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さるかに合戦 ~ 逆襲の猿 ~

作者: 西一三

 芥川龍之介の説によれば、さるかに合戦において、見事に親の敵の猿を討ち取った蟹は、その後警察に捕縛され、死刑に処されたという。

 しかし、芥川の言うこの事件は、明らかに明治・大正期のものであり、我々のよく知る昔話のさるかに合戦とは別種の事件である可能性が高い。

 やはりこういった昔話は、江戸時代以前が舞台であると考えるべきではないだろうか。そしてそちらの事件では、蟹は捕縛も処刑もされず、全く別の運命をたどることになったはずなのである。

 私がそう自信を持って言えるのには、一つの根拠がある。

 実は私は、かのさるかに合戦において討ち取られた猿の子孫と名乗る人物、いや猿物に話を聞くことができたのである。

 あれは二年程前、暑い夏の日の事であったか。近畿地方に旅行に行った私は、とある動物園でひっそりと暮らすその老猿と出会った。

 飼育員の話によると、かつてはボス猿として君臨していたこともあるらしいが、年老いた今となっては、他の猿と積極的に交ろうとせず、群れの片隅で静かに餌を食う毎日だという。

 その哀愁漂う背中に何かを感じ取った私は、思わずその老猿に声をかけていた。

 老猿は面倒くさそうに私の話に応じていたが、そのうち驚くべきことを口走り始めた。

 それがまさしく、自分はさるかに合戦で殺された猿の子孫だ、という話である。

 そして蟹と同じく猿にもまた家族がおり、例のさるかに事件の後、殺害された猿の遺族によって、ある一悶着が起こされたというのである。

 興味を持った私は、もっと詳しい話を聞かせてくれるよう頼み込んだ。その対価としてバナナ五本を提示すると、老猿は渋々と言った様子ながらも、私の取材に応じてくれた。



 老猿によると、子蟹による親蟹の敵討ち事件、いわゆる『さるかに合戦』は、寛政年間の出来事であるらしい。

 正確な年代までは伝わっていないようだが、寛政年間と言えば西暦1789~1800年頃のことであるから、明治ほどではないにせよ、意外と近代の事件であったようである。

 文武を奨励し、忠孝に重きをおく当時の気風もあり、世間の蟹に対する反応は、実に好意的なものだった。

 横歩きしかできぬ不自由な甲殻類の身でありながら、見事親の敵を討ち果たすとは、誠に孝子の鑑であるとして、奉行所から表彰すらされたらしい。

 しかし、遺された猿の家族はみじめであった。

 猿には年若い妻と幼い小猿がいたが、妻は世間の冷たい視線にさらされ、心労からか間もなく病に倒れて死んだ。

 何もわからぬまま両親を失った小猿は祖父母に引き取られ、世間の目から離れた奥深い山奥で暮していくことになった。もし猿でなければ、現代まで子孫を残すことはできなかったであろう。

 そんな遺族たちの悲惨な境遇を見て、遂に怒りを爆発させた猿物がいた。

 討たれた猿の、実の兄である。

 この兄猿、元来はおとなしい猿物で、なにがあろうと、見ざる、言わざる、聞かざるを決め込んで、常に日光の山中に引きこもっていた。

 そんな猿物が山を下りる決心をしたほどであるから、かのさるかに事件において彼が受けた衝撃は、よほどのものであったと言えよう。

 しかし、弟の敵を討つにあたって、二つの問題があった。

 一に、敵討ちとは、卑属が尊属の敵を討つときのみ認められるものである。つまり、父や兄の敵を子や弟が討つことは合法でも、その逆は認められないということである。

 そして二に、そもそも敵討ちで討たれた側の遺族が、またその討ち手を狙うことは認められていないのだ。

 つまり、兄猿が首尾よく蟹を討ち果たしたとしても、待っているのは世間の称賛などでは決して無く、単なる凶悪な殺蟹犯として捕縛され、極刑に処されるという運命なのである。

 だが、兄猿はそれでもなお、弟の復讐を果たすことを考え直そうとはしなかった。

 それほどの執念がどこから来るのかと考えたくなるが、老猿によれば、実は兄猿は弟の妻に惚れており、どちらかというと彼女のために敵討ちの道を選んだのではないかという。

 確かに、その可能性も捨てきれないだろう。

 ともあれ、兄猿は非常な決意をもって山を下りた。


 兄猿がまず行ったことは、蟹とその一味の洗い出しである。

 主犯格が蟹であることは確定しているが、他に手を貸した者たちがいることは間違いないのである。

 しかし、これがなかなか難しかった。

 町に出れば、どの瓦版にもさるかに合戦の事が詳しく書いてある。しかしながら、瓦版屋の宿命として、話に脚色があまりに多く、どれが真実なのかがさっぱり分からないのであった。

 一味の者どもも、蟹は確定として、その他のメンバーが瓦版によって変わっている。

 臼、蜂、栗、卵、昆布、蛇、包丁……。まさか全員が加わっていたわけでもあるまいし、またここに書かれていない助っ人がいた可能性もある。とりあえずわかったことは、一味の者たちの残虐なるピタゴラ装置により、弟猿は命を落としたということである。

 多数の瓦版に何度も目を通しているうち、兄猿は一つの共通点に気がついた。どの版にも、全く同じ役割で参加している者、いや物がいたのである。

 その物の名は臼。事件を報じるどの瓦版でも、最後に猿を押しつぶす役目を果たしている。

 兄猿は、まずその臼を探し出し、事件の詳細を聞き出すことにした。

 猿にとどめを刺したことで有名物となっていた臼の所在は、あっさりと判明した。江戸からほど近い、とある農家の納屋におかれていたのである。

 薄暗い納屋の中であったが、目を凝らしてみると、臼の底部付近には赤黒い染みのようなものが見える。これこそが弟を押しつぶした臼だと確信した兄猿は、すぐに行動を起こした。

 引きこもっていたとはいえ猿である。その運動能力は臼などとは比べ物にならない。

 兄猿は、臼がその姿に気付くよりも早くその頭上に駆け上がり、まるで切株にそうするように深く腰掛けた。

 ようやくその存在に気づき戸惑う臼に対し、兄猿は恐るべき宣告をしたのである。すなわちそれは、

 ――言うことを聞かなければ、このまま脱糞する。

 というものであった。

 臼は恐怖のあまり、何でもするから許してくれと命乞いを始めた。

 兄猿はそれには答えず、まず蟹一味の情報を話すよう求めた。臼は震えながら、一味の名前を一匹ずつ挙げていった。

 頭領の蟹、この臼、蜂、栗、牛糞……。

 ――牛糞。

 兄猿はさすがにショックを受けた。まさか、弟の命を奪った一味の中に、うんこが混ざっているとは思わなかったのである。

 それにしてもなぜ蟹は、牛本人でなく、その排泄物に声をかけたのだろうか。これは見ようによっては、お前よりもお前のうんこのほうが役に立つと宣言したようなものであり、牛にとって最大級の侮辱だと言える。

 だが、この状況で臼が嘘を言っているとは思えない。おそらく蟹一味はこの三匹と二個で間違いはないのだろう。

 臼によると、敵討ちを実行したのは、寒い冬の日であったという。

 一味はターゲットの猿が別荘として使っていた小屋に、密かに忍び込んだ。

 猿が小屋に帰還し、囲炉裏で体を温めようと火をつけると、まずは熱せられた栗が囲炉裏からはじけ飛び、猿の顔に熱い一撃を食らわせた。慌てた猿が水桶で体を冷やそうとすると、今度はそこに隠れていた蜂が、猿の顔を突き刺した。これはたまらんと小屋から逃げ出そうとした猿だったが、玄関に忍んでいた牛糞に滑って転倒し、そこにとどめとして屋根から臼が落下、猿の体を押しつぶしたのである。

 一部始終を聞かされて、兄猿は涙が止まらなかった。なぜここまで残虐な仕打ちができるのか。憎っくき蟹の外殻をこじ開け、蟹みそを食らいつくしてやりたいと思った。

 だが、蟹に天誅を下すのはやはり最後がいい。まずは一味の者どもを、一匹ずつ始末して行こうと、兄猿は考えた。

 残念なことに、蟹一味のうち栗は、弾けて役目を終えた後、他の一味によって美味しくいただかれてしまったらしく、既にこの世にない。

 蜂もまた、よりにもよってミツバチであったようで、猿に全身全霊の一刺しを食らわせた後、間もなく息絶えたという。

 そして、最も消息を探るのが難しいと思われた牛糞も、近所の百姓によって畑にまかれ、おいしい野菜の肥料と化したそうである。

 すると残るは、主犯である蟹と、目の前にいる臼のみということになる。

 自らの手で討つはずであった敵のほとんどが、既にこの世から消えているという事実は、兄猿の心を激しくかき乱した。この場で思い切り「ウキー!」と、鳴き声をあげたくもなった。

 それでも、主犯である蟹と、殺害の実行犯である臼が残っているだけでも幸運だったと思い込むことで、兄猿は何とか鳴き叫ぶ衝動を押しとどめる事ができた。

 しかし、心中は平静でいられるわけがない。兄猿により洋式便器の如く扱われている臼にはわかるはずも無いが、このとき兄猿の目には、狂気をおびた激しい殺意が映し出されていたのである。

 納屋から臼が蹴り転がされたのは、それから間もなくのことであった。不運にも納屋が小高い丘の上に位置していたことが、臼の悲惨な最期を決定づけることとなった。

 もはや文字通り手も足も出ず、勾配を勢いよく転がりぬける、ただの円柱状の物体となってしまった臼に、出来ることは何もなかった。

 近年、東京湾の海底約200mの地点で、漁礁と化した古い臼が発見された。調査の結果、この臼は江戸時代中期~後期のものだということが分かっている。断言はできないが、この臼の正体が、兄猿によって転がされた臼のなれの果てという可能性は捨てきれない。

 ともあれ、兄猿は一つの復讐を果たした。弟の命を奪った臼を、その手で漁礁に(おそらくであるが)してやった。残るは、もっとも憎むべき蟹だけである。

 自らの敵討ちのために仲間を集めておきながら、殺害の実行は仲間たちに任せ、自らの手は汚さない。そのような性根の腐りきった甲殻類を、許しておけるわけは無かった。

 幸い蟹は、奉行所に表彰された事で有名蟹になっていたので、その所在は人に尋ねればすぐにわかった。

 兄猿は、その殺意を隠そうともせず、憎んでも憎み足らぬ蟹の前へ姿を現したのである。



 ここまで語り終えると、老猿は沈黙した。

 私は、ここからが重要な場面なのではないかと、老猿に続きを促したが、彼は応じなかった。

 もしや報酬のバナナが足りなかったのかと、新たに五本を提供することを提案したが、それでもなお、続きを語ろうとはしなかった。つまりこの後の話は、この老猿が純粋に知らないのか、もしくは語りたくないのかのどちらかであろう。

 知らなかったのならばどうしようもないが、私はこの老猿の態度に違和感を覚えた。おそらくは後者なのだ。先祖であるさるかに合戦の猿、もしくは現代に生きる老猿にとって、あまり他人に言いたくない事実が隠されているに違いない。

 様々な餌を提示し、なんとか聞き出せたことは次の二つの事実であった。

 ―― かの兄猿はその後、日本を離れて東南アジアへ渡り、そこで死んだ。

 ―― 猿と蟹との戦いは、今も続いている。

 もし私に時間があれば、何日も動物園に通いづめて、もっと細かい話を聞くことができたのかもしれない。だが、残念ながらこのときの私は、たまたまこの動物園に訪れた旅行者に過ぎなかった。

 数日間の旅行を終え、自宅に帰った後、私はさるかに合戦に関する様々な文献、及び絵本を調べ始めた。そのうち、確実とは言えないまでも、おそらくはこうであったのではと、仮説を述べる事が出来るようになったのである。

 ここから先は私の想像になる。だが、老猿があえて語らなかった真実と、大きく異なるものではないと考えている。

 

 兄猿は、おそらく復讐を果たしたのであろう。だが蟹の繁殖力を甘く見ていたのである。

 多くの絵本では、猿によって青柿をぶつけられた蟹は、そのショックで大量の子供たちを産んでいる。おそらくは兄猿が討ち果たした蟹にも同じことが起きたのではないだろうか。

 兄猿が弟の敵を討ったとき、瀕死の蟹の腹から、多数の子蟹たちが現れた。そして死にゆく母蟹は言うのである。

「たとえ我が滅びようと、子たちがいずれ、この恨みを晴らす……」

 そのとき、兄猿は非常な恐怖を覚えたに違いない。目の前の大量の子蟹たちがすべて、いずれ自分の命を狙う刺客となるのである。

 もちろん兄猿は、生まれたばかりの子蟹を全て踏み殺した。しかし、それから一刻もたつと不安がよぎるのである。本当に全てを殺しつくしたのか、と。

 さらに冷静に考えると、はじめに自らが討ち果たした蟹にもまた、同時に生まれた兄弟蟹がいたはずなのである。するとこの兄猿を敵と狙う蟹が何匹いるのか、全く想像すらできない。

 自分の命をいつ奪いに来るかわからぬ大量の蟹地獄の中、兄猿はついに発狂した。

 だが所詮は蟹、すべて食い尽くしてくれる。兄猿は、目に見える蟹をすべて食い尽くす魔猿と化した。そして日本だけでは飽き足らず、世界の蟹を食い尽くさんと祖国を離れたのである。

 現在『カニクイザル』と呼ばれている猿は、おそらくこの兄猿の子孫であろう。ジャワ島やスマトラ島など、東南アジアに生息しているにかかわらず、身体的特徴がニホンザルに酷似しているところも、この説を裏付けている。

 おそらく、老猿が言う、現代も続く猿と蟹との戦いとは、猿が蟹を食い尽くすか否かの戦いということなのだろう。蟹、おそらくは猿を殺したサワガニを殺しつくすまで、彼らの戦いは終わらないのである。


 ここからは余談である。

 つい先日、かの老猿と出会った動物園に再び訪れることができた。

 だが残念なことに、私に興味深い話を聞かせてくれたあの老猿は、三カ月ほど前に死んでしまったという。

 しかし、飼育員によると、老猿は死ぬ直前に興味深い言葉を残したらしい。

「猿は勝てり」

 この言葉は何を意味するのか。

 無論、世界、いや日本中に蟹は生息しており、かの最重要容疑者であるサワガニも、当たり前のように健在である。それでもなお、勝ったと宣言ができるのは、何を根拠としているのだろうか。

 これは完全に私の予想だが、猿の子孫は、すべての蟹ではなく、かのさるかに合戦の蟹の子孫だけを根絶やしにしようとしたのではあるまいか。

 無論、蟹と比べれば、哺乳類である猿は繁殖力においてかなりの遅れを取っている。それでもなお、かの猿の執念は、復讐を諦めるということを知らなかったのである。そう、現代にまで子孫を名乗る猿が現れるほどに。

 かの猿一族は、宿敵たる蟹の一族を常にマークしていた。そしてついに、その蟹の血を引く最後の一匹が死んだことを確認したのではないだろうか。

 だからこそ、最後に残った猿一族の老猿は、勝利宣言をして死んでいったのである。

 だが、重ねて言うが、これはあくまでも私の予想でしかない。

 もしかしたら、この世界に、いや日本に、かのさるかに合戦の蟹の子孫が生き残っている可能性も捨てきれぬのである。

 もし、川や海で気になる蟹に出会ったら、是非詳しく話を聞くことをお勧めする。

 ひょっとしたらその蟹が、かの『さるかに合戦』を、現代に伝える蟹であるかもしれないのだから。

 



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― 新着の感想 ―
[一言] ギャグ。……ギャグ? いや、ギャグもあったが、シリアスな雰囲気がかなり良かった。
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