六
翌日、いつもの寝具の上で目が覚め、相変わらず昼だか夜だかわからない部屋で、少女はぼんやりと天井を見つめていた。常夜灯の灯りが、天井に掘られたレリーフの影を揺らす。
あれから二日間経ったが、少年はまだ生きているのだろうか。それとも、すでに取り去られてしまったのだろうか。小さなラカーナには、その問いに、向き合う勇気がなかった。
ふと誰かに呼ばれたような気がして、ラカーナは起き上がった。何かが自分を手招きしているような気がして、そのまま床に滑るように降りると、扉を開け、吸い出されるように廊下にでる。
不思議と怖じ惑う心などはなかったし、自分を呼ぶ物に警戒する気持ちも起こらなかった。ふわふわとした夢の中を彷徨うような心持ちがしていて、そして、気づくとあの扉の前に立っていた。
ふとみると、いつものうさぎのぬいぐるみではなく、寝具からはがしてきた、掛布を一枚手にしていた。少女は唇を噛むと、扉を睨みつけた。
「まだ生きてるんでしょ、セツリー・ゼノン」軽く扉を叩きながら少女は尋ねた。だが、返事はない。ラカーナの顔が少し青ざめる。「返事しなさいよ。いるんでしょ。」少し口調を強め、少女は力いっぱい扉をたたいた。
「まだいるよ」か細い一言が、扉の隙間から漏れてきた。ラカーナは扉を叩く手をとめ、扉に背を向けると、そこに座り込んだ。少し寒さを感じて、手にした掛布にくるまった。扉の中からはそれっきり何も聞こえず、広間は沈黙に包まれた。
「もうどれだけそこにいるのよ」返事も期待せずに、ぽつりと尋ねる。「九日…十日か。忘れたよ」しばしの沈黙の後、少年の声が返ってくる。少量の水だけで、長い間闇の中に放置された弱冠8歳の少年は、肉体もそうだが、なによりも精神を参らせていた。
「生きてれば、出してもらえるんでしょ」答えはない。ラカーナの頭の中を、焦燥が巡り始める。世界がぐるぐると回りはじめ、涙がぽろぽろと柔らかな褐色の頬を伝い始めた。「答えなさ−」感情の重圧に耐え兼ねて、言葉が終わる前に、少女はその場で気を失って倒れた。
夢を見ているのか、現なのかわからない。ラカーナは、真っ暗な場所にいた。体がぼやけて引き延ばされたような、不思議な気持ちがした。自分の手も見えないのに、目の前に少年が、セツリー・ゼノンが倒れているのが視える。それは、母の遠見の力が突然自分のうちに宿ったような、妙な感覚だった。
少年の傍に、一人の女がうずくまっていた。丈の長い真紅の外套を着た、長い碧翠の髪の女だった。女は水の精霊特有の、髪と同じ色の尖った鰭のようにも見える耳を持っていた。女はその手をセツリーの上にかざすとラカーナにはわからない言葉を呪文のように唱え始める。
夢の中のようなその光景をぼんやり見ていた少女にゆっくりと振り向いた女が言った。「安心せい、ゼフィよ。我が依り代よ。此処に在る限り、我は吾子を、シェケル如きにやすやすと渡すような真似はせん」女は美しくも恐ろしい、凄味のある笑顔を見せる。「二日間、お前の命を分け与えてやるがいい」その言葉を聞いたとたん、ラカーナの意識は、再び闇に飛んだ。
辺りで人のざわめきが聞こえる。「ゼフィ殿、ゼフィ殿」自分を呼ぶ声がする。ラカーナが目を開くと、幾人もの神官が心配そうに覗き込むのが見えた。力ない手足はこわばり、体が冷たい。意識がはっきりするにつれ、体が震え始めた。「もっと掛ける物を」白い髭の神官長が傍にいる女性に指示を出す。ほどなくして毛織の布に包まれた少女は全身の感覚を少しずつ取り戻しつつ、寒さに震え続けた。
なぜこのようなところに。これは起きてはならなぬ事。若干狼狽した、慌ただしい声が飛び交う。ぼんやりした少女の視点があう。「セツリーは…セツリーをあそこから出してあげてよ」震える声で叫ぶ少女に、神官たちの視線が集まる。その時、鍵の開く音が、広間に響き渡った。
神官長がはっとしたように扉を見つめる。10人ほどいた他の神官たちは彼のために道を開け、扉から離れた。一人の体つきの良い女の神官が、震えるラカーナを抱えて他に続く。ほどなくして、長は痩せてぐったりとしたセツリーを抱え、戸口に現れる。
「セツリー」少女の悲壮な叫び声が広間に響き渡った。神官長は落ち着いた物腰で、驚嘆と安堵の混じった笑みを浮かべながら宣言した。「エフェルが供物を勝ち取った」その瞬間、広間は神官たちの感嘆のため息に満ちた。