Scene1 フリーター23歳
2話目です。やっと少しは何かわかるかも??
ほとんど昼に近くなった頃に布団から這い出た私は、炊飯器に残っていたご飯に生卵と納豆を乗せて、母が朝作ったらしい味噌汁を温め直していた。
母はとっくのとうに食べ終わったらしく、化粧台の前に座っていた。
確か、今日は婦人会の日だ。町内会に所属する母と同年代の主婦たちがこぞって参加する会だが、要するに大きな井戸端会議兼ランチ(とはいえそれも名ばかりで、各自がおかずを持ち寄る――どちらかといえば田舎の農家の昼食風景のようなもの)を行うべく、公民館で度々集まるのだとか。
「工事中のところあるでしょう。あそこの三軒先に引っ越してきたご夫婦、あんた会ったことある?」
母の唐突な話はいつものことだが、少なくとも日々のほとんどを家で過ごす我が子に聞く質問ではないなと思う。
そしてそもそもこちらの返事などどうでもいいことは、最初の問い掛けから大した間も開けずに続けられる言葉が物語っている。
「ほら、あの随分大きな家が建つのねって言ってたところ、あったでしょう? もう建て終わって、それで先月に越してきたんだけどね。山中さんに聞いたら、あそこのご主人都心にいくつかビル持ってるんですって! それでね……」
やはり母の噂話のほとんどはどれも独り言のようなもので、私の反応はどうでもいいのだろう。こちらの相槌も待たず、マシンガンのように話は続く。
まるで穴にでもなったみたいだ。もっとも放り込まれる噂話は王族のトップシークレットなどとは似ても似つかない、なんてことない近所の噂話ばかりなのだが。
「だからその辺のスーパーとかでは全然奥さん見かけないって山中さんがね、言ってたのよ。やっぱりもっといいとこでお買いものするのかしら」
またか。母の噂のほとんどは山中さん経由なのだろうか。
そもそもまるで周知の存在のように固有名詞を出してくるが、母と違って特に近所付き合いもしない自分にはとんと聞き馴染みがない。
小学生時代の同級生の母親なら、「○○くんのお母さん」なんて言い方をするはずなので、どうやら本当に母個人の主婦友達らしい。
尚更知るはずもないご近所さんであるわけだが、母の勢いは留まることを知らず、いつの間にか山中さんとこの前行ったカルチャースクールの話へ移行していた。あくびを噛み殺しながら残った味噌汁を飲み干して、二階へ上がる。
階段の下から母はまだ何か言っていたが、「今日バイトだからご飯いらない」と最低限の情報だけ背に投げた。
週三回のコンビニバイト。それが今の自身が有する役割であり、あとはどうしようもない穀潰し。母一人子一人の我が家で、そんな生活が許されているのは亡くなった父の保険金のおかげらしかった。
母は中流家庭の出であるが、父は関西の方ではある程度名のある家の末席に位置していたようで、生前父方の祖父が亡くなった際にそこそこの遺産が入ったと聞いている。それも含めて母子二人が慎ましく生活する分には、我が家の家計はそこまで苦しくなかった。
起床した時点で昇りきっていた太陽は、徐々に傾き始めていた。もうそろそろ身支度を整えなければ。とはいえただのコンビニバイト、部屋着と大して変わらない装いだ。行けば制服に着替えるので、変に気合を入れていくのも気恥ずかしい且つ無意味だろう。最低限のマナーで薄く化粧をする。全くもって隈は隠せないのだけれど。
着古したパーカーの上に古着屋で見つけた五百円のアウターを羽織る。ワイヤレスのイヤホンをつけて、バックパックを背負って、タバコとスマートフォンを適当なポケットへねじ込んだ。
いつもと同じルーティン。季節の巡りに合わせて一枚一枚厚手になったり薄手になったりするだけで、バイト前の準備はさして代わり映えがしない。
部屋の入口右手にかかっているカレンダーは、先月のページから全く手付かずだった。もう今月に入って三週間は経つというのに。ページをそっと破り取る。
十月も半ば、道理で寒くなるわけだ。
今日は木曜日、きっとまたあの人が来る。さらに本日の勤務を終えれば、もう今週のシフトはない。
そんなこともあって、知らず知らずのうちに足音は浮ついていた。
「おつかれさまでーす」
「あぁ、お疲れさん。そっか、今日木曜日だもんね。にしてもいつもより少し早いね?」
スタッフルームには店長が新聞を広げながら、彼専用のマグカップを傾けていた。
なんでもお孫さんに貰ったらしい藍色のマグは、既に一度持ち手の部分が取れたのを接着剤でくっつけた跡がある。
「ええ、ちょっと早く家出ちゃって。着替える前に一服してきます」
はーい、いってらっしゃい。間延びした店長の声を背にスタッフルームを後にする。
レジへ目をやるとバイトリーダーの田所が、誰か女性店員と話している様子が窺える。背を向けているが、おそらく今日のシフトからして、先日から入った新人の女子大生だろう。
田所は、私の視線に気がつくと、女の子からは見えないように下の方で手を振った。
これはさっさと行けということだろう。新しい女の子が入って来るとあの人はいつもこうだ。良い先輩なのだが、如何せん女の子に目が無い。
私が入りたての頃はそれこそあの子のようにちょっかいをかけられたものだが、可能性が一欠片もないことを知った後の彼はさっぱりしたもので、その後粉をかけられたことはない。
自販機で購入したコーヒーを片手に、店の裏側で火をつける。バイト前に気合を入れる意味合いも込めていつも以上にゆっくりと肺へ空気を注いだ。
程よく冷えた心地の良い空気だ。
本日一本目の風味と重さが心地よく、みるみるうちに燃え尽きていく。程なく流れるように二本目へ手が伸びてしまう。
『馬鹿げているかもしれないが、煙草は澄んだ空気の中で吸うからこそ上手い』
以前田所が言っていた。澄んだ空気を濁しながら、一体何をと思ったものだが、今では生憎痛いほどに理解できる。
大学を辞めここで働き出してから、(最初は下心こそあったかもしれないが)何かと世話を焼いてくれたり.煙草を教えてくれたりしたことをぼんやり思い出した。更にその張本人は今、レジで熱心に新人の女の子に粉をかけていることも。
口元を歪め、煙を吐き出す。
今ここに彼がいたら、酷く笑うだろう。なんでも、へたくそな苦笑いがツボらしいが。
そろそろ向かわなくては、田所にどやされそうだ。働く気持ちに切り替えなければ。
コーヒーを飲み干して、いつのまにか燃え尽きていた二本目を空き缶へ放り込んだ。
やっぱり大してわかりませんでした。
次回、出逢います。




