タコの亜種
「いいじゃん奢ってよ。女はね、化粧とか服でいっぱいお金使ってんのよ。」
「だから、奢るのはいいけどよ、その理由が気に食わないって言ってんだ。せっかく化粧して可愛い服も着てるんなら、こっちが気分よく奢れるように振舞ってみろよ。化粧をするのもいい服を着るのも、そのためのもんだろう?」
嫌な男女の会話が聞こえたのは、僕がレジで会計を済ませた直後だった。二人は喧嘩になる寸前のムードで、僕はそうなる前に、足早に店を出て行った。あとから気が付いたが、三百円のお釣りをもらい損ねていた。
というのも、それ以上に重大な事態が、僕の身に起こったのである。会計のときにはまだ店員が驚くような素振りもなかったので、おそらくその後、店のドアを過ぎてからの一瞬でそうなっていたのだと思うが、向かいのショウウィンドウに映る僕の頭が、ぬらぬらで赤茶色なタコに変わっていた。
とはいえ、鏡ではなく窓に映った姿だったから、初めこそ見間違いだと思いはしたものの、その驚きと同時に吐き出したスミが、僕のスニーカーをハッキリと汚したので、これは信じる他ないということになったのだ。
「困ったな。」
独り言が漏れるということは、どういうわけか喋りは可能である。それに、タコを象徴する八本足だって、違和感なく従来の手足と同じように動かすことができた。問題は、その八本足が、服や地面に粘液を垂らしてしまうことくらいで、たとえば息ができないとか、日差しが苦しいとか、そういう命に関わるようなことはないようだった。
「おい、あれタコだよな。」
誰かがそう呟くのが聞こえ、見渡してみると、作業着を着た二人組の男たちがこっちをじっと見ていた。浅黒い日焼けをした方が、僕に見られていることに気が付いて、とうとう声を荒げて言った。
「タコじゃない。タコ人間だ!」
これを皮切りに、騒ぎは一斉に広まった。大人は一歩も二歩も距離を取って様子を伺い、逆に子供は喜んでしまって、走ったり恐る恐るだったりで、タコ人間である僕のところに近寄って来た。中には親に引き留められる子もいたが、それを振り切ってしまうほどの熱狂具合なのである。
「死ね! タコ野郎!」「なんで陸に上がったの。」「すごい、ぬるぬるだ。」「ぎゃははは。」
「やあみんな。集まって来てくれてありがとう。初めまして。握手をしよう。」
素直に手を差し出す子もいれば、決してパンチとキックを止めない子もいた。
僕はわけが分からなかった。こんなセリフも、握手をすることも、全部自分の意志ではなかったのだ。僕の頭はタコとすり替わってしまった、つまり僕の脳はタコに乗っ取られてしまったのだろうか。しかしそうだとしたら、今この光景を目にし、狼狽えている僕は一体何者なのか。ますますおかしな事態である。
「大人の方々も、そう怖がらないで。僕は危害を加えるつもりはないし、肉食と言っても魚介専門だ。どうか安心して欲しい。僕はただ、これから海へ向かおうと思っている。なんだか無性に海へ行きたくてたまらない。あるだろう、君たちにだってそういう日。それにはここから東へ向かうんだけど、人混みを通るために、まずはこのタコ頭を隠す必要があるんだ。」
そう言ってタコ人間は、八本足のうち左右二本で、自分の頭を指さしてみせた。
「またこんな騒ぎは起こしたくないからね。そうだな、僕は壺が好きでね。この近くで壺屋を知っている人はいるかな。」
これに対し、タコ人間の近くに寄って来ていた一人の子供が、元気よく名乗り出た。
「ぼくんち。ぼくんち壺屋だよ。父ちゃーん。」
「はい! わたくしでございます。壺屋でございます。店はほんとにすぐそこでございます。ですからどうか……。」
「ははは、そんなに声を裏返して。じゃあ、適当に壺を持ってきてくれないか。値段はいくらのでも構わないから、とりあえず僕のタコがすっぽり入るサイズを頼むよ。」
「へい、ただいま!」壺屋は急いで家に帰り、次に現れたときには壺を胸に抱いて、何度か転びそうになりながらも戻って来た。
「こちらでどうでしょう。うちの店でもこれ以上の壺は扱っておりません。商人として、絶対の自信を持ってオススメする商品です。」
「ああ、いいんじゃない。それもらおう。いくらかな。」
コイツ、僕の財布を取り出しやがった。
「いえお代だなんて、滅相もありません。タコ様、でもうちの子だけは、どうか助けてやってください……。」
「あ、そう。タダでくれるんなら貰っておこうかな。」
僕の財布を出すもひっこめるも、タコ人間は我が物顔で、さっそく受け取った壺を頭から被った。タコ人間はこれに大変満足したようで、壺の中から籠った声で、「我が家ここに発見せり! 居心地よすぎるう!」と感激し、さらには高笑いを上げ、そのまま東の方角へと向かい始めた。どうやらタコ人間は、潮の香りを頼りに海まで向かっているらしい。それが理解できるくらい、僕にもその匂いが香ったのだった。
壺のせいで視界はないが、タコの足は周りへのセンサーになっていて、通行に困るようなことはなかった。むしろ、周囲の視線を気にしないで済んだから、こうして目的地である海までスムーズに辿り着けたのだった。浜の上に立つと、海の香り満開である。
到着して間もなく、タコ人間は文字にならない叫びをあげながら、海へと突っ走った。そして地面を蹴って海へダイブすると、思いきり体勢を崩してしまい、頭から海面に落下した。底に衝突して、被っていた壺が割れたのは当然で、その衝撃とともに僕の意識は遠のいていった。ここからずっと遠く、雲よりも空よりも高く、そのまま富山県のある市立中学校の教室へ、僕の意識は、そこに通う一人の哲学少年の頭の中へと入った。
「はあ……、抱き合っている恋人たちは孤立している恍惚の情を合体した自我超越へ溶解させようと必死になり、空しく足掻く……。」
視界の中で、クラスのカップルがいちゃついていた。僕の哲学少年としての記憶は、これが最後である。
気が付くと、僕は浜に打ち上げられていていた。ずっとこのままだったらしく、もう日が沈もうとしている。海の匂いも先程よりは弱まっていて、それよりも打ち寄せる波の音の方が印象的なくらいだった。
波の音とは反対から、誰かの話す声が聞こえてきた。
「さっきはあんなこと言ってごめんね。」
「ううん。オレの方こそ、悪かったよ。」
「私ったら、あんなくだらないことを、なんだかひどく主張したがっていたみたいなの。自分でもよく分からないけど、そう、世の中に流されていた。あの地平線に浮かぶ、ヨットみたいに揺られて、自分を失っていたのよ。」
その正体は、さっき店で言い合っていた、嫌な男女である。僕はこの女のセリフに無性に腹が立って、ずかずか砂浜を踏みつけ、二人の側へと近づき言い放った。
「くそ腹立つ。これでもくらえ。」
僕は二人にスミを吐き散らした。しかし、もう僕はタコ人間でなくなっており、結果として僕が二人に吐いていたのは、まったく少量の唾であった。ただの人間であれば、向こうも恐れる理由などなく、この後僕は、男の方にボコボコにされ、目が覚めたのは夜中の三時、朝刊配達のエンジン音に気づかされた。