表裏一体
「ミネルヴァ! 返事をしてくれ!」
横たわった彼女の肩を叩きながら、ネイベルは耳元で大声をだした。
周囲の人間は、皆一様に顔色が悪い。
共に積み重ねた時間の多寡に違いはあれど、彼女の純粋なまでのひたむきさ、向上心、思いの丈の強さなどに一度でも触れた事があれば、その人柄も理解できるだろう。
この反応は、そのまま彼女がどれほど想われていたか、という事に他ならない。
フウロの街でリン達と一緒に買っていた服は、ボロボロになり、返り血で赤く染まっている。
力無く地面へと放り出された細い四肢は、歪に変形してしまっていた。
豪奢な金髪にも血糊がべったりとこびりつき、激戦のあとが見て取れる。
スルーレの骨は、意識が途切れる瞬間まで離さなかった様だ。
馬鹿らしいと一蹴し、戦闘には一切の興味を示さなかったあのミネルヴァが、最後の瞬間まで戦士であり続けていた事が、その握り締めた右手から良く分かる。
――全力を尽くしたんだ、彼女は。
様々な想いが脳内を駆け巡り、ネイベルの中で怒りとなって積み重なっていく。
「ジャックゥゥゥウウウ!」
ネイベルは、腹の底から叫んだ。
きっとジャックは、叩きのめされるミネルヴァを見て、カルーダの気持ちを弄んで、苦戦しながら憔悴していく冒険者達をあざ笑って――気色の悪い笑みを浮かべながら歓喜していたのだろう。
――反吐が出る。
「ネイベル、落ち着いて。一度、彼女をやかんに入れてあげて頂戴」
リンが苦痛に満ちた表情でそう言った。
「――分かった」
ネイベルは言われた通りに、震える手でやかんを持つと、彼女を中へと吸い込んだ。
「それで、周囲の人間はどうしましょう」
カドが周りを見てそう言った。
「貧民街の住人は、ほとんどいないと思われますが……」
「――えっ?」
ネイベルは戦っている相手の全員が、貧民街の住人ではないだろう、とは思っていた。あまりにも手練が混ざり過ぎていたからだ。
しかし、まさかほとんどが外部の人間だとは思わなかった。
「ぐぅぅ……そうか。これはジャックが用意した人間達か」
それでも、無為に命を刈り取りたくなかったネイベルは、結局分かっていてもこうしただろう、と思った。
「仕方ない、一旦全員をやかんに収納する」
温度を感じさせない声でそう言うと、全員で倒れていた人間達を一箇所に集め、やかんの中へと吸い込んだ。
少し離れた所では、カルーダが一人でジャックを相手取っている。
「まだ終わっていないから。あいつを捕まえて、全てを吐かせてやる」
ネイベルの決意は揺るがない。
人の気持ちを弄び、その様を見て歓喜の声をあげるなど、到底許せるはずがない。
「カルーダ!」
見るからに動きが悪い。大分疲弊している様だ。
「おぅ……イマイチ調子が出なくてな。不甲斐ねぇ」
顔色もさっぱり優れない。
「もう大丈夫だ。ミネルヴァは、やかんの中でゆっくりしている」
駄目だ、彼女の倒れていた姿が、脳内で何度もネイベルの心を締め付けてくる。
その度に、心が燃え上がる様な感覚に引きずられるが、それでもネイベルは、何とか冷静さを維持する様に努めている。
「へぇ、そうかよ」
カルーダは歪な笑みを浮かべた。
「リン! 呪術の影響じゃないか、と思うんだけど」
カルーダの動きが優れないんだ、と言って彼女に話しかける。
「そう……そうね。ネイベル、もう一度出来るかしら?」
今度は対象が少ないから、と言ってこちらを見つめてきた。
正直に言えば、ネイベルの魔力はもう底が見えてきているという感覚がある。
あまりにも無茶な魔力の使い方、戦い方をし過ぎてしまったという自覚もある。
「ああ、問題ない」
それでも、無理を通す必要があると考えた。
リンは目を瞑って、風の様に佇む。
ネイベルもそれを見て、差し出された右手を握りながら、同じように集中を深めていく。
血生臭い香りが鼻をついた。二月早朝の冷えた空気でさえ、ネイベルの怒りを静めるのには不十分だ。
それでも、無理やりに感情を押さえつける。今は、そうするべきだ。
「準備が出来たわ」
そう言ってリンは、再び呪言を口からそっと吐き出していく。
ネイベルも、練り上げた魔力で包み込む様に、優しく彼女に同調していった。
つながれた彼女の右手の温もりは、少しだけネイベルの心を落ち着かせてくれた。
カルーダの顔色が目に見えて良くなっていく。
ネイベルがリンと共に融合させた魔法は、カルーダに纏わり付いた呪術の影響を、見事打ち払う事に成功した。
どうやらネイベルの魔力によって、呪術の一部が吸収されていく様だ。心の中に、気持ちの悪い澱みが溜まっていくのが分かる。
「ふぅ……助かったぜ。ネイベル、リン」
カルーダがこちらを一瞥すると、微かに口角を上げているのが確認出来た。
「クックック……結局、こうなってしまうのですね。確かに白ける。折角の楽しい宴が台無しです」
「いつまで余裕ぶってんだ、てめぇはよ」
幾分、冷静になれた様だ。逆上し続けていれば、ジャックの思う壺であるので、ネイベルもカルーダを見習って、心を静める様に努める。
「気高い理想を追い続ける限り、その背後には、どうにもならない絶望が存在するのですよ」
「もう黙ってろや。おめぇは一生許さねぇと決めた」
「光と影、希望と絶望、全て表裏一体だからこそ美しいというのに。愚かですね」
ジャックが大げさに手をヒラヒラとさせる姿は、感情をひどく逆撫でする。
カルーダは、聞く耳を持たないとばかりに、一気呵成に突っ込んだ。
数合打ち合って、あっさりと細剣を弾き飛ばすと、首筋に剣を添える。
「ネイベルッ!」
カルーダの声を待つまでもなく、既に催眠魔法は発動させている。
しかし、一向に手ごたえがない。
「だめだ、魔法も呪術も効果が感じられない!」
「くそっ! ここで首をはねても仕方がねぇ!」
だぁああ! と声を荒げ、カルーダは剣を引いた。
「おや、良いんですか? もうこんな機会は二度とないかもしれませんよ?」
そう言ってジャックは嫌らしい笑みを浮かべる。
「黙ってろ!」
ネイベルは一気に距離を詰めると、目一杯の力を込めて、頭をぶん殴ってやった。
しかし、右手にひどく痛みが走る一方で、ジャックの頭は微動だにしない。
「ぐぅっ……」
効果が無いと分かると、おぞましいほど冷たい顔面から手を引いた。
「どうなってやがる」
カルーダも、思い切り振りかぶって重たそうな一撃を入れているが、やはり全く動かない。
「ふふ、もう少し彼女と一緒に勉強をしなさい」
そう言うと、ジャックは右手を空に向けて掲げた。
「そろそろお時間となりました。私が任された仕事はここまで、ですので」
「仕事? どういう意味だ」
ネイベルは強い口調でジャックに問い詰める。
「そのままですよ。隠すつもりもありませんし、その意味もありません。すぐに分かる事です」
では、と言い残し、ジャックの体はすぅっと空気へ溶け込む様にして消えていった。
「くそっ! 逃した! 何の手も打てなかった!」
ネイベルは何度も太ももの辺りを叩く。
「呪術でも駄目だったのかよ」
「ああ、駄目だった。カルーダと一緒に、あいつにもかけたんだ。手ごたえは皆無だったよ」
「くそがっ! お手上げじゃねぇか」
「そんな事はないわよ」
リンが口を挟む。
「どういう事?」
「私の補助があったとはいえ、ネイベルは呪術を扱うのは初めてだったでしょう? きっとまだ少し荒かったのよ。そしてあいつもそれを初めから分かっていたんだわ」
「へぇ、そうかよ」
「荒い網で捕まえようとして、逃げられた、というだけだと思うわ。次はもっとうまく出来るはずよ」
ネイベルはすごいんだから、と言ってリンが笑うと、少しだけ心の中にある焦りが静まった気がした。
「それにしても、最後の言い方は少し気になりますな」
ロンメルがそう言うと、全員が考え出した。
「確かにそれも気になる。ミネルヴァの様子だって気になる。ジャックの連れてきた人間が何か知っているかもしれねぇ」
ああ、駄目だ! と言ってカルーダが後頭部をなで回した。
「気になる事ばかりで、頭が破裂しそうだ!」
そんな重たい空気の中、ソーマが口を開いた。
「へっ! じじぃがどうしても分からねぇって言うからよ! 俺も考えてやったが! さっぱり分からねぇ!」
「じゃあ少し黙ってろや」
カルーダはそっけなく返事をしたが、ソーマの続く言葉で全員が全てを理解した。
「腹が減ったしよ、王都に行こうぜ、ネイベル!」
昼も大きく過ぎた頃合だろう、王都が見える所まで来た時点で、既に異変が起きている事が分かっていた。
そのまま大急ぎで走り続け、正門が見えてくると、いよいよ喧騒が耳へと届いて来る。
街の中は火の海になっているのだろう。ネイベル達の視界には、黒煙が至る所からゴウゴウと立ち上り、この距離からでも大きな悲鳴が聞こえてきた。
衛兵が住民を逃がしている姿が目に映る。大勢の人が近隣の街へと避難をしている様だ。
「まさか貧民街は、俺たちを足止めする為だけに燃やしたというのか――」
「あの下種野郎が! 王都の民を丸ごと焼き尽くすつもりかよ」
ネイベルとカルーダは、怒りで震えている。
「まさか、イストの王都を丸ごと燃やすとは……」
ロンメルとカドは絶句していた。
「おぃ、ネイベル、急ごう! 国民が丸焦げになっちまう!」
アルは涙目になっている。
――命を粗末に扱うやつは、絶対に許さない。
ネイベルの怒りは、ついに限界を突破した。
貧民街はただの足止めだった様です。