第一話 望みの他
目を覚ますと、朝ではなかった。二学期が始まったとはいえ日の出はまだまだ早い。つまり真夜中か。今日は休日ではないし、学校にいかねばならないのに。何時なのか、枕元のスマホに手を伸ばそうとしたが手応えがない。
「おはよう」
聞き慣れない若い男性の声がした。
利津子……地元公立高校二年生、中倉利津子は暗闇のさなかに頭を左右に動かした。そういえば、布団や枕の感触がない。
「おはよう」
さっきと全く同じ口調で挨拶が繰り返された。どちらかといえば、軽い親しみが感じられた。
「誰……?」
利津子は首をひねりながら上半身を起こしかけた。
暗闇の中でスポットライトのような明かりが急に灯り、一人の若い男性が現れた。ラフな格好にサラサラ髪で、引き締まった身体つきをしている。利津子には恋人も恋愛経験もない。
「へ、変態!?」
本能的に布団を胸元に引き寄せようとして、なんの手応えもないのに改めて気づいた。
「悪魔だ!」
呆れながら軽く怒る言い方だった。
「なにそれ!? カルト宗教?」
「こうしたら理解できるか?」
すっきり系の好青年の頭が山羊と同じ形になった。上半身は裸の男で、下半身は山羊のそれを無理に直立させた格好になっている。顔だけは元のままなのが余計に不気味だ。
起き上がろうとしたが無駄だった。文字通り、空中をもがいているようなものだ。手足は思い通りに動くのに、歩くことさえできない。
「あ、あたしをどうするつもり?」
「お前が想像するような、ポルノや犯罪の類ではない」
静かに、重々しく悪魔とやらは説明した。
「だってあたしを拐ったじゃない!」
「お前は拐われたのではない。殺された」
「はぁっ!?」
「実の兄、中倉 孝によってな。ちなみに毒殺だ」
「あんた、さっきから頭大丈夫?」
お互いにたった一人の家族同士。
十年前、まだ利津子は小学一年生だった。孝は大学二年生。その時、両親は交通事故で亡くなった。それからは歳の離れた兄妹で支え合って様々な困難を乗り越えてきたのに。
「ならこうしてやろう」
悪魔とやらがそう言い終えると、闇も悪魔も急に消えた。
どこかの病院の一室で、誰かの身体がベッドに横たわっている。顔は白い布で覆われていて分からない。その様子を、テレビドラマかなにかのような視点で見ていた。
病室にはもう二人いた。
背広ネクタイ姿の、体格のいい中年男性が白衣姿で聴診器を首にかけた同世代くらいの男性からなにか話を聞いている。白衣姿の男性は、手にしたクリップボードの中身を読み上げていた。
「死因、急性心不全。以上です」
「まだ十七歳なのに、あり得るんですかね」
背広ネクタイはかすかに顔をしかめた。
「本人も知らない特別な既往症かなにかがあったのかもしれません。解剖した限りでは確認できませんでした」
しかし、わざわざ突き詰める必要はないでしょうといわんばかりに白衣は応じた。
「自分の死体を眺める気分はどうだ?」
「だから、トリック映像でしょう? 悪趣味過ぎるよ!」
「起きて直接確かめたらどうだ」
突然、利津子は目を覚ました。
「あのっ、ここはどこの病院ですか?」
起き上がるなり利津子は顔から布をどけ、ついで二人に尋ねた。
「わーっ!」
クリップボードを放りだして白衣は腰を抜かした。背広ネクタイはぽかんと口を開けたまま立ち尽くしている。
上半身を起こした利津子は、二人の男性達よりも患者用ガウンの中身……つまり、自分の身体そのもの……が気になった。紐を解いて、男性達からは中身が見えないように注意しつつ少し襟元を開く。
薄暗い中に、赤黒いムカデのような縫合痕がはっきりと胸から腹にへばりついていた。
「いやあああぁぁぁ!」
利津子が叫ぶと同時に白衣は口から泡を吹いて気絶し、背広ネクタイはナースコールのボタンに飛びついた。
また、辺りが真っ暗になり元の場面に戻った。
「理解したか? 自分の死を。ああ、さっきの場面ならなかったことにしておいた」
「……」
どうもありがとうございますと感謝する気分にはとてもなれない。
「兄さんはどうしてあたしを殺したの?」
その質問は、現実を受け入れるのと同じだった。
「私と契約して自分の目的を果たすためだ」
「契約? 目的?」
「ごく単純だ。人生のやり直しに金、女」
「なにそれ……?」
「お前のおかげでそれらを犠牲にした孝は、十年前に戻って全部やり直すことにした。それで私を召還し、お前の魂を私に捧げた」
「嘘だよ」
「嘘をついてどうする。お前が私を呼びだしたのでもなし」
「ふざけ……痛いっ!」
手の甲を、なにか堅い棒で打ち据えられたかのような痛みが走った。
「ぼつぼつ私の説明を聞いてもらおう。お前には三つの選択がある。まず、なにもなかったことにして以前と同じような生活を送る」
「え……?」
「この場合、お前も孝も私にかかわる一切の記憶がなくなり全て元通りだ」
なら話は早い。一瞬そう思いかけた。しかし、孝は現状に強い不満を持っている。それが改善されない限りまた同じことの繰り返しになりかねない。
「二つ目は、お前だけは天国へいく。もちろん、お前の兄は地獄いきが確定する」
「あたしの魂も地獄いきになるんじゃないの?」
「お前は不本意に生贄にされた犠牲者だ。だから、直に地獄へ送ることができない」
それはそれで喜ばしい……のか? 仮に悪魔の主張通りとしたら、孝は救われない。私利私欲で殺されたのは十分に腹だたしいものの、だからといって自分だけ天国へいくのは気が引けた。なにより、親代わりになって面倒を見続けたのは他ならぬ彼なのだから。
「三つ目は、お前が私と改めて契約する。その際は、私の出す課題さえこなせばこの一件を覚えたまま生き返らせてやろう。記憶や理性も生前通りだし、肉体的にも社会的にも同じだ。さらに、特典があるぞ」
「特典?」
「順に説明しよう。課題とは、お前がいたのとは全く無関係な世界で金品を集めることだ。金貨でも宝石でも、なんでも構わない。当節流行の言葉を使うなら異世界転生だ。集めた金品がある一定の量になれば、お前は元の世界に復活する」
「……」
「その時、課題をこなす際に身につけた知識や経験は全て引き継ぎされる。武器防具や金銭の類は駄目だが、それでも大幅に違う」
「具体的にどんな世界なの?」
「お前達がファンタジー系のテレビゲームや映画で知るような場所だ。向こうでの最低限の言葉や習慣、予備知識などはあらかじめお前の記憶に刻んでおいてやる」
「こっちで学んだことなんかは?」
「無論、どこへいこうがそのまま使える」
「魔法とかが使えるの?」
「存在はするがお前には使えない。チートもなしだ」
「チート……?」
耳慣れない言葉に質問が止まった。
「本来の意味は『ズル』だが、ここでは特別な技能を指す。どのみち無関係だがな」
「それで、向こうの世界でも失敗して死んだりしたら?」
「お前も悪魔と契約した以上、地獄いきだ。ただし、課題を達成して元の世界に帰ったらお前も兄も地獄いきはなしだ」
「じゃあ、三番目にする」
即決した。こんなところでうだうだ悩むくらいなら、次の機会に賭けるのが彼女の決断だった。
「念押しするが、三番目でいいのだな?」
他に手の打ちようもない。利津子は黙ってうなずいた。
また目の前が変わった。
薄暗い室内で、利津子は粗末なベッドに横たわった初老の男性を見下ろしていた。
男性は呼吸が浅く、時々咳きこんでいる。ろくな明るさがないにもかかわらず、病みやつれているのがすぐに理解できた。
暑くも寒くもない室内で、彼の帯びる精神的な熱気だけが異様にも伝わってくる。
「大将、連れてきましたが……本気ですか?」
心配そうに危惧しつつも、かすかに咎める口調で響いた若い男性の声がすぐ脇から寄せられた。光がなくとも筋骨たくましいのがすぐ理解できる。太い腕が気遣わしげに胸の前で組まれていた。
それで初めて気づいた。今、利津子は二人の人々と一緒にベッドの男性を前にしている。一人は本気ですかと念押しした筋肉質の男性だ。もう一人は仮面をかぶっておりずっと黙っていた。
それらとは無関係に、かすかに獣のような臭いが漂っている。外から馬が鳴く声が小さく聞こえてきた。
「当たり……前だ……クラム。ヌボの占いが……外れた試しは……ない」
ベッドから初老の男性が、筋肉質の男性に返事をした。
「分かりました」
なにがどう、『分かった』のかさっぱり分からない。
「リジッタ……よく聞くのだ……お前は、実はわし……コエモの娘ではない」
息を飲む衝撃……が、利津子とコエモ以外の二人から伝わってきた。
この世界では、自分はリジッタという名前で呼ばれ、なにか特別な背景があることだけは理解した。全体の雰囲気からして相当複雑な状況なのも。
「お前は、没落した大貴族の最後の嫡子だ……国王に謀反を企んで……破滅した、ジージェン……公爵家の。その……腕輪が……証拠だ」
左手首を、利津子……いや、リジッタは軽く掲げた。金属製らしい、細い腕輪がはまっている。いや、密着を通り越して肉体と一体化している。
「ジージェン一族では……成人を迎えた……嫡子にだけ……その腕輪が自然に……できる。お前は女だが……性別は……関係ない。国王や……歴代の……公爵やその身内しか……知らぬ。誰もが……公爵一族は全滅したと……思いこんでいる……だから、ばれずにすんでいた」
そこで、ベッドの男性はひどく咳をした。成人とは、この世界では十五歳になる。それ自体は自然に頭に浮かんできた。
「わしは……昔、先代の公爵様に……命を救われたことがある……だから……国王の追手が迫る直前……まだ幼いお前を……わしの娘ということにして……預かった……。お前に……わしの全ての財産をやる……。あとは……お前の好きなように……」
また咳が始まった。ベッドから小さく天井に向けて上半身を折ったあと、枕に頭を預け直して深く溜息をついた。それっきり静かになった。
「ご臨終にございます」
周りにいた人々の一人が、くぐもった声でそう告げた。仮面をかぶり、ゆったりした衣装をまとっている人物だ。
「ヌボ、俺は墓穴を掘る」
クラムは仮面の人物に言うが早いか、背中を向けてのしのしと歩き始めた。
「分かりました」
ヌボは短く答えた。
手で布を払う音がして、一筋の光が室内にさした。