その場でステップを刻んでみる。
それだけのことで、頭の天辺から爪先までのすべてが、羽根のように軽く感じられた。
思い切り動けるという感覚が、全身を包んでゆく。
戦うための算段が、頭の中を駆け回り始める。
「ぬぬ……何故だ、ミグ! 何故、私の弱点を旅人に伝えるのだ!? 貴公、なにを考えている!?」
「なにをって……そりゃーフラムくんがパイセンに勝ったほうが、落ちないじゃないッスか! 俺の格ってヤツが! 自分が負けた相手が勝ち続けると、なんかこう、気分的に!」
「……成程! 従士長と副従士長が勝ち続けると、私が嬉しいのと同じということか! 理解した! 感謝するぞ、四級神殿従士ロードミグ! ならば存分に、旅人を応援するがいい!」
「了解ッス!」
……前言撤回。
肩の力が抜けすぎるってのも考え物だなこれ。
危うく握ってた短剣、落としかけたぞ。
そういえば教会に行ったときも思ったけど、聖伐教団には階級制度があるんだな。
さっき戦ったミグが四級。
目の前にいるイアンニが三級。
最後に控える、副従士長のハンサが二級。
そしておそらくは、従士長のカーニンが一級神殿従士の称号を冠しているのだろう。
それが直接的に、戦闘能力の優劣に繋がるかどうかはわからないが……
いま戦っているイアンニの恐ろしさは、肌身をもって思い知らされたばかりだ。
パワー、リーチ、タフネス、そしてメンタリティ。
そのどれもが非凡であり、努力によって磨かれた武器だといえる。
性質の差こそあれ、総合的な実力はミグを上回るだろう。
間違いなく強敵だ。
でも……大丈夫だ。
ここまで逃げ回っていたことが、無駄なわけではない。
攻め入るための切っ掛けは、既に頭の中で構築してある。
展開すべき方策はイメージ出来ている。
だからあとは……フェレシーラに分けてもらった力を、思い切りぶつけるだけだった。
「む……貴様、なにを笑っている! いまは勝負の最中だぞ!」
「うん。そうだな。たしかに、あんたの言うとおりだ――なっと!」
イアンニが突きつけてた長剣の、その切っ先を狙うようにして――
俺は刃の無い短剣を手に、従士の懐へと身を躍らせた。