四
ここには神様がおわすのです。ふわふわと柔らかそうな真っ白い髭をたくわえた、背の高い穏やかな物腰の神官の言葉を思い出す。貴女様を害する物はこの神聖な場所には入れません。彼は確かにそう言った。ラカーナは、じっとりと汗の滲んだ手で、うさぎのぬいぐるみをしがみつくように抱きしめた。
神官の言葉が本当ならば、泣き声の主は、悪霊や魔物といった類の物ではない。しかし、北の大陸で聞いた物語の中で泣いて回るのは、いつも人を呪い死者の世界へ引きずり込もうとする泣き女や、愛する者から引き離されて嘆き悲しむ、子供の霊ばかりだった。
床に座り込んだまま、少女はじっと泣き声を聞いていた。雪の中にいきなり放り出されたかのように、震えが止まらず、歯がぶつかりあって小刻みな音を立てた。
まず彼女の心に浮かんだのは、そこから逃げ出さねばという思いだった。その瞬間、母がいつも自分に言っている言葉を思い出した。目に見えぬ物たちは、みなが言うほど、怖い存在ではないわ。霊や神々や運命と言った、見えぬ存在と、近しく交流を続けて来た彼女は、北の怪談話を聞いてきては怖がる娘を諭しては、いつも可笑しそうに優しく笑っていた。
まず、向かい合ってごらんなさい。ただし、心を強く持って、弱さを見せてはだめよ。その弱さにつけ入ろうとするもの達もいるのだから。ラカーナは立ち上がった。彼女がいるのは、命を司る偉大なエフィル神の神殿の中なのだ。まだ膝は震えていたが、奮い立たせた心からは、恐れも粗方拭われていた。
少女の恐怖は、少しずつ好奇心へと変わっていた。泣き声は、巨大な幕の向こうから聞こえてくるようだった。幕に、壁に沿って歩きながら周りを見まわすが、扉や通路の類は見あたらない。仕方がないので、床に寝そべって、ぶ厚く重い幕の裾をちょっとめくりあげて覗き込んでみた。
幕の後ろには、人が20人も入ればいっぱいになりそうな空間があり、重厚な両開きの扉が鎮座している。声はその向こうから漏れてくるのだった。ラカーナは身をよじらせながらもぐりこむ。それから体を起こすと、うさぎのサンパーも入れてやった。
そっと歩くが、足音は幕の布に吸収されて、ほとんど聞こえない。壁に取り付けられた、無数の灯が、扉を明るく照らしていた。扉には幕にも刺繍されていた緑色の衣を纏うエフィル神と、もう一方、何者かの絵が描かれてていた。
ラカーナが近づいてみると、それは終焉と安息を司る神、純白の衣を纏うシェケル神だった。エフィル神は命を生み出す、碧い始原の鉢を手にしており、シェケル神は終わる命を安寧へと導き、再び受命へ向かわせる、赤い終焉の鉢を手にしている。少女は、不思議な感覚を見る物にもたらす、向かい合って立つ二柱の神の絵を、食い入るように見つめた。
ぼんやりしていたラカーナは、誰かが咳き込む声に現実に引き戻された。扉の向こうで、誰かがむせているようだ。少女は背筋を真っすぐに伸ばし、扉の神々をにらみつけた。
「そこにいるのは誰だ。カーナディーナのダヒナが命ずる。小さき者よ、おまえの名を我にしめせ。」精一杯威厳のある声を出したつもりだったが、少女の軽い幼い声は、頼りなく扉に反響した。
まだ少しむせていた泣き声はぴたりと止み、しばしの沈黙が小さい広間を埋める。「こんなとこで何やってんだよ、アルタケアの雑種が」涙のせいでか少々震えていたが、憎々し気な少年の声が、扉の向こうからはっきりと聞こえた。
ラカーナは面食らったような顔をして、息を飲む。「そ…それはこっちのセリフでしょ。あんたこそこんな所で何ぎゃあぎゃあ泣いてんのよ、セツリー・ゼノン」ラカーナも負けずに言い返す。こんな奴におびえて震えていたなんて、と、憤りとも、恥ずかしさともつかぬ感情で、頬が赤くなる。
誰も入れないはずの神殿内で泣いていたのは、運命を呪う子供の霊でも、はたまた生者を死の国に引きずり込む泣き女でもなく、つい数週間前に自分が殴ってそのへらず口を黙らせた、族長の末息子だった。