第二話 割れ目の修繕
それでようやく、自分達が部屋ごと野外にいると理解できた。つまり、どこかの建物の中ではなくかなり大きな馬車の中……正確には幌馬車にいる。
クラムがくぐり抜けた出入口を手で開けて見た。ドアではなく幌の切れ目をめくるような感覚だった。
すぐ目の前には大きな木が生えていて、馬が数頭つながれている。歩いて木へと向かうクラムは背が高く、黒い髪をしている。そして、リジッタの背丈はありそうな大剣を背中に吊るしていた。
馬の脇には猫の着ぐるみを身につけたような誰かがいて、地面から浮きでた根に腰かけていた。全身着ぐるみではなく顔はむきだしだが、人間寄りの猫といった印象だ。一応男性なのは分かる。それでいて、パンツとシャツだけは身につけている。毛並みは虎猫なのに下着は両方とも青い。
『中々に刺激的な始まりだろう。こちらとの会話には口を動かさずに頭の中で言葉を浮かべればいい。言うまでもなく私の姿はお前にしか見えない』
リジッタとクラムの間に割り込む形で、選択をもちかけた悪魔が急に現れた。まともな人間の格好で身体全体が半透明になっている。更に、声は聞こえても口は動いていない。
『コエモって人の遺産を元手に商売でもするの?』
『まあ慌てるな。まずは腕輪を確かめろ』
促されるままにそうすると、腕時計のように小さな長方形の枠が腕輪に現れていた。『五』が表示されている。
『その枠や数字そのものは、お前以外の人間にはただの飾りにしか見えない。数字が百になれば我々の課題は達成だ』
『じゃあ、今の二十倍っていうわけ?』
『その通り。だが、普通の商売では何十年もかかるだろう。手っ取り早いのは、テレビゲームにあるような冒険になる。もっとも、どんな要領を取るかはお前次第だ』
『ここの人達のこと、なにも知らないから教えてよ』
『自分で知るがいい。それに、この世界でのお前の幼少期の話もまた白紙と同じ状態だ。お前自身それが始めの一歩になる。断るならこれが最初で最後の機会だぞ』
『リジッタって人は元からいるんでしょう?』
『ある人間の記憶やそれまでの生涯を差し替えるなど、私にはたやすいことだ。これはいわば、公爵家が取り潰された世界での展開なのだ。で、どうだ』
悪魔が促す決断は、羅針盤もない小舟で大洋に乗りだすような覚悟を必要とした。同時に、それ以外のやり方で孝の間違いを正す道はなかった。
『これで構わない』
『よし。私は契約を見届けるために、姿を消してお前の傍にいるからな』
それだけ説明して、悪魔は消えた。
「リジッタ様……まずは先代の葬儀をしましょう」
ヌボが声をかけた。この世界では余程身分の高い人間でない限り、葬儀といっても埋葬するだけの行為を指すのがほとんどだ。その代わりに、大半の人々は面倒な宗教や教義に縛られない。冒険僧侶といって、僧兵と祈祷の両方をこなしながら放浪する者もいる。
「うん……ねえ、ヌボ。ここには誰がいるの?」
「ああ、あなたは余り我々とはかかわりがないのでしたね」
仮面のせいもあってか、ヌボの言葉からは感情が読み取られない。
「まず、私はヌボ。呪い師です。先ほどでていった、剣を背負った男がクラムで用心棒。木の根元にいる猫人がニャン、クラムよりずっと歳上で三十代後半の男性です。ニャンはこの隊商の会計です」
今までの緊張感が裏返って吹きだしそうになった。どうにか我慢した。
猫人とはこの世界のどこにでもいる獣人族の一種で、気紛れな上に定住を嫌う。そんな人々の一員であるニャンが何故隊商の会計をするのかはまだ分からない。
獣人族自体は人間と別に不仲ではなく、基本的にはこだわりなくつき合っている。もっとも、コエモがどんな風に隊商を仕切っていたのかはまだ分からない。
「もう一台の幌馬車にいるのがミガンという踊り子です。年齢はクラムとニャンの真ん中よりずっとクラム寄り、つまり二十代の中盤になります」
「じゃあ、幌馬車は二台あるの?」
「いえ、もう一台あります。一台が今いるこれで、隊商の全財産を納め、先代とあなたの部屋も兼ねていました。もう一台が私やクラムら男衆の幌馬車、三台目がミガンのいる女衆の幌馬車です」
少なくとも、ヌボは男性のようだ。
「あたしは……」
そう聞きかけて、はっと気づいた。
ヌボによれば、自分がどんな教育や主張を持っているかは誰もはっきりとは知らない。つまり、お互い良くも悪くも白紙の状態になる。なら、自由に決めていけばいい。
「あたしがいない間、先代はどんな話をしていたの?」
さっき、クラムは『連れてきた』と述べた。自分をずっと肌身離さず育ててきたなら、臨終の席で遠ざけるのはおかしいだろう。
「根回しですよ、あなたのための」
「あたしの……?」
「隊商は、長らく先代と苦楽を共にしていました。それが、いきなりあなたを後継者にすると言われて反発しないはずがない。人によっては自分が後継ぎになると思っていたかも知れませんし」
「じゃあ、あなたとクラムは賛成したの?」
「私は賛成ですが、クラムは『反対はしない』です。ニャンは棄権、ミガンは反対です」
つまり、隊商は最初から分裂している。
「最初に申し上げておきますが、隊商を解散するのでなければ全員の積極的な賛同を取りつけねばなりません」
「でも……どうやって」
「実力です。なんでもよいので自分が現当主に相応しい実力を示して下さい」
「実力……」
兄のために食事を作ったり朝に起こしたり。あとは学校で勉強したり。我ながら、どれもピンとこない。
「ともかく、葬儀をすませましょう」
「なら、少しお化粧しなくちゃ」
「化粧? あなたが?」
「先代……コエモをよ。やつれた格好で送ることはできないでしょう」
それは、自分の両親が死んだ時に兄から聞かされた言葉だった。 それこそ幼少だったので死がよく理解できず、棺桶越しの彼らが眠っていると思って尋ねたのだ。兄は、葬儀屋が化粧してくれたお陰でそう見えるのだと伝えてくれた。
「かしこまりました。なにか、準備するものはございますか?」
「ミガンを呼んできて。二人でするから。あと、お湯を沸かせる? 普通の水と一杯ずつ欲しい」
「仰せのままに」
馬車から出たヌボは二、三分で両方とも実行してくれた。お湯の方は素早く沸かせる呪いがあるから分かるとして、ミガンまであっさり現れたのは少し驚いた。こういう時に意固地になるのは不思議じゃないし、理由をつけて引き伸ばすくらいの対応は予測していただけに。
「お湯と水をどうぞ」
ヌボが、二つの桶を差しだした。その脇ではミガンが無表情にたっている。
こうして見ると、ヌボは背が高い。仮面は白地に人間と同じ形の鼻がついていて、唇だけが赤い。両目用の細い穴からは、どんな瞳をしているのかさえ分からない。ただ、あくまでも顔しか隠さないので銀色の短い髪は差し障りなく目に入る。
ヌボとは対照的に、ミガンは同性のリジッタからしても目のやり場に困るほど露出が高い格好をしていた。
衣服というより水着に近い赤い肌着だけを身につけ、赤紫色の長く少しだけ縮れた髪を背中の半分くらいまで伸ばしている。素顔だが薄く引いた眉と厚めの唇が派手な印象を与えた。足には木彫りのサンダルを履いていて、それだけが辛うじて地味だった。
「ありがとう、ヌボ。ミガン、ヌボから聞いたと思うけど……」
「俺なんかが手を貸していいのかい、お嬢さん」
「俺!?」
思わずリジッタは反復した。
「俺は俺だ。ワタクシとでも名乗って欲しいのか?」
ニコリともせずに、ミガンは綺麗なメゾソプラノで詰め寄るように聞いた。
「いえ、あたしがどうこういう話じゃないから」
「ふん」
ミガンはヌボの手から湯の入った桶を両手で引き取り、ずかずか幌馬車に乗りこんだ。
「灯りをつけるから、少し待って」
リジッタは、幌を支える柱にかけられたランタンに手をかざした。すぐに火がついた。
「自動点火式とは贅沢だな。こっちは月明かりくらいしか使えるものはなかった」
桶を遺体の枕元にある小さなテーブルに置きながら、ミガンは言った。
「待遇に不満があったの?」
「いいや。コエモが、特別な目的があってケチになってるのは知っていた。皆も納得づくだった」
「特別な目的?」
「一山当てて、俺達がのし上がるって話。それこそとっくに知ってるだろうが、俺もクラムもニャンも世間じゃはみだし者だったんだ」
「それはあたしも……」
『生前』、両親がいないというだけで味わわされた痛み。例えば、仲良しの女の子が遠足で親の作った弁当を誇らしげに披露した直後の少し気まずい表情。気にしないことと打撃がないことは必ずしも一致しない。
「想像していいことじゃないね」
「ケッ、少しは分かっているじゃないか」
「それはどうも。ところで、あたしの手伝いとミガンの身の上話となにか関係があるの?」
圧力を跳ね返す。さもなくば舐められて叩きのめされる。それもまたリジッタ、否、利津子が前の世界で学んできたことの一つだった。
「お宅がコエモの言っていた特別な目的なら、死体を清めてからおさらばだ」
「どうしてそう考えるの?」
「幌馬車からろくにでたことのないお嬢さんに入れ込むなんて、コエモもヤキが回ったもんだな」
「そう」
リジッタは無言のままのコエモに面し、深々と頭を下げた。ややあって頭を上げ、丁寧に遺体から衣服を外した。男性にしては少し小柄な、痩せた体格があらわになる。