番外編3 遷神暦百四十六年 ラ・ギオ東部孤島にて
三人称形式 前日譚の更に過去となるお話です
闇を見上げる中、一粒の雨が彼女の頬へと落ちてきた。
闇。
星一つ瞬くことない、無明の闇。
そこからぼたぼたと大粒の雨が落ちてくる。
視えぬ雲霞の合間で、刹那の時だけ雷が瞬いた。
そしてそれきり、物言わぬ闇へと戻る。
二年前、あの日もそうだったと彼女は記憶している。
ラグメレス王国の片田舎で、今と同じく一人こうして星の無い空を見上げていた。
なにも変わってはいない。
まだ自分はすべてを失ったままだ。奪い尽されたままだ。
春雷吹きすさぶあの闇の中、奴らにすべてを奪われた。
父も、母も。温かな故郷も、幸せな生活も。一夜にして奪い尽された。
そしてまたも、それは繰り返された。
自分には、もうなにもない。
ならば――今の自分に、やるべきことはただ一つ。
そう思い、彼女は視線を地に落とす。
足元には愛用の三角帽子が転がっている。
その脇には、骸が一つ。
白い法衣を纏い、眠るように地に臥した赤い髪の少女。
十二の誕生日を一緒に祝ってもらったばかりの自分よりも年上の、でも年下の少女の脱け殻。
そこに彼女は膝をつき、手を伸ばした。
真紅のローブの裾が、物言わぬ亡骸に触れる。
「ごめんね。約束、守れなくて」
少女の髪を掌ですくいあげて、彼女は言う。
さらさらと零れ落ちるそれを、じっと見つめる。
生き写しの如く己のそれと似通った、長く美しい真っ赤な髪。
彼女が父より受け継いだ、しかしまったく異なる色をした、人としての証の……その紛い物。
鍔つきの帽子を拾い上げて、彼女は立ち上がる。
金と銀、一対の瞳が静かに伏せられる。
途端、周囲の闇がその色濃さを増した。
『ミツ、ケタ……』
闇が音を発する。
人ではないものが無理矢理にそれを模倣した、耳障りな異音。
闇が尚も密度を増す。
彼女を取り囲んできた闇の数は六つ。
或る者は頭から蛇を生やし。
或る者は岩の如き肌をもち。
或る者は鋭い牙と血のような瞳を備え。
或る者は見上げるほどの巨躯を誇り。
或る者は四つの腕を蠢かせて。
彼女の瞳が再び見開かれる。
「――臆病者め」
金銀異彩の双眸が、それら五つの闇を一瞥して、睥睨する。
既に彼女の身体は宙にあった。
『ヨ、コセ』
ぎぃ、と耳障りな音を立てて闇がいきり立つ。
呪毒を撒き散らして蛇が迫る。
岩盤の如き剛体が押し迫る。
鋭牙を剥き出しにした襤褸が迫る。
天を見上げた巨躯が迫る。
どす黒い二対の腕が迫る。
その一つ一つが歴戦の勇士を一撃の元に屠り去る威力を秘めている。
それが暴威の渦となり彼女の元へと押し寄せて――すべてが、一瞬にして地より噴き出でた火柱に呑み包まれた。
「天に聖業、地に誅伐――遍く地平に、汝ら魔を導く灯はなく。須らくしてその悉く、無間の劫火にて灰燼と帰せ」
虚空にはためく真紅の礼装へと、火に包まれた五つの闇が尚も迫る。
その光景を眼下に置き、彼女は嘆息した。
後付けの詠唱に従い、五つの火柱がうねり吹き荒れる。
まるで地に臥した少女からすべての闇を遠ざけんとするように、轟轟と燃え盛る。
「やはり無駄ね。お前たちに苦しめと言ったところで」
ぼそりとした呟きに、赤い髪が揺れる。
風が吹く。
彼女が支配していた空間を起点に、内から外へ。
理外の風が、赤い髪を巻き上げる。
「――不定術法式全起動。アトマ同調支援承認。霊銀体結合開始――」
赤が燃える。
術者のアトマを糧に燃え盛る赤熱したそれが、無明の空までもを焦がし照らして、白銀へと染める。
白銀にそまりし赤。
彼女の内より湧き出でた魂源の力が、そのすべてを銀色で塗り潰していた。
「――見つけた」
魔女の瞳が標的を捉える。
金は蒼に、銀は赤へと変容した双眸が瞬く。
魂を絶する力を――魔人の力を、その存在そのものを、射ぬくようして瞬いていた。
既に彼女の視線は、地で蠢く消し炭同然の影に向けられてはいない。
既に彼女は『聖伐の勇者』が焼き尽くすべき、獲物を探し終えていた。
魔女の左手が掲げられる。
そこに生まれしは焔の錫杖。
八つ連なりの緋翼を纏う、秘術の女王が証。
勇者の右手が振るわれる。
それが招きしは滅びの煌めき。
無音の閃光が真円を描き、闇を薙ぎ払う。
場に静寂が満ち始める。
魔人であったものの名残り、灰と塵とが熾火の如く、パチパチと狂い爆ぜては風に溶けてゆく。
ふたたび彼女は、星の無い夜空を見上げる。
ぼたりと、大粒の雨が落ちてきた。
冷たい夜の雨。
それまでの静けさが嘘のように、ざあざあと音をたてて地へと降り注ぐ雫の群れ。
白銀と化した魔女が、空を見上げ続ける。
煌々たるアトマの輝き包まれた彼女が、その雫に濡れることはない。
そのすべてが真紅の礼装へと達することなく、燃え尽きるのみだ。
ただ一つ、彼女の頬を伝うそれをのぞいて、だが。
錫杖に火が灯る。
折り重なり休まるようにしていた羽根が、四炎一対の両翼と化す。
「それじゃあね。ニア」
焔の錫杖を手に、彼女は――『煌炎の魔女』マルゼス・フレイミングが別れの言葉を告げた。
目指すは此処より遥か西、廃都ラグメレス。
魔人共の根城と化した魔の巣窟、簒奪の地。
狙うは魔人の将ニーグ、その首級。
薙ぎ払うは、阻まんとする者すべて。
聖なる力にて、魔を伐せよ。地より打ち払い給え。
ぐらぐらと煮え立つ白銀が、絶え間なく、容赦なく、それだけを命じてくる。
使命を果たすその時まで、彼女が人に戻ることはない。
「……ありがとう、ニア。さよなら、お母さん。例え嘘でも、幻でも、あなたの気持ちがうれしかった。あなたと逢えて、幸せだった」
これより先、振り向くことはない。
否、振り向くべきではない。
振り向けば、きっと自分は一歩も動けなくなる。
彼女の亡骸に縋りつき、最期に遺された願いすらも放り出してしまう。
「だから、なにを引き換えにしても、あなたの願いだけは叶えてみせる。あの子だけは必ず、私の手で……」
なので彼女は、羽ばたく火箒の上より呟くに留めた。
「――いってきます」
星なき夜を、泣き虫の流星が駆け抜けた。
『君を探して 白羽根の聖女と封じの炎』番外編
遷神暦百四十六年 ラ・ギオ東部孤島にて 完