水路の全てを統べるもの
ネイベル達は上方を見上げていた。
大きな怪物がゆらゆらと回遊しながら、こちらへ降りてくる。
巨大な海蛇のような姿をしている怪物は、濃い青の半透明な鱗で身体が覆われているようだ。
向こう側が少し透けて見えている。尾には黒くて鋭く長い針が付いている。
背びれと腹びれは鮮やかな赤色でトゲが生えている感じだ。前足と後ろ足の両方に赤い爪も備わっている。
「あれは……」
リンが呟く。
「だめ、だめよ。嘘……」
ミネルヴァは震える声でそう言っていた。
ネイベルは圧倒されていた。存在感が違う。この水路全体を統べる怪物だと直感した。
「おい、ネイベル。どうすんだ」
カルーダの問いかけで我に返ったネイベルは、慌てて指示を出す。
「全員、すぐに引き返すんだ! 隙間から外に出る!」
腰が抜けてしまったミネルヴァはカルーダが抱えて、三人でその場から離れるように駆け出した。
状況は最悪だ。ここは水中で、あの怪物は恐らく水中に特化しているだろう。周りは大量の水棲怪物に囲まれており、逃げ場は入ってきたあの隙間だけだ。
罠だろうと理解はしていたし、一応の心構えはしていたネイベルだが、行く先々でどうにもならない怪物が多すぎると感じていた。あんなのと戦える人間なんていないだろう。
「追いかけてくる気配はなさそうね」
はぁはぁと息をしながら走るネイベルの隣で、リンはそう言った。
彼女は自分で纏う分の空気の層はネイベルに任せて、ミネルヴァを抱えているカルーダを全力で守りながら走っている。
負担が大きいだろうと思ったネイベルは、申し訳なく感じると同時に自分の力不足を嘆いた。
巨大珊瑚礁の隙間はもうすぐだ。あそこから逃げ出せばひとまず命は助かりそうだとネイベルは思った。
――ネイベル達の足元が大きく揺れ、腹に響く音が辺りに反響する。
「うぉっ!」
ミネルヴァを抱えて全力疾走していたカルーダは、足元が揺れた反動で転んでしまい彼女を放り投げてしまった。
勢い良く水中へ放り出されたミネルヴァに、急いで空気を纏わせるリン。
ネイベルは転びそうになる所をぎりぎり踏みとどまって前方を見つめていた。
「おい、あれは……」
カルーダが呟いた。
信じたくない光景がネイベルの視界に飛び込んできた。
目前まで迫っていた逃げ道は、地面から新しく生えてきた珊瑚礁で塞がれている所だ。
もう通り抜ける事は出来そうにない。
そのまま周囲の珊瑚礁と同じ高さまで伸びていき、ネイベル達は内部へ完全に閉じ込められる形になった。
「追いかけて来なかったのではなく、追いかける必要がなかったのね……」
リンも珍しく顔色が優れない。
「まぁ罠だとは分かっていたが、こうも見事に閉じ込められると何も言えねぇな」
ミネルヴァが何か言っているのを見たリンは、ひとまず全員が入れるだけの空気の層を広げた。
「はぁ、はぁ、あんた達、今の状況が、きちんと、理解出来ているかしら」
ずぶ濡れになったミネルヴァは、そうやって三人の顔を見渡した。
カルーダとネイベルは顔を見合わせる。リンに視線を向けると、少し首をかしげていた。
「そう、そうよね。私だってまさか実物を見る日が来るとは夢にも思わなかったわ」
そう言ってミネルヴァはネイベル達に言った。
「私が活動していたのは、この辺りがダンジョンになる前までよ。それは良いわね」
ネイベルは頷く。
「こんな所にこんな目立つものがあれば、さすがに記憶に残っているわ。つまりこれはダンジョン化した後に出来たものね。今は深く考えている暇はないから結論を言うわよ」
ネイベルは周囲を見渡してみた。海蛇の怪物は、口から何かを吐き出している。
「あれは海龍スルーレという正真正銘の化け物よ」
ミネルヴァが震えながら名前を教えてくれた。
「初めて聞く名前だな」
ネイベルはそう呟く。
「ネイベルやカルーダが知らないのも無理ないわ。私だって一度しか見たことないもの」
ミネルヴァはさらに顔色を悪くする。
「ああ……まずいわ。口から出しているのは卵よ。私が以前見た時は、あの卵から孵った怪物だけで街が滅んだわ」
陸地でも活動可能なのよ、と彼女は言った。
ネイベルがスルーレという海龍に再び目を向けると、卵を口から吐き出し終えた所だった。
「あの卵は、殻が尋常じゃないほど硬いのよ。しばらくすると孵化するでしょうね。止める事は多分出来ないと思うわ」
ミネルヴァの顔はもう真っ青になっている。
スルーレは巨大な珊瑚礁の中にすっぽりと収まるほど大きい。中央の珊瑚礁の周りにとぐろを巻くようにして鎮座している。
首をこちらへ向けて伸ばしてきた。少し走れば届く距離だ。背中は壁で逃げ場はない。
覚悟を決めて戦うべき時が来たとネイベルは強く意識した。
「だめだ、背中は壁だし高くてとても上れない。逃げ場なんてどこにもない。戦うしかない」
「そりゃそうだが、どうするんだ」
「罠だと警戒した上で中に入ったんだ。自業自得だ。俺達だけでなんとかするしかない。リン、戦いが終わるまでこの辺り一帯に広く空気の層を広げて維持してくれ! ミネルヴァは俺とカルーダのそばを離れるなよ! 死角を補うようにして情報を伝えてくれ」
ネイベルは大きく息を吸い込んで、吐き出した。
「カルーダ、命を張るところだ。周りの水棲怪物どもだって襲ってくるだろう。そっちは任せた」
「あぁ、分かった。でもおめぇは――」
「正面の水棲怪物とスルーレは俺がなんとかしてみせる」
ネイベルの瞳に宿る確かな覚悟を見て取ったカルーダは、ひとつ息を飲み込んで首を縦に振った。
「ネイベル、私は――」
「お願いだ、リン! 空気の層を維持しながらカルーダの手助けをしてやってくれ。俺はなんとかしてみせる」
ネイベルは少し格好をつけてそう言った。命をかけるのだ、少しくらい良いじゃないか。
それに、ネイベルの中にはもう、以前の弱気な自分はいない。大切なものは自分の手で守ると決めたのだ。
スルーレはこちらの様子を伺っていたが、やがて口を大きくあけて湾曲した白く大きな牙を剥き出しにした。
――ギィィィィン
今までより一層大きな音は、ついに鼓膜を破りそうなほどだ。
その瞬間、辺り一帯の様々な水棲怪物達がこちらへ向かって勢い良く動き出した。
「来たぞ! カルーダ!」
ネイベルはカルーダの方を振り返り注意する。
「分かってる! 任せとけっ!」
カルーダは腰に下げていた黒鉄の剣を抜いた。槍よりも剣のほうが効率が良いと判断したようだ。
ネイベル達は、大きく空気の層を広げている。スルーレの方はネイベルが、背後にリンとミネルヴァを挟んで後ろの壁はカルーダが対応にあたっている。
色とりどりの魚達は、勢い良く頭のトゲをネイベルに向けて突っ込んでくる。
「こいつら、全員魔法を使っているぞ!頭のトゲは魔力で出来ているものだ!」
スターラビットが頭の角に魔力を集中する様子を散々見て来たネイベルは、即座に見抜く事が出来た。
ただしこの魚に生えた角は元からあるものじゃないだろう。つまり魔力で出来ていると考えて間違いない。よって物理攻撃が効かない可能性もある。ならばこそ、本体を直接攻撃しなくてはならない。
それに避ければ背後のリン達に被害が及ぶので、一人でなんとかするしかない。背後は三人がかりでも厳しいだろう。なら、自分が少しでもみんなを助けるんだ! とネイベルは強く思った。
――覚悟は決まっている。深く集中も出来ている。今なら何でも出来そうだ。
ネイベルは、ぐぅっと右手に魔力を集中すると、一気に左から右へと振り払った。
次回、洗礼を終え覚醒したネイベルの実力が明らかに。