グリッド移動小旅行
この国では犯罪が多かった。しかしこの雑多で活気溢れる街並みを一目見ようと、外国人旅行客の訪問が後を絶たない。それに僕も旅行しに来た外国人の一人だった。地下鉄のホームで見慣れないダイアグラムを待っていて、ちょうど知らない男から新聞を買うよう話しかけられているときだった。男はとにかくこちらに新聞を突き出してきた。汗まみれのセールストークを披露する男の下ろした手にはトートバックがかかっていて、僕はほとほと困りながら視線を泳がしたその先に、トートバックの中から細い腕が伸びてくるのをみてしまった。それは子供の腕だった。新聞の男は僕の気を惹きつけるべく喋り続ける。子供の手は僕のポケットへ徐々に近づいてくる。僕は子供の手が届くよりも先にポケットから財布を取り出す。
「これだけですけど、あげますから。もう止めてください」
「……。」
僕はまた財布をポケットにしまう。
二枚の金を差し出された男はしばらく押し黙ったのち、素早くその手中に収め、僕に新聞を差し出した。当然僕の言葉は通じていなかったのだ。男は単に僕が新聞を買ったと思ったのだろう。僕の出した金額は新聞一冊にしては多過ぎで、むしろ善意として何も受け取らない方がこちらとしては得した気分になれた。だが実はこの新聞というアイテムはこの瞬間においてだけ、3人の呼吸を自在に操っていた。男が差し出す一冊の新聞に、僕が遠慮するジェスチャーをみせている水面下で、トートバックの子供がまだ僕の財布を追いかけたままだった。きっと見事な手際だったのだろう。僕は新聞を買わないで済んだあと、乗った電車で揺られているうちに気が付いて、すでにどうしようもなかった。
そんな旅先の悲劇のあと僕は、ナツメグのにおいのする交番でパイプイスに座って、警官の対応を待っていた。ここでは乱雑な管理のもと書類がテーブルに曝され、見ても僕はそれにどの程度の重要性があるのか分からなかった。せいぜい知らない言語の書類というのはそれだけで、書類の構成まで目新しく映る、それだけだった。同時に、延々と座って待たされる経験は身近すぎた。旅行気分はどこまでも薄れていく。筆記用具立ての鉛筆の芯の先を見つめ、天井方面には古い型のテレビで映像を長しっぱにしてある。テレビの音の方を見上げる。四隅に置かれたテロップに、浜辺で血だらけのクジラが横たわっている画面だった。ニュースみたいな急かされる雰囲気はなかった。ドキュメンタリーか。いずれにせよ国営放送の上品さ。今回の旅行らしい記憶といてばそれくらいだった。国営放送によるクジラの事件と、知らない国の受信料を僕は払っていないという事実だけが、ギリ僕の心を旅行へ連れて行ってくれた。僕のケツはいつまでもパイプイスの上に貼りつかされていた。
始まりはクジラの吐しゃ物だった。未明の空、浜辺に打ち上げられたクジラは工業由来の毒に侵され、地上でのエラ呼吸の苦しささえも薄れながら大口から半固形の黄緑色を垂れ流し続けていた。現場のまわりはヤドカリも避けて通った。地元の子なのか、少年はクジラに駆け寄って瀉血をしてやっていた。噴出する血液はネバついた鉛色。血圧におされ傷口から弧を描いて飛び散り、そのアーチの奥で海は静かに、落ちて楕円のたまり場をつくると覆いかぶさった海の波にさえ洗い流せない重量感で砂浜のうえにしがみ付いていた。吐しゃ物の表面に現れた泡が急に破裂して消える。その観察結果は砂の中に住む微生物を予感させる。窒息はこの場のクジラだけのものでもないのかもしれない。無力感に立ち尽くす少年は瀉血を中断するための手はずを用意していなかった。クジラの瞼がみるみるうちに力を失っていく。血液も勢いを落としていく。太陽は昇って浜辺一帯を照らすと、罪の意識から少年はクジラを見殺しすると決めさっさと自分の家に帰ってしまった。彼の逃げる際、砂の足跡は吐しゃ物と血液の下に隠れた。それは混ざり合って新しい化合物を生み出し、無味無臭の気体がビーチ中に立ち込めてくる。その成分配合はクジラの体内において、内臓という壁によって遮られていただけだった。クジラの死んだ今、実験は神様から許可の下りた人間たちの娯楽だった。だが潮はこれから満ちてくる。クジラの流れ着いた体を連れ去られてしまう前に、この街の誰でもいいから遊びつくすべきだったのだ。混ざり合ってできた新しい化合物を、思いきり吸い込んでみればよかった。死んだもの、生まれたものはすぐに逃げて行ってしまう。早く今のうちに捕らえて、実験という僕たちの特権を永遠に保管しておく何か術を施すべきだったのだ。でも日曜日だった。誰も早起きなんてしたくなかった。全員うかうか眠っていた。すると水平線のところにトビウオの葬儀屋がみえた。真っ黒のスーツを着て、吸った水の重ささえ感じさせずに飛び跳ねまくって、遠くからクジラめがけて葬儀屋がやってくる……もうそいつらに連れていかれたよ。クジラの体はもう浜辺から消えてしまった。時間切れだ。これで間違いなく街の学生一人分の研究題材が途絶えてしまった。不合格はすでに日曜の朝に決まっていた。僕は考えていた。日曜の朝日で一杯の頭をカラカラに絞り尽くし、劣悪なパイプイスに座って、天井のすぐ下の位置に置かれたテレビを眺めていた。もう夕方だった。交番はもう閉まる時間だった。僕は何も取り戻せず、何もしてもらえず外へ追い出された。一応、ホテルは事前にネット決済してあるから泊まれるとはいえ、これからどうするべきか。現地の通行人は僕の顔をときどき見やるだけで何も答えず歩いていた。薄い唇を強くつぐんでいる、そういう顔つきがこの国の人たちの特徴だった。赤すぎる夕暮れに溶けるような影が伸びて次第に夜を告げた。金のない者に歩く以外の手段はなかった。目的のホテルまで……、もう扉がみえている。残りは一歩ずつを踏みしめていく。受付でカギを受け取ると週終わりに似た高揚感によって部屋まで一直線だった。一先ずは疲れを癒そうとベッドに腰をかけると窓に何か沢山のものが当たる音がしてうるさかった。カーテンをめくって確認してみると、隣国から飛来した大量の蛾が窓に激突して落ちて、常夜灯の点いたベランダが一面繭で白かった。