真似事
眠い。エイズのせいでほとんど眠れていなかった私は、あのあと部屋に帰って布団に転がり込んでから、そのまま貴重なお休みの日をまるまる睡眠に費やしてしまった。それでもまだ足りない。本当は後半日ほど眠っていたかった。それでもなんとか、私は目をこすりながらノワール様の研究塔に足を踏み入れた。
塔の中はいつもとは様子が違うようだった。いつもなら、私がここに入るとフレシアさんが私を出迎えてくれて、そしてノワール様の居場所にたどり着けるようにこの広い塔の中を案内してくれる。けれども、今日のエントランスは閑散としている。それだけじゃない。私が上を見上げると、今までの眠気が吹き飛ぶような摩訶不思議な光景が広がっていた
シャンデリアはグルグル回っているし、飾られていたはずの絵画はどれもこれも塔の中を飛び交っている。天井が見えないほど高く、上に続く螺旋階段は段が途切れ途切れなうえ、時々引っ込んだり出てきたりしてとても危ない。私は何が何だかわからず、最初はこれを夢だと思っていた。
ガンッ
「痛ッ」
突然頭の上に本が降ってきた。頭の痛みでこれが夢ではないことを実感する。おかげですっかり眠気は覚めたけれど、続けざまに本が落ちてきてとても危ない。中には辞書みたいに分厚いのまで含まれていて、もしあれに当たったら頭蓋骨が割れるか、首の骨が折れてしまう。
私は近くを飛んでいた立派な額縁の絵画を一つ捕まえて、それで頭を守りながら不安定な螺旋階段を登っていった。
しばらく登って行くと、踊り場で二体の甲冑が互いに剣で頭を叩き合っていた。私は二体の間をタイミングよく通り抜け、更に上を目指した。その時、私が足をかけた段が崩れ落ち始めた。私は急いで次の段に足をかける。するとそこも崩れる。次の段も崩れる。私が足をつけた段が次々に崩れ、私は立ち止まる事が出来なくなった。急いで駆け上がらないと遥か下に落ちてしまう。その間にも頭上からは大小様々な本が落下していた。しかも、本が落ちた階段は、私が足をつけた時と同じように崩れてしまう。急いで上がらないと"詰み"になってしまうかもしれない。私は、この長い螺旋階段が早く終わることを願いながら必死に駆け上がった。
でも、すぐに終わりが来た。それは私が望んでいた終わりではなかった。私の目の前で階段は途切れていた。私の足元が崩れる。私はずっと下に落ちていった。
落ちていく、ようやく見えていた天井がどんどん遠ざかる。螺旋階段が回る。回る。回る。
私は積み上げられた本の海に落ちた。どんどん沈んでいく。不思議と心地よかった。ちょっぴり怖くて、でも暖かい。この世のどこよりもここが安全なのだと感じた。体がどんどん重くなる。もう動く気になれない。このままどこまでも沈んでいきたい...
あれ?
私は...寝ていたの?
赤いカーペットから起き上がると、目の前に一つの光に照らされたドアがあった。それ以外には一切光はなかった。
私はドアノブに手をかけた。中から甘い香りがしていた。ドアノブを回し、ドアを押した。開かない。いくら押しても、ドアはピクリともしなかった。そして、私が思いきり体当たりしようとした時、中から声が聞こえてきた。
「引きなさい。いくら押したって開かないわ」
ドアを引くと、それは簡単に開いた。中に入ると、ムワッとした甘ったるい匂いが私の鼻をついた。
中は広い部屋だった。壁一面全て黒と赤のストライプで、奥に見たことないほど大きなプリンセスベッドが置かれている。壁際にはラッパのついた変な箱──蓄音機──が置かれていて、そこから脱力を誘うゆったりした音楽が流れている。
そして、部屋の中央にある豪華な黒金の装飾の椅子に、ノワール様が浅く腰掛けていた。脚を組んで、肘掛にもたれ、気だるげにキセルを咥えている。
「ノワール様...?」
広いこの部屋の中で、ポツンと一人、椅子に座っているノワール様は、ひどく寂しげに見えた。
「セリナ...まぁ、よく来たものだわ。わざわざ、こんなところまで...」
ノワール様のその一言で、私はいつもと違う塔の事を思い出した。
「そっ、それどころじゃないですよ!ノワール様の研究塔、凄いことになってましたよ?」
「凄い事?」
ノワール様はキセルを一息吸って、ゆっくり煙を吐き出してから言った。
「面白そうね。聞かせて頂戴」
私は出来るだけあの惨状を克明に伝える為に、大きく身振り手振りしながら必死に話した。
「階段は崩れるし!本は落ちてくるし!絵は飛び回ってるし!あ、しかも塔の中、こぉ〜んなに高くなってましたよ!雲に届くぐらい!」
「ふぅん。そう。」
聞いてきたくせに無関心そうにキセルを吸い続けるノワール様に、私は少しムッとした。
ノワール様はそんな私を気にする様子も見せず、急に糸が切れた操り人形みたいにダランと脱力した。
「ああ・・・いい気分だわ。セリナ。ちょっと葡萄酒を注いでくれるかしら」
ノワール様は指先でセラーを指さした。セラーにはほとんどお酒が入っていなかった。だから、私は迷いなくノワール様が飲みたいのであろう葡萄酒を取り出すことができた。
「あの、コルクがないんですけど」
私が振り返ってそう言うと、ノワール様はさっきセラーを指さした指をそのままクイッと上に曲げた。
すると、私の手元の葡萄酒がキュポンと音を立てた。見てみると、栓が外れていた。
葡萄酒の栓を開けるのにも魔法を使うなんて。魔法使いが運動不足で太らないのが不思議だ。そもそも、魔法で栓を外せるなら私が葡萄酒を注ぐ必要さえないように思うけれど。
私は葡萄酒を両手に抱えて、金属の杯に注いだ。そして、その杯をノワール様に渡した。
「あなたの分も注ぎなさい。」
ノワール様がそう言うので、私はもう一杯葡萄酒を注いだ。それを見ると、ノワール様は私に向けて杯を掲げた。
「杯に血を」
ノワールが急にそんなことを言い出すものだから、私は思わず、は?と小さい声を出してしまった。
そのあと、ノワール様は微笑んで補足した。
「吸血鬼流の乾杯よ。代表者が「杯に血を」と言ったら、それを受ける者は「血に栄光を」と返すの。」
ノワール様がもう一度、「杯に血を」と言って杯を掲げた。
でも、私は乾杯を躊躇ってしまった。
しばらく黙り込んでいると、ノワール様は露骨に不機嫌そうに「私の酒は飲めない?」と言った。
私はまた少し黙った後、恐る恐る言葉を発した。
「その、そういうわけじゃなくて・・・。その、私、吸血鬼の真似事なんて・・・」
そう、私自身、葡萄酒は嫌いじゃない。それに、ノワール様が私に振舞ってくれるなら、喜んで受け取りたいところだ。
でも、その時私の脳裏には、グレース村の住人に対して傲慢に振舞う吸血鬼たちの顔が浮かんでいた。
「どうしてノワール様は、こんなところにいるんですか?」
私は急に気になって、思わず率直な疑問をノワール様にぶつけてしまった。
でも、言葉足らずだったみたいで、ノワール様は小さく小首を傾げ「どういう意味かしら?」と言った。
私は慌てて言葉を繋いだ。
「ノワール様は人間じゃないですか。それなのに、なんで吸血鬼が住む土地にいるんですか?正直言って、ここは・・・人間が住む場所だとは思えません」
それを聞くと、ノワール様は何かを察したような表情で頬杖をついて「どうしてだと思う?」と、逆に私に聞き返してきた。
でも、どうしてだと思うって・・・そんなのわからない。
「吸血鬼が偉大で、人間が矮小だから・・・?」
私はグレース村の人々の顔を思い描いた。でも、ノワール様が心底馬鹿らしそうにクスクスと笑うので、私は自分が言ったことが的外れな答えなのに気付き、恥ずかしくなった。
ノワール様が笑いながら言った。
「そんなわけないでしょう?偉大さは個人に帰属するのよ。吸血鬼だから偉大で、人間だからそうじゃないなんて、馬鹿げてるわ」
「じゃあ、どうして・・・」
「そんなの決まってるじゃない。鳥は高木に住んで、土竜が地中に住んで、熊が巣穴に住むのに、貴方はいちいち「どうして貴方はそこに住んでるのか」なんて問うのかしら?」
私はノワール様の言葉をよく反芻し、その意味を汲み取った。
「じゃあ、ノワール様にとってはここが、住むのに適した場所なんですか?」
「もちろん。こんなに素敵な場所はないわ」
私にはそうは思えなかった。この土地では、吸血鬼が生態系の頂点に立っていて、人間はその餌だ。
「吸血鬼っていうのはね?」
ノワール様がスタイルのいい長い足を組んで言った。
「血を吸うくせに、食人の文化はないのよ。じゃあ、血を吸いきってカラカラになった死体はどうしていると思う?」
「どうしている・・・って、そんなの、埋葬するんじゃ・・・」
「捨ててるのよ。沼地に。どう思う?」
ノワール様の口調から、私はノワール様が何を言わせたいのかがわかった。
「もったいない・・・?」
ノワール様は愉快そうに笑った。
「そうよ。あなたも思考が死霊術師らしくなってきたじゃない。てっきり可哀そうって言うのかと思ったわ」
もちろん可哀そうだし、死者に対する冒涜だと思う。でも、ノワール様が何を言わせたいのかを察するぐらいのことはできる。本当は「死体が勿体ない」なんて、私の思考じゃない。
「ここにいれば無限に死体が手に入るし、しかも衣食住も全て一等級が用意されるわ。その代わり、魔術に疎い吸血鬼にちょっとした助言をしてあげる。お互いにメリットがあるのよ。つまり共存してるの。素晴らしいことだと思わない?」
「ノワール様はそうかもしれませんけど───」
「ただ」
ノワール様が私の言葉を遮った。いや、というよりは、ノワール様の独り言に私の言葉が轢かれたようだった。
「ただ・・・一つデメリットを被っているとすれば・・・あまりにここが快適で、憎しみを忘れてしまうということかしら」
ノワール様は持っている葡萄酒を一口飲み、目の前にいる私の事も忘れて何かを考え始めたようだった。
私はしばらく黙ってノワール様の思考が終わるのを待っていたけれど、いつまで経っても終わりそうにない雰囲気に気付いて「あの、ノワール様!」と、わざと少し高く大きな声を出した。
ノワール様はゆっくり顔を上げて私を見ると「あら、まだいたの?」とわざとらしく私を嘲るような言葉を発した。
ノワール様の意地悪にいちいち噛みついても仕方ないことは生活するうちに段々わかってきたから、私はそれをスルーして、ノワール様を私との会話に引き戻した。
「ノワール様にとってはここは居心地がいいんでしょうけど、他の村人たちにとってはそうじゃないはずです。なんで彼らはこんなところに住んでるんでしょうか」
「じゃあ、貴方が追い出せばいいじゃない」
ノワール様があまりに突拍子もないことを言うので、私はノワール様が酔いで頭が回らなくなっているのだと思い、しばらくあの方が自分の噛み合わない言葉を取り下げるのを待っていた。
「村人が住んでるのが気に食わないんでしょう?追い出せばいいじゃない。それができるだけの力は与えてあげるわよ?」
再度そう言うので、私はようやくノワール様が勘違いでもなんでもなく、本気で私に提案していると理解した。
「な、なんでそういうことになるんですか?私はただ・・・グレース村の皆に幸せになってほしくて・・・」
「誰がそんなことを貴方に頼んだのかしら?そういうのを余計なお世話って言うのよ」
ノワール様は葡萄酒が入った杯を揺らして香りを楽しみ、また一口、葡萄酒を口に含んだ。
私はそれを見て、自分の手にも葡萄酒の杯が握られているのを思い出して、少し口に含んだ。
それはため息が出るほど深く、まろやかな味で、ただの村娘だったら一生口にすることがなかったであろう程に芳醇だった。その代わり、苦みは思ったより強く、喉が焼けているのかと勘違いするほど強くて、私は思わずむせてしまった。
「あら、あなたには葡萄ジュースがよかったかしら?」
ノワール様が私を馬鹿にしてクスクスと笑った。私はそれが悔しくて、今度はむせないように気を付けながら一気に杯を空にした。
「乾杯!」
私は杯を後ろに放り投げた。これがマレス村の慣習だ。酒を一気飲みした後に「乾杯」と宣言して杯を後ろに放り投げる。これが格好いい大人の飲み方だ。
ノワール様はそれがを知っていたのか、そうでないのかわからないけれど。特に咎めるでもなく無表情で私をじっと見つめた後、またちびりと葡萄酒を口に含んだ。
私は胸を張っていた。顔が熱い。酔いが回ってきたみたいだ。でも、誇らしかった。私は吸血鬼とは違うと、自分に証明できたような気がした。
しばらくの間、不思議な箱から流れるゆったりした音楽だけが部屋を支配していた。その後、ノワール様がポツリと言った。
「あなたが投げた杯。結構高いわよ」
私は慌てて杯を拾い直した。
よく眺めて見る。床がカーペットだったおかげで傷がついた様子はないけれど、衝撃で少し歪んでしまっていた。
「あ、あの、ノワール様。その、ごめんなさい・・・」
私は何かひどい目に合わせられるんじゃないかと内心ビクビクしながら、ノワール様に精一杯謝った。ノワール様は魔法で私から杯を取り上げると、自分の手に取って眺めて、ぶっきらぼうに言った。
「まぁ、いいわ。今は酔いが回っているから、明日までに忘れてあげる」
私はそれでも安心できなかった。大概の人が「自分は今酔っている」と認識できている場合。それはつまり、大して酔っていないのだ。明日になって急に杯の事を持ち出して、グツグツ煮える釜に放り投げられるなんてことがあったらたまったものじゃない。
私の心配をよそに、上機嫌で葡萄酒の杯を空にしたノワール様は、目を疑う行動に出た。
「乾杯」
そう言って。空にした杯を後ろに放り投げたのだ。
私は、ローゼンクライツの宮廷魔術師がマレス流の乾杯をしたことが信じられず、ただ目を丸くして見ていた。
頭の上に疑問符を浮かべる私に、ノワール様は薄く笑いながら言った。
「昔の愛人がね。この乾杯をしてたのよ」
昔の愛人。私はこれを聞いた時、一筋の光が差したような気がした。これだ。今ここで、その昔の愛人とやらに話題を逸らせば、惚気話か恨み節か、とにかく私が歪めてしまった杯の事は水に流されるに違いない。
女は昔の男の話をするとき、他のなにもかもがぼやけるのだ。この生態を利用しない手はない。
「その愛人って、どんな方なんですか?ノワール様を射止めるぐらいなんだから、とってもハンサムなんでしょうね!」
ノワール様はしばらく、思わせぶりな、無表情とも薄い笑顔ともとれる微妙な表情で虚空を見つめた後、静かに言った。
「杯の事をそんなに忘れさせたいのかしら?忘れてあげるって言ってるんだから、余計な気を使わなくていいのよ」
ダメだ。見抜かれてる。私は苦い作り笑いで誤魔化した。それを見て、ノワール様は足を組みなおして言った。
「そんなに償いたいなら、一つお使いをお願いしようかしら」
ああ、面倒なことになった。でも、そのお使いとやらで償ったことにしてしまえば、それ以上のお咎めは封殺できるかもしれない。私は「お望みなら何でもしますよ」と笑顔で言った。もちろん作り笑顔だ。少し前までは自分で表情を操作するなんて考えたこともなかったけれど、ここにきてからは飛躍的にうまくなってしまった。
ノワール様は椅子から立ち上がって。私の目の前に立った。ちびな私と違って、背が高く、スタイルのいいノワール様は、しゃがんで私の顔を覗き込むと、小さい子供にするみたいに私の頭を優しく撫でた。
正直子供扱いには腹が立ったけれど、反抗するような愚策をうつようなことはせず、そのお使いとやらの内容を聞き逃さないように黙っていた。
ノワール様は、これまた小さな子供に言い聞かせるみたいに、優しく言った。
「フレシアを探してきてくれる?あの娘、迷子みたいなの」