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冬になって晴る  作者: やつはし
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Scene15 小さな賭けと小さな私

カナさん、多少前向きに…?

 夫が出て行ってから一週間。また木曜日が来た。

 先週までは楽しいはずだった。誰とも会話のない遮断された生活のちょっとした息抜きに、話し相手が――瀬戸が現れ、少しずつ日常が色づいていったのだ。検査待ちの先週も、空元気とはいえいい気分転換になったのに。


 あの一件から、当然のように夫から連絡はない。

 今後についてまた連絡すると言っていたが、どうするというのか。彼は出て行ったが、義母にその話はしているのか。家はくれてやると言われたが、実際問題どうなるか。最悪のことを考えて、念のためなるべく早く転居先を見つける必要がある。


 そこまで考えて、自分があまり離婚そのものに対してはショックを受けていないことに気が付いた。確かに夫や義母の態度から、涙を流すことはしばしばあった。けれどもそれは悔しさが大きく占めていて、悲しみはとうに消えてしまっていた。それもこれも、木曜日が楽しみになって、つまりは瀬戸と出会ってからのことだ。


「……ふふ」


 可笑しな話だ。六つも下の子に人知れず救われているなんて。

 夫の言った浮気も、あながち間違ってはいないかもしれない。こんなこと、気持ちが浮ついていなかったら起こりえないはずなのだから。


 やはり、こういうのは良くないのだろう。


 あの子だって、三十路の女が自分に勝手に救われてるなんて知ったら、きっと気持ちが悪いだろう。もちろん瀬戸がそんなことを言うとは思っていないが、心の内はわからない。人の心がわかったら、夫ともこんなことにはなっていないだろう。


 私を眩しいものでも見るような瀬戸の視線は心地良いが、それは彼女が本当の私を知らないからだ。仕事の出来る年上の女に、ちょっとした憧れのようなものを抱いてくれているに過ぎない。あの子の中の私は、一人の時間の上手な使い方もわからなくなってしまった三十路女ではないのだ。


 そもそも彼女はきっと、持ち前の人の好さで私に付き合ってくれているに過ぎない。コンビニに行かなかったら、わざわざ公園にだって来ないだろう。


 落ちてゆく気分に同調した身体が、ベッドへこれでもかと深く沈み込む。鬱々としたものがじわじわと私を侵食していくのがわかった。離婚を突きつけられてもこんなには沈み込まなかったのに、と自嘲する。かつてこういう時寄り添ってくれていたはずの夫は、今頃例の受付嬢の隣だろうか。


 投げ出していた携帯電話を手繰り寄せると、時刻はもう夕方だった。今頃瀬戸は働きだした頃だろう。

 いつもなら、そろそろ軽い夕食を準備し、食べてから化粧を始める。準備を終えたら、十分な防寒と戸締りのチェックをして少し遠回りしながら駅まで向かうのだ。身体が温まってきた頃合いで着いた駅から、来た電車にそのまま乗っていつもの、瀬戸の働くコンビニへ。きっと彼女は下手くそな笑みを浮かべて「いらっしゃいませ」と言うだろう。


 あの子の笑顔は不器用な優しさが滲み出ているようで、安心する。


 私がわざと突拍子もないことを言ったり、やったりすると「なにしてんの」なんて言いつつ、例の優しい苦笑いで窘めるのが常だった。



 もう、公園に行くのはやめにしようか。



 酔っ払いに付き合って、遅くまで付き合ってくれる彼女を思い浮かべた。タバコの匂いとコーヒーの匂いがする年下の女の子は、出会った頃から不思議と私を眩しげに見つめる。


 あの目で見られていると、自分は特別なものと思えて、それに縋って。思い込みとは恐ろしく、彼女といる時間は確かに私はあの頃のまま。

 自身の心に素直で、やりたいことをやって。そういうあの頃の私なのだ。


 そして一人静かな部屋へ帰って、鏡の前で毎度思い出させられる。大したことのない取るに足らないちっぽけな自分を。


 いっそのこと、彼女の中に綺麗な自分だけを残して、消えてしまおうか。そうすれば、今後どうなったとしても、私らしい私が、この世界のどこかに残ったままなのではないだろうか。それが例え、瀬戸が私を覚えている間だけだとしても。気づくと、いつの間にか涙が溢れていた。


 わかっている。二十代の時間は短い。目まぐるしく流れていく日々の中で、私があの子の中にいられるのはほんの僅かな時間だろう。もっとも、今だって彼女にとって私は取るに足らない存在だと思うが。一度下方修正された気持ちは止まることなく沈んでいく。


 『けれど、本当にいいの?』


 よく夢で見た幼い自分に問いかけられる。思えばあの夢も、瀬戸と出会って久しく見ていない。


「いいも何も、それ以外に何があるの」


 これはただの依存だ。私の勝手な思いでしかない。分別のつかない大人が、若者の眩しさに心を寄せるのはどんな形であっても良いはずがない。


 『このままで、いいの?』


 小さな私はしつこく繰り返す。思えばそういう子供だった気がする。気のすむまで疑問を繰り返す子だった。記憶に薄っすらと残る亡くなった両親を、よくそれで困らせていた。今も変わっていないのかもしれない。


 『また何も言えないで、おしまい?』


 小さな檻の中から、私はまだ問いかけてくる。小さな檻に収まる幼い私を、檻の外から眺めていた。幼子の言葉に、大人の私は言い淀むことしかできない。


 『いかないで、いいの?』


 檻の中のこの子のほうが、よっぽど自由だった。外にいる私は、何も言えずにいるのに。


 『まだ間に合うよ』


 そんな声と共に、意識がはっきりとしてきた。いつの間にか少し眠ってしまっていたようだ。窓から差し込んでいた夕日はすっかり傾いている。


 変な夢だった。諦めたくない自分の願望が、幼子の形を取って語り掛けてくるなんて。けれどもそんな些細なことに救われる自分が、少し可笑しい。


 いつものように、公園へ行こう。けれど、コンビニには行かない。


 私が公園に行かなくたって、彼女が来るかどうか、小さな賭けだった。


 そうと決まれば話は早いと、化粧のために鏡台に向かうが、腫れてしまった目元も見て苦笑してしまう。

 まずは目を冷やさなければ。


後ろ向きも前向きも、視点がどっちにあるかで話は変わってきます。

後ろ向きな人だって正面から見れば前を向いてるし、前向きな人も後ろから眺めれば背を向けてるわけだし。

主観と客観のバランスでみんな成り立ってるわけです。

こういう言い回しをするとちょっと頭良さげですよね。

異論は認めます。


次回、瀬戸ちゃんは呑気なものです。

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