怪物の腕の中
視点:セリナ
王妃の寝室の前につくと、フレシアさんがケーキと紅茶を乗せた配膳台を押して部屋に入っていくのが見えた。私も続いて入ると、そこには薄い絹の寝間着に身を包み、静かに俯いてベットの端に座るノワール様の姿があった。フレシアさんが配膳台をノワール様の前に運び、下の段から白い布を取り出してノワール様の髪を拭いた。近づいてみると、きっとお風呂から出た直後なのだろう、ノワール様の身体は上気し赤みを帯びていて、髪は濡れていた。
フレシアさんに髪を拭かせている間、ノワール様は配膳台の上の紅茶を嗜み、滑らかな動きでケーキを口に運んでいた。
まるで名匠の絵画をそのまま再現したかのような一種の美しさを帯びたその光景に、私はしばらく立ち尽くしていた。彼女らに近づいてしまうと、私も絵画の世界に取り込まれてしまうような気がしたのだ。
ノワール様がカップの中の紅茶とケーキをすっかり消し去り、フレシアさんがあの方の髪を拭き終えると、あの方は、静かにベッドに横になり、私を呼んだ。
「セリナ。こっちへいらっしゃい」
その声を聞くと、私はたまらなく懐かしく、寂しい気持ちになった。まるでお母さんが私を寝かしつけるために、ベッドで呼んでいるような、そんな優しい声色だった。
私が従ってベッドの端に立つと、ノワール様は掛布団を広げて私を誘った。私が誘われるままに一緒のベッドの中に入ると、ノワール様は私の身体を引き寄せて抱きしめた。
高級な石鹸の匂いと、上気した暖かさを存分に含んだ身体に包まれると、私は胸が締め付けられるような感覚がした。目を瞑れば、香りこそ誇張されているものの、まるでお母さんの腕の中にいるような気がした。
自然と目頭に熱いものが伝ってきた。それは私の頬を滑るとともに冷たくなり、ベッドの中に沈んでいった。細長く、繊細な指が私の頬を撫で、冷たい軌跡を拭い取った。
「そんなに寂しかったのかしら?」
囁くような声が、私の耳元で淡く漂った。
「なんだか、昔のことを思い出しちゃって・・・」
言葉を一つ言うごとに、私の息が無秩序に乱れていくのがわかった。何とか抑えようとしたけれど、次第に乱れは大きくなっていき、ついに私は自分がしゃくりあげるのを止められなくなった。
こんな姿を見せてはいけない。私の頭はそれを理解していた。いくら美しい見た目をしていようとも、いくら私を優しく抱きしめようとも、この人は怪物なのだ。でも、もうすがらずにはいられなかった。あまりに残酷な、甘い誘惑だった。
私が、情けないことに、一通り泣きじゃくった後、ノワール様は優しい声で私の耳を塞いだ。
「あなたはまだほんの子供よ。それなのに、あなたはあまりに重いものを背負い。そして恐ろしいことを成そうとしている」
恐ろしいこと。ノワール様がそう言うまで、私は自分の復讐が恐ろしいことなどと考えたことは一度もなかった。正当な暴力だと、当然のように思っていた。
でも、言われてみれば、自分が正気の沙汰でないことは理解できた。私は、私の故郷を焼いたあいつらをもし見つけ出せたなら、その家族も含めてみんな同じように燃やしてやろうと思っていた。それが当然の報いだと。
私と同じ境遇を持つ者なら、みんな私と同じことを考えるのだろうか?それとも、私だけが秀でて、特別に残酷な性質の持ち主なのだろうか。そう考えると、私自身も恐ろしい怪物のような気がした。
私を抱きしめているこの人が怪物であれば、抱きしめられている私もまた、怪物なのだろう。
二つの怪物が互いに傷を舐めあっている。他の誰かの目には、滑稽に映るに違いない。
でも、だから何だというのだろう?今この瞬間の私にとっては、この腕の中だけが世界なのだ。その外のことなど、今はどうでもいい。
私の呼吸が落ち着いてしばらくすると、ノワール様は静かに囁いた。
「正直、私があなたにしていることが、正しいことだとは思わないわ」
ノワール様が、目隠し越しに私を見ているのがわかった。優しいまなざしのような気がした。
「それでも、あなたが望むなら、私は全てあなたに授けてあげられる。それが破滅への道だとしても」
「私はすでに破滅しています」
私は目を伏せて言った。
「他に行くところなんて・・・・」
・・・・実は、ある。父の元だ。あの時、村に居なかった父はまだ生きているはずだ。
正直、私は父が恋しくてたまらなかった。何度か会いに行こうかとも考えたこともある。でも、どんな顔をして会いに行けばいいのだろう。私はすでに4人も人間を殺してる。そんな娘を、本当に父が望むだろうか。隠し通そうにも、私には日常的にずっと嘘を吐き続けることはできない。いつか必ずぼろが出る。それが知れたら、父はどう思うだろうか。
なら、もうセリナは炎の中で死んでしまった方がいい。その方が父は見切りをつけられるはずだから。
「他に行くところなんて・・・ないんです」
私は自らの手で、最後の故郷を閉ざしてしまった。いや、私がしっかりと蘇生術を使えるようになれば、村の皆を蘇らせられる。そうすれば、村は再興できるはずだ。
きっと、私は故郷に帰れる。
「だから、引き続き私に死霊術を教えてください」
私がそう言うと、部屋の中に妙な沈黙が訪れた。「ノワール様?」と私が顔を覗き込むと、あの方は少し動いて「ああ・・・なにかしら?」と私に尋ねた。
「まさか、寝ていたんですか?」
いつもは人に隙を見せないノワール様が、私の前で眠りこけるなんて。私が刺客だったらどうするつもりなのだろう。というか、目隠しのせいで寝ているのかわかりづらいじゃない。おかしくて私が笑うと、ノワール様は不思議そうな顔で私に尋ねた。
「そんなに面白いことかしら?」
「ふふっ。だって、珍しいじゃないですか。ノワール様が油断してるなんて」
「ここ1か月寝ていないのよ。それに、3日も夢想家な吸血鬼達の下らない会議に付き合っていれば、私だってさすがに堪えるわ」
「まさか、3日間ずっと会議を?」
そんなこと可能なのだろうか。よく話題が尽きないものだ。私だったら五分で机に突っ伏して寝てしまうに違いない。
「あいつら、私が人間だってことを忘れてるのよ。吸血鬼の一時間と人間の一時間は体感が全く異なるということもね」
「というか、きっと忘れたいんですよ。自分たちより偉くて強い人間がいるってことを」
私がいたずらっぽく笑うと、ノワール様は口元を緩めた。このジョークはうけたらしい。
「三日間も、何の話をしていたんですか?」
私が尋ねると、ノワール様は数秒間沈黙した。また寝てしまったのかと思った直後、思い切ったようにノワール様は口にした。
「帝国と連合が事を構えた場合の、ローゼンクライツの身の振り方について」
ノワール様はきっと、和やかに事を伝える為に遠回しな言葉を選んだのだろうけれど、それでも私は慄かずにはいられなかった。他人事だと思っていた──思いたかった──戦争が、急に私の肩に手をかけた気がした。
「それで・・・結論は?」
私が恐る恐る尋ねると、ノワール様はまた数秒間沈黙した後、静かに言った。
「あなたは知るべきじゃないわ」
私に気を使ったのか、それとも私がどこかでうっかり口を滑らせるのを警戒しているのか、ノワール様は答えてくれなかった。でも、結果としてますます私の脳裏には嫌な憶測が駆け巡った。まさか、どちらかの陣営に味方して戦争に加担するつもりなんじゃないか、というのが、私に想像しうる一番の不安だった。不安げな表情を隠しきれなかった私を安心させようとしたのか、ノワール様は私の手をとった。
「あなたは気にしなくていいのよ。仮にやりあうとしても、血を流すのは吸血鬼達よ。むしろ、レイブンスケールに引きこもりっぱなしで運動不足の吸血鬼たちにはいいダイエットになるでしょうね」
ノワール様はクスクスと笑った。でも、私の不安はまだ拭えなかった。だから、どうしても自分の身が安全であるということに確証を持ちたかった。
「もし、戦争になったら、私を守ってくれますか?」
それを聞くと、今まで穏やかな表情をしていたノワール様が、急に感情を失ったように無表情になった。
「いやよ」
私の全身が凍るような感覚に陥った。真っ暗な海の上でぽつんと浮いているような、そんな激しい孤独感が波のように押し寄せてきた。
「そんな・・・どうして・・・」
涙目になった私の絞り出すような声を聞くと、ノワール様は不愉快そうに、私に重ねていた退けた。
「これから何人も殺そうって人間が、誰かに身を守ってもらおうなんて厚かましいにもほどがあるわ」
ぴしゃりと言い放つノワール様の言葉に、私は言い返せなかった。そう、自業自得だ。誰かを傷つけておいて、私だけ身の安全を保障してほしいなんて、そんな都合のいい話が通らないことくらい、自分でもわかっていなくちゃいけなかったはずだ。
どうやらこの布団の中があまりに心地よくて、私は小さな子供がとり憑いたみたいにわがままになっていたらしい。
不安で沈む私を見て、ノワール様は静かに語った。
「相手は殺したいけれど、自分は死にたくない。それは構わないわ」
ノワール様は、また優しげな口調に戻してくれた。
「でもね、そんなわがままくらい、自分で成し遂げなさい。そのための力は、私が授けてあげる」
ノワール様の優しさに報いようと、私は不安を押し殺して笑って見せた。
「ありがとうございます」
私が不安に打ち勝ったのを見て、ノワール様は静かに微笑んだ。
しばらく和やかな無音が続いた後、ノワール様は吐息交じりの気だるげな声で言った。
「すごく眠いわ。でも、思考がはっきりしていて眠れない」
「あの、私が邪魔ならおっしゃってください。すぐに出ていきますから」
「いいえ、そこに居て頂戴」
意外な要求に、私は驚きで少し息が止まった。どうやら小さな子供が取り憑いているのは私だけではないらしい。
「そうねぇ。昔話でも聞かせてあげるわ」
「はは。普通、寝かしつける方がするんじゃないですか?」
「今はとにかく思考を逃がしたいのよ」
「なら、ありがたくご拝聴いたしますわ」
どんな話をしてくれるのだろう。と、私は少し楽しみになった。ノワール様の生い立ちだろうか。こんなにも大人っぽいノワール様の子供のころなど、とても想像できない。
ノワール様は、もったいぶって、こほん、と咳払いした。
「その昔、原初の二つは衝突した」
その語り出しが何なのか、私は知っていた。それはノワール様の生い立ちでも、古代の英雄譚でも、誰かの悲恋でもなかった。
創世記。この世界の始まり。言い伝えられている神話。
ノワール様は私に、この世界の心理について語ろうとしているのだった。




