救世主
私は家で、ミスター・グレースが作った鹿肉のシチューを食べていた。
ミディアムで焼かれた鹿肉は、噛めば肉汁が溢れ出て、シチューのクリームに絡み合い旨味を増していた。
添えられている人参も、ほのかな甘みが口全体に広がり、少し噛むだけでいい具合にほろほろと崩れる。
とにかく、図らずも久々の休日を手に入れた私は、この至福の時間のまどろみの中で、来たるべき明日を有意義な時間にする為のプランを組み立てていた
・・・のだけれど。その思案は一人の来訪者によって打ち砕かれる事になった。
「グレース!グレース村長はいるか!?」
ドアを蹴破らんばかりに入ってきたのは見知らぬ男。その見た目からして、多分村の住人だ。
ミスター・グレースはロッキングチェアから、あの忌々しい吸血鬼に刺された首を労わりながら、ゆっくり立ち上がり、訝しげに話した。
「アドルフ。何事だ。セリナ様のお食事中だぞ」
アドルフと呼ばれた村人は、ゼェゼェと肩で息をしながらグレースに近づいた。
「早く!・・・来てくれ!まずいことになった!」
ミスター・グレースはアドルフが私の食事の邪魔になっていると思ったのか、はたまた斬られた首の痛みでセンシティブになっているのか、大声でアドルフに叫び返した。
「説明が先だ!...ッぐ!」
グレースの首に巻かれていた白布に血が滲んだ。首の傷が開いたのだ。
私は椅子を立ち上がり、蹲っているグレースに駆け寄った。
「グレース!ダメよ!大声なんて出しちゃ!」
「・・・ご心配には及びません。ハハ。歳をとると気が短くなっていけませんな・・・ゴホッゴホッ」
ついには彼は血を吐いた。これで心配するなというのは到底無理な話だ。私はグレースをもう一度ロッキングチェアに座らせると、彼の代わりに直接アドルフに尋ねた。
「なにがあったっていうの?」
「それが・・・」
冗談じゃない!
私はアドルフに案内され、早足で村の門に向かっていた。
門には何人かの村人がいて、その中に傷ついた人影を見つけた。
吸血鬼だ。先程、お仲間の吸血鬼を引き連れ勇んで飛び出していった吸血騎士団の隊長が門に寄りかかり村人の手当てを受けていた。
私は彼を見つけると、すぐに詰め寄って叫ばずにはいられなかった。
「どういうつもり?散々村人に威張り散らして好き勝手したくせに!負けておめおめ帰ってきたっていうの?」
私はもはや、吸血鬼に恐怖など微塵も感じていなかった。それどころか、軽蔑の念を向けるに相応しい種族だとまで考え始めていた。
吸血鬼の隊長は、おそらく噛みちぎられたのであろう右手を抑え、血を吐きながら喚き散らした。
「黙れ小娘!私を誰だと思っている!非力な人間め!文句ばかりぐちぐちぐちぐちと!」
目の前の血吸い面白人間が叫ぶ間、奴から滴る血を村人は必死に布で拭き取っていた。なにより腹立たしいのは、村を守る為にエイズに闘いを挑んだはずの奴が、逆に村を危険に晒している自覚がないということだ。
私は奴が出陣した後、グレース家に帰って、奴達がエイズに喰われ死に絶えろと祈り、その可能性がどれほど高いか調べるために、またエイズが描かれた分厚い本を読み直していた。
そこにはこう書かれていた。
『エイズは特殊な感染症にかかった一般的な動物である。その種類は様々だが、通常は視力を失い、代わりに鋭い嗅覚と聴覚を得る。彼らは本来の彼らの食物に興味を示さなくなる。その代わりに、代替物である血に執着し、一度嗅いだ血の匂いを忘れず、負傷した獲物が血を流しながら逃走を図る場合、これを遥かに遠くまで追撃する。』
村人達はみんなこれをわかっていた。だからこそ、情けなく奴から流れ出る血を必死に拭き取って、近くで焚いている篝火に放り込んでいる。
それがわかっていないのは当の本人だけ。今まさにエイズは血の匂いを辿り、この村まで近づいているはず。奴がエイズを連れて来たのだ。
この危機にどう対応していいものかわからないから、村人達はアドルフを通じてグレースを呼びに来た。
でも、グレースは動けない。だから私が来た。アドルフが「エイズ狩りに行った吸血鬼が壊滅して逃げ帰って来た」と言った時、私は怒りと喜びでそれを見たくなり、思わず案内を頼んだ。それがなにを意味するのかを考えもせずに。
「グレース村長はまだか!」
村人の一人がアドルフに叫んだ。アドルフは彼に、グレースが怪我で動けない事、そして"代わりに"私が来たことを説明した。
その場にいた村人が一斉に私を見る。その眼差しがなにを求めているのか、私はその時ようやく理解した。
村人の一人が言った。「おお!宮廷魔術師のお弟子様が助けてくださるのか!」
また、誰かが言った。「これは心強い」
「きっと魔法で奴を倒してくださる!」
「なんたって宮廷魔術師のお弟子様だからな!」
その場の誰もが私を持ち上げる。嬉々とした表情で見る。宮廷魔術師の弟子だというだけで、私が竜のように火を吹いて奴等を焼き払えると思っている。
もちろんそんなことはできない。私にできるのは、精々うさぎを蘇らせ、簡単な命令を出すことだけだ。
そもそもここには死体がない。死体がなければ死霊術は使えない。
「お弟子様!どうか、我々を魔法で救ってくだされ!貴方は魔法使いなのでしょう?」
村人達は私を聖堂に飾られているアストレウスの像のように崇め始めた。でも、そんなのは間違いだ。私は貴方達と同じ、ただの人間なんだから。
「...そんなこと、できないわ」
私は小さく呟いた。瞬間、村人達の顔から希望が消えた。私という頼みの綱を失って、彼らは自分がエイズに食い殺される未来を見せつけられたような、悲痛な表情になった。空気が鉛になったような、重苦しい時間が流れる。
そんな彼らの表情を見て、私の中でトラウマが蘇ってくるのを感じた。故郷のマレス村が焼かれた時、私はなにもできずに家族同然の村人たちが焼かれるのを見ていた。
そして今。また私は、グレース村の人々が獣に食い荒らされるのを、なにもせずに見ていようとしている。
・・・そんなことではダメだ。
なにかを奪われるのを黙って見ているなんて、そんなのはダメだ。
またあの情けない、惨めな気持ちになるに違いない。
そうならないために、私は、一人の少年の未来を閉ざしてでも、力を手に入れようとしたのだ。
犠牲は払った。今度は私が恩恵を受ける番だ。
それに、あの時とは状況が違う。簡単なものとはいえ、私は魔法が使えるし。それに・・・
私は、静かに、でもハッキリと言った。
「私一人では、そんなこと、できないわ。貴方達の手を貸してほしいの。」