Scene9 良い人そうな人が、自分にとって良い人かなんて限らない
良い人っていますよね。
いかにも善人って顔したような人。
でもその人って本当にあなたにとっての"良い人"なんですかね??
寝室のシーツを交換し終え、洗いたての匂いがするベッドへ身を沈める。最近はこういう日常のちょっとした幸せのようなものがじんわりと胸に染みるようになってきた。
彼女との語らいの中で、酔い任せとはいえ自身の口からポジティブな言葉が出ることで、実感できる幸福の数が多くなってきているのかもしれない。
けれども人生はやはり少し意地悪なもので、こういう時程嫌なことがやってくるのだ。
携帯が鳴る。瞬時に溜め息を吐く。
数週間に一回、こうして電話がかかってくる。相手は分かっていた。
「……はい」
『香夏子さん? 私ですけど』
「こんにちは、お義母さん。どうかされましたか?」
『いえ、特にはないんだけどね。ちょっと様子はどうかしらと思って……』
いかにも人のよさそうな声で義母は話す。実際に悪い人ではないのだろう。息子の育て方は如何なものかと思うが。
「特に変わりありませんが、お義母さんの方はどうです? 最近は気候が安定しませんから。体調に気を付けてくださいね」
『私は元気よ。あ、そうそうこの前ね、すごく可愛らしいベビーベッドがあったの。写真、浩二に送ったの、見てない?』
こういう所がこの人の良くないことだ。
「……ええ、浩二さんからはなにも」
『まったくあの子ったら! そしたら見せてもらってちょうだい。すごく素敵なの』
「そうですか、わかりました……でも、あのお義母さん。有り難いんですけど、そういうのは子供が生まれるときでいいんじゃないでしょうか」
毎度毎度、義母との会話はなんだかんだここに行きつく。孫の顔が見たいのはわかるが、その言葉をすんなりと受け取れる状態なら、私たち夫婦はこうも冷えきっていなかっただろう。
『あら、こういうのは素敵な子供服とか、そういうのを見てわくわくしてる時も楽しいのよ?』
「でも……」
『…………あのね、香夏子さん。こう言ってはアレかもしれないけど、私別に気にしてないのよ。でもね』
「なんのことですか?」
『病院、行ったらどうかしら』
突然冷や水をかけられたようだった。
この人は、子どもが出来ないのは自分の息子ではなく、嫁である私の所為だと疑いなく思っているのだ。
『いまでは珍しくないんですって、妊活って言うんだったかしら? ね、行ってみたほうがいいわよ。怖かったら私も一緒に』
私のことを気遣っているのは声色だけで、そこには一切の思いやりがなかった。
「結構です」
気が付くと衝動のままに通話を切ってしまっていた。
ひどく冷え切った指先を擦り合わせながら、ベッドへ携帯電話を投げやる。覚束ない足取りで階段を下り、ソファへ身を任せた。
座り心地の良い筈のそれは、身体が沈み込んだ拍子に心情と連動して、更にどっと気分が落ち込む。
何故だろうか。どこで間違えたのだろうか。
自身の仕事で培ったイメージを膨らませてインテリアを配置した、決して広くはないマンションの一室を思い出す。あの頃まだ二人の距離は近かったはずだ。子供が出来たら、もう少し広いところへ引っ越そうなんて言いながら、互いの仕事を尊敬しあってた。仕事に誇りを持っている君に惹かれたって、そう言ってたはずだった。
――――俺は香夏子には家に入って欲しいって思ってる。
義母は最初から孫の顔が早く見たいと頻繁に口にしていたが、その度に貴方は「僕らには僕らのペースがあるから」と嗜めてくれていた。
けれども大きな仕事も任されるようになり始めて、彼も彼で仕事が軌道に乗って。
――――できねえじゃん。
いつからか互いの時間も、価値観も、何もかもがずれて行って。
「……それで、こんなになっちゃうんだ」
仕事を辞めてから、言われるままに引っ越したこの家。いずれ同居するからと、義母の希望ばかりで私の意見なんて何も反映されていないインテリアの数々を、ただ呆然と眺める。あのまま仕事を続けていたら、そろそろ昇進の話なんかもあったかもしれない。もっと大きな仕事だって。
それに対して、彼は何を諦めたのだろう。こうして人を家に缶詰めにした癖に帰っても来ないのに。二人でも広いこの家は、私一人では広すぎる。
毎週木曜日には担当するプロジェクトに関連して泊まり業務と嘯く貴方が、どこに居るのか本当は知っている。けれど、知っていて口に出す気力もないまま殻に閉じこもっているのは私だ。
後ろめたさからか、木曜以外もなんだかんだと理由をつけて私が眠った後に帰って来るのはなんなのだろう。顔を合わせないことが優しさだとでも思っているのだろうか。
けれど、私自身、彼の帰りを待って向き合おうとする勇気が無いのも事実だった。
職から離れて三年が経とうとしている中で、彼と離れたら自分は一人生きていけるのか。生憎両親はもう亡くなって、帰る家もない。
ふつふつと怒りや悔しさが湧くと、釣られて私の中の弱虫も大きくなるのだ。
そうして二の足を踏んだまま、ここまで来た。来てしまった。
こうなると私はもうすっかり迷子になってしまって、また一人、この広い家で身を縮こまらせるのだ。
ついにカナさんの本当の名前がわかりましたね。
香夏子さん。夏生まれなんでしょうか。知らんけど。
カナさんサイドばかり内情が掘り下げられていますが、次回は瀬戸ちゃんの内面にやや触れます。