第28.5話 変わり者の過去
「今日から、皆といっしょにお勉強をする先生です」
「二週間と短いですが、よろしくお願いします」
一年二組の教室を、見渡す。
すると、1人の生徒が目に入った。私にどんな形であれ、意識を向けている生徒と先生の中、その生徒だけは少し違った。私の方を見ているが、どこか違う方に気持ちがあるかのような、不思議な少年だった。
いつも、その少年は体育の授業を見学する。体力がないらしい。
今日も今日とて、花ある運動会をテントの下で過ごしていた。勿論、いつの間にかこの少年のお付きと認知されつつある私の隣で。しかも、なぜか少しいつもより不機嫌そうに。
大玉送り。それは午前の部、その最後で団体競技だ。全学年の生徒をクラス別に分け、4、5列に並ぶ。その上に大玉を持ち上げ、落とさずにより早く、最後尾まで送ることができたチームの勝ちとなる。シンプルながらもリレーに続いて盛り上がる。
ただ、その一大イベントの直前、急に雨が降ってきた。5分もたつと、雨粒はかなり大きく、それはもうシャワーのようだった。しかし、学校側としては午後からの部の競技は別日に繰り越すとしても、中途半端に大玉送りだけを残すのは裂けたかったのだろう。
結局、強行突破することになった。
大玉送りは唯一、彼も参加できる競技だった。そのため、勿論入場門でずらっとなされた列に溶け込んでいたのだが、徐々にだが、確実に顔色が悪くなっていた。
「顔色が悪いですよ。テントに戻ったほうが良いんじゃないですか」
「ううん。大丈夫です」
しかし、彼はふるふると湿った髪を振る。それも、強がりにも見えない、なんでもない顔だ。
「いえ、でも」
そう言われてしまえば、私も強く出れない。そうこうしているうちに、入場曲が流れてきた。
「ほら、先生。もう行くみたいです。」
「頑張ってください」
その後、心配になった私は退場門で待っていた。すると、案の定、彼はふらふらと出てきたかと思えば、ドテッと転けてしまった。
ちゃっかり、先程担任に彼に何かあったときのことを頼まれたていた私は、それに従う。
「あー、先生ごめんね。私たちもこの雨だから、他の生徒たちとか後片付けとかがあって…。彼のこと、頼んで良い?」
雷がなってきた。私は彼を背負って、小走りで校舎に向かう。保健室の場所は把握しているものの、道具までは知るはずもない。保健室に一歩も入ったことがないというのに、滅茶苦茶だ。
ただ、保健室は綺麗に整頓されて、すぐにお目当ての体温計に絆創膏、消毒液といったものは見つかり、素早く手当てができた。最後に、泥だらけの体操服を畳み、ビニール袋に入れて終了だ。
───ピカッッ
───ゴロゴロゴロッ、ドーン
凄まじい雷の音がなった。外の生徒や先生たちは、もう中に入っているだろうか。
すると、彼は突然バッと跳ね起きた。雷の音で目が覚めたのだろう。うなされていたし、朝は不機嫌そうだった。もしかしたら、雷には嫌な思い出があるのかもしれない。
「目が覚めましたか?」
私は彼のおでこに手をあて、測る。かなり熱かった。とりあえず、目を閉じ、眠らせようとする。
「熱がありますね。保護者の方と連絡が付くまではゆっくり寝ていてください」
「ほ、ごしゃ?」
その時、また雷がなった。
───パーン
私の手は勢いよく振り払われた。彼の小さな手によって。
「やっめて! こ、ないで。 やだっ!! うわああぁぁぁぁ」
その後は、もう大変だった。体力がないと言ったのは誰だったか。その華奢な身体でどうすれば、そんなに動けるのかというくらい、大暴れ。
私が不用意に近づいたのも不味かった。運動や楽器をほとんど触らないヒナギの長い爪はかけてしまっていた。それが私の額をガリッと撫でた。
なんとか収まると、私は「はぁっ」と息をつき、口を噤んだ。血の味がした。額から垂れる血が口に入ってしまったのだろう。今度は自分の手当てをしなくてはならなくなってしまった。
彼はあの件は覚えていないらしい。何事もなかったかのように、穏やかな日々が流れ、いよいよ、明日は教育実習の最終日だ。
その日、放課後に明日の授業に向けての準備をしようと教室に来た。担任の先生は一年生の主任も受け持つため、会議に呼ばれたらしく、不在だ。
ふと、教室を見渡すと、彼がいた。
「あ…まだ下校していなかったんですね。もう日が暮れてしまいます。早く、帰りましょう」
「先生。その包帯、どうしたの?」
なぜか、彼は今更、そんなことを聞いてきた。
「ああ、これは。少し怪我をしました。」
「…。嘘つきですね」
「…どうして、それを?」
「3年生の人たちが教えてくれました。先生のファンはここにたくさんいるから」
そう言えば、3年生のとある男の子があの後、捻挫したとかで訪れていた。その時に見られたのだろう。それも、保健室の先生が忙しいからと押し付けられたのだった。
「気にしなくていいですよ」
「…先生。家、どこですか」
うん? どうやったら、そういう質問が来るのか、理解できない。
「そういうのは個人情報って言って、大切なことなので、簡単に人に教えたり、聞いたりしちゃいけませんよ。それで、家には帰らないのかな?」
「……。」
「先生、明日授業するんですよね。だったら、僕が生徒役をします」
「えっ、君は早く帰らないと」
「いいから、さ、どうぞ」
彼は今日はきちんと私の方に意識を向けてくれていた。相変わらず、変わった子だが、今は全てが理解できないとは思わない。
「良かったですよ、授業」
「…先生。僕、8時までは家に帰れないんです。」
「どうして…」
「僕、養子なんだよ。里親の僕を合わせたら13人子どもがいて、皆それぞれ仕事がある。僕は株の運用とか、時々来る大企業からの仕事とか、他の子たちは家事とか、絵や漫画を描いたりだとか。お母さんは立場上のお母さんっていう役割がある。ノルマが与えられるんだ。達成できなかったら、施設に送り返される。でも、達成できたら、お金ももらえるんだよ。生活に必要なものは最低限、揃ってるし」
「そう…なんだ」
「先生、知ってるでしょ。僕が雷が嫌いなの。去年のちょうど今日。僕が覚えてる中で、はじめて外に出たんだ。その時、僕は雨が降ってきても、帰りたくなくて、公園に連れてきてくれたおばあさんを困らせちゃったんだよ。僕たちは外に出たことなんてなかったから、風邪をひいて、お母さんが怒ったんだ。」
彼の小さな肩が小刻みに揺れる。でも、私は止めなかった。彼が聞いて欲しがっていたから。
「お母さんは感情をそのまま振り回すような人じゃない。でも、気持ちをコントロールできるからこそ、その発散方法も分かっちゃう。お母さんは僕たちを殴るなんてしなかったんだよ。その代わりにおばあさん1人に全部…。そうして、僕たちにトラウマを植え付けて逆らえないようにしながらね。」
誰が7歳でありながら、ここまで冷静に分析できるだろうか。彼は物分りが良すぎる。
「助けてほしいですか?」
私は念の為、彼に聞く。
「ううん。大丈夫。僕は怖い。お母さんのことが。でも、僕に今の仕事をくれたのは、楽しくて、いっしょうけんめいになれることをくれて、夢中になれる場所をくれたのはお母さんだから」
「他の子たちは助けてほしいかもしれませんよ」
「ううん。みんな、お母さんからは逃れられないと思ってるんだ。だから、今、無理やり、この毎日を壊すんじゃなくて、大人になって、余裕ができてから、自分の好きなようにするほうが良いと思うんだよ。」
「…そうかもしれませんね」
「先生、家はどこですか」
とっくに算数の授業は終わったのに、まだ帰りそうにないヒナギはもう一度、同じ質問をした。ただ、今度はそれの意味が分からないわけがなかった。
「ここから歩いて15分です。行ってみますか?」
「うん。先生、お願いします」
それから1週間ヒナギ君が私のもとに通い続け、イアリングを気にしていることに気づいた。
祝われたことのないヒナギ君のお誕生日と運動会の打ち上げを合わせて、たった2人でした。その時にイアリングをヒナギ君の耳につけてあげると彼は、はにかむように微笑んだ。
「ありがとう、せんせ。あっ、そうだ。先生、写真を取ろうよ」
「…そうだね。たまには、写真も」
「たしかに、先生の家には写真、1枚もないね。それどころか、ロック画面もそのままだし。」
「ああ、私は写真はあまり好きじゃないんだ。そのイアリングも母からの誕生日プレゼントだったんだ。」
写真を見ると、その時以外のことも芋づる式に思い出してしまうから苦手だ。
そう言えば、イアリングは唯一母にねだったものだった。当然、一緒に買いに行くなどと言うことはせず、朝起きるとラッピングされたものが、いつもどおりの手紙とリビングに置かれているだけだったが。
「ヒナギ君。まさか、その服で取るのかな」
「え? 何か、おかしい?」
ヒナギ君はジャージを持ち上げ、首をかしげる。
「ヒナギ君。何にも無関心なのは問題です。宿題としてイアリングに似合う服を自分で買うこと。お金はこれだけあったら、大丈夫ですか?」
「ううん。いらない。自分で買いたい。絶対、せんせを驚かせてみせるからね!」
───ハイ、チーズ
「───さん、来月の付録の特集の件なんですが…その子、お子さんですか? 可愛いですね」
「ああ、すみません。この子ですか。私は独身なので、子どもではいないです。元、教え子ですね」
「あーっ、そう言えば、昔、小学校の先生をやられてたんでしたっけ」
「教育実習だけですが」
「あっ、すみません。呼ばれてるみたなので、行ってきますね」
「はい」
「…そう言えば、あれからずっと写真を取ってなかったんだ」
すみません。この外伝は後一話だけですが、作者の事情で、一週間ほど休載になります。それからは、また3日に1話、少なくとも1週間に1話は更新する予定です。少々、お待ち下さい。




