傲慢な者
「ただいま!」
セリナはグレース家の玄関に飛びこんだ。
蘇生に成功したウサギをグレース夫妻に自慢したかったのだ。
だが勇んで飛び込んだグレース家は静寂に包まれていた。
「グレース・・・?」
灯りさえついておらず、昇り始めている朝日が窓から差し込むばかりだ。
窓から差し込む朝日に照らされて、舞う埃がチラチラと輝いている。
セリナは玄関から居間を経由してトイレと浴槽を見た。そこにもグレース夫妻の姿はない。
そもそもグレース家はL字の大きな一部屋の中に台所と寝室と居間が混在している質素な間取りである。死角こそあれど人の気配のあるなしはすぐにわかるはずだ。前記の2か所のみが例外的にはみ出して備え付けてあるのみなのである。
辺りを軽く探し回ったがやはり二人はいない。
(出かけてるんだわ。きっと)
そう思うと、セリナはがっくりと肩を落とし、抱えていたウサギを足元におろして長テーブルにつき、はめたまま持ってきたシプキンスの籠手袋を外した。
どさくさに紛れて持ち出してきてしまった霊訳書を開き、用語を眺めながらグレース夫妻を待つことにしたのだ。
「ふぅん・・・グル・・・自分・・・アール・・・移動する・・・」
霊訳書はちょうど辞典程の分厚い本である。だが、そのほとんどを占めるのは専門的な霊訳の構造や議論で、ほとんどセリナには理解ができなかった。
霊訳の単語一覧だけなら100ページ足らずで、それまでなら何とか理解が追いつくが、それ以外のページは見ているだけで気分が悪くなるほど複雑な術式図やら解読できない文字が並べられており、それを見るだけでセリナは目を回した。
何とか自分でも読める項目を探し、セリナはその異様な題名を読み上げた。
「狂気的束縛段階における蟷螂の偏執的カニバリゼーションについての懐疑性?なによこれ?」
この難解な項目は、読めば読む程セリナは意識が離れていくのを感じ、なんとか1ページ読んだころには頭痛と吐き気を催していた。
2ページ読むと、加えて視界が歪み、3ページ読むころには頭の中でぐつぐつと何かが煮えているような感覚に陥り、しかも読んだ単語が脳内でリフレインし始めた。そして、4ページ半ばでついに泡を吹いて椅子から落ちた。
「セリナ様!お目覚めください、セリナ様!」
ミスター・グレースがセリナを揺する。セリナはグレース家のベッドで目を覚ました。
「なに?私・・・寝ていたの?」
ぼんやりと天井を眺めながら、しばらく記憶を手繰り、ようやく状況が掴めてきたセリナは、あることを思い出し、ベッドから飛び出してテーブルの下を覗きこんだ。ウサギがボロ雑巾の如く倒れ伏している。
それを掬い上げ、ミスター・グレースの前に掲げた。
「見て!このウサギ!私が蘇らせたのよ!」
まるで描いた絵を親に自慢する子供のような屈託のない笑顔で、セリナはウサギの死体を誇った。それを見てしばらくミスター・グレースは目を丸くし
「もっとよく見せてくだされ」
と言ってセリナからウサギを受け取り、毛のしなびた生気のないそれに顔を近づけた。
細かく呼吸し、鼻をヒクつかせるウサギを、しばらく目を細めて至近距離で眺めると、なるほど、とうなずいてウサギをセリナに返し、一言
「ご立派な事です」
と言ってしわの深い笑顔を浮かべると、セリナの頭をワシャワシャと撫でた。
セリナは少しの間、照れくさそうにそれを受けいれていたが、はと、思い出したようにミスター・グレースに詰め寄った。
「もっと早く見せたかったのに。一体どこに行っていたの?」
「ええ、近頃村の麓に害獣が姿を見せるものですから、ブラッドゴース砦の吸血鬼様たちに衛兵を増やして頂けるように具申して参ったのです」
害獣?とセリナは首を傾げた。セリナももとはただの村娘だ。だから、害獣の被害に悩む村人たちの気持ちがわからないわけではないが、だからと言って危険を冒して山を登り、吸血鬼に衛兵に増やしてくれるように懇願しに行かなければならないことには納得しなかった。
害獣被害に悩まされているのなら、畑に罠を張るなり、村人で協力して交代で見張りをするなりすれば防げるはずだ。事実、マレスではそうしていた。
その疑問をセリナが口にすると、ミスター・グレースは渋い表情で答えた。
「私もそれを思いつかなかったわけではありません・・・いくつかの対策も講じてはみましたが、罠は破られますし、見張りの村人は喰われるしで、もう全く私共の力ではどうにもできんのです」
「村人が食われる?狼とか、もしくは・・・人狼?」
一昨日の凄惨な戦いが思い出される。ノワールでさえ手間取って最後にはヴラドシュタイン卿に一喝(?)されるほどの爆破を引き起こしようやく沈めた相手だ。
非力な村人では到底太刀打ちできないだろう。
しかし、ミスター・グレースは首を横に振り、すぐ近くの本棚から一冊の使い込まれた分厚い本を取り出した。付箋の箇所を開き、セリナに差し出す。
そこには解説とともに一匹の獣の挿絵が入れられていた。
一見クロヒョウのように見えるが、よく見ればまったく違うものである。まず、本来猫科ならそこにあるはずの垂直スリット型瞳孔の目がなく、のっぺりとした顔をしている。
次に通常の猫科よりも遥かに耳が大きく、ウサギのように垂れている。
最後に、サイズの指標として並べられている挿絵の人間と比べ、セリナは驚愕した。
遥かに大きい。体高は立っている人間の2倍。体長は尻尾を含めないなら寝ている人間の5倍だ。
セリナは考えを改めた。どうやらレイブンスケール山の害獣はマレスにいた狼やら狸とはわけが違うらしい。
「エイズです」
ミスター・グレースは忌々しそうに呟いた。
「この地に住む異形の動物たちをそう呼ぶのです。このエイズはもともとはただの獣だったのでしょうが、どういうわけか狂暴化・・・まぁ、もともと気性の荒い動物ですが、特にその傾向が顕著になってしまいまして。もう我々にはどうすることも。だから吸血鬼様たちに守ってもらわねばならんのです」
そう話すミスター・グレースの顔には深い影が落とされていた。
「どうして吸血鬼に服従してまでこの地に住みたいの?世界は広いわ。わざわざこんな危険な場所に住まなくても、きっと他に住める場所はあるわよ」
セリナのもっともな疑問に、ミスター・グレースは寂しげな笑顔を浮かべて言った。
「それができる人間は、そもそもこんなところに近づかないのですよ」
「それってどういう――――」
セリナが疑問を発しようとしたその瞬間、グゥ・・・とセリナの腹の虫が啼いた。
とっさに腹を抑え、赤面すると、セリナは俯いて黙り込んでしまった。ノワールの講義にあわせて昼夜が逆転した生活を送っているセリナにとって、朝の7時がディナーの時間に相当する。だが、今は昼頃、彼女の生活基準で言えば、とっくに寝る時間である。
そんな彼女にミスター・グレースは微笑み「食事にしましょうか」と、またセリナの頭を撫でた。
「あぁ、なんてことだ」
ミスター・グレースは食料樽から顔を上げセリナに向き直ると、申し訳なさげに話した。
「セリナ様、あいにく食料を切らしております。すぐに市場で調達して参りますので、しばしお待ちを...」
セリナはそれを聞いて目を輝かせた。
「市場!私も行きたい!」
セリナにとってそれは遊園地に等しい響きだった。マレス村にいたころの記憶が思い出される。村の人々はセリナを我が娘のように可愛がり、いろいろなものをおまけしてくれたものだ。
それに、グレース村に来てからのセリナは死霊術師の弟子として忙しない日々を送っていた。故に自分が寝泊まりするこの村をほとんど知らないのである。
根っからの社交派なセリナにとって、それは寂しいことだった。
だから、セリナはこの機に探検してみたくなったのだ。この不毛の地に鎮座する村を。
今はちょうど正午。だが曇天の空がそれを感じさせない。
市場は噴水の周りを囲うように不規則に並べられた店舗で形作られていた。
肉屋、鍛冶屋、鍵屋、占いの館、魔道具屋。どの店もバラックのように簡素で、店主達にも覇気というものがない。客もまばらで閑散としている。
だが、セリナは失望するでもなく、物珍しい商品が並べられている店を踊るように見てまわった。
「ねぇ!これは何?」
セリナの声に深くフードを被った魔道具屋の店主が答える。
「見ない顔だな、お嬢ちゃん。あんたも訳ありかい?ああ、それはカラスの頭蓋さ、砕いて漢方にしたり、ヒモでくくってお守りにしたり、なんだってできるぜ?」
店主はニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべて見慣れぬ少女にカラスの頭蓋を手渡した。セリナはそれを受け取り、手のひらで転がした。
パキリ...
カラスの頭蓋はセリナの手の中で簡単に割れた。割れたというより、最初から割れていたものを軽く繋いでいただけなようだ。
「おい!商品を壊したな!?なんて事しやがる!」
突然店主がまくし立て、セリナに詰め寄った。
「私が壊したんじゃないわ!もともと壊れていたもの!」
「そいつぁ通らねえな...」
魔道具屋は店棚に掛けてある一振りのナイフを取り出し、セリナの前に突き立てた。
「血だ。血で払ってもらう。この頃吸血鬼のお客さんが顔を出すようになってな...若い少女の血は高く買ってもらえるだろうよ」
魔道具屋の目がフードの奥に見える、彼の血走った目はカッと見開かれ、狼狽えるセリナを映し出していた。
セリナはその場からの逃走を図り、一歩後ずさって「冗談じゃないわ」と恐る恐る口にした。
「ラシィーン!なにをしているか!!」
その時、肉屋で鹿の背脂の値段を交渉をしていたミスター・グレースが魔道具屋とセリナの間に割って入った。
ラシィーンと呼ばれた魔道具屋はミスター・グレースをチラと見るとナイフでセリナを指し「そこの嬢ちゃんがウチの商品を壊したんだ」と説明した。
セリナは、このまま黙っていては自分の非になってしまうと考え、手の中で砕けている烏の頭蓋をミスター・グレースに見せ「この商品は最初から壊れていたわ」と弁明した。
ミスター・グレースはセリナの手の中から割れた烏の頭蓋を拾いそれを観察すると「ラシィーン。いい加減にしろ。誰に欺瞞を働いたのか分かっているのか?」と、セリナに見せた事のない、険しい目つきで魔道具屋を睨んだ。
「余所者のガキから正当な弁償を受ける事はそんなに悪いことか?グレースさんよ?」
「...やはり分かっていなかったか。馬鹿者が」
ミスター・グレースはセリナを大切そうに片手で抱き寄せ、いかにも恐ろしい事を口にするかのように怖々と口を開いた。
「この子はな、恐れ多くも宮廷魔術師様のお弟子様なんだぞ...」
「宮廷魔術師だって!ロ、ローゼンクライツのか!?」
魔道具屋は慄いた。ミスター・グレースはすぐにセリナをローブの中に隠して「声が大きいぞ!」と叱咤し、彼女を連れてその場を離れた。
だが、それから市場の村人達はミスター・グレースとセリナの二人組、特にセリナの様子をチラチラと伺う様になった。
普段他人に関心を示さないグレース村の村人達は、当初、市場にいる見知らぬ少女を、いつもの「ワケありの人間」が一人増えたものだとして、殆ど注視していなかったが、しばらく少女と話をしていた魔道具屋が「宮廷魔術師だって!」と叫んだきり怯えた様に店じまいを始めたので、嫌でも気になり出したのだ。
それからセリナは、非常に嫌な視線の中で市場を回ることになった。どこへ行っても誰かに見られているような感覚に陥り、時折ヒソヒソと何かを話す声が聞こえる。市場だというのに物のやりとりはなく、まるでセリナ自身が品定めされているようだった。そのくせ、セリナが挨拶を試みると皆そそくさと別の店棚を見るふりをして解散してしまう。
そこで、セリナは標的を別に移すことにした。つまり、付近の客なら声を掛けると逃げてしまうが、商品を広げて客引きをしている店の主人達なら、おいそれとセリナを無視できないと考えたのだ。
「こんにちは!私はセリナ!ここは...八百屋さんかしら?」
社交的な見慣れぬ少女の襲来に、八百屋の主人は一瞬狼狽えたが、すぐに調子を取り戻し、村一番の明るい性格を生かして、セリナに気圧されないように元気よく返事をした。
「やあ、やあ、お嬢さん。いや、セリナだったか?ご明察の通り、ここは八百屋さ。新鮮な海藻や干したリーキなんかはいかがかな?もしくは...トマトがお好み?」
彼が口にした「トマトがお好み?」という発言には、一つの意図があった。
先程から市場の隠れた話題であるこの少女に関する一つの噂を確かめる意図、つまり、この少女はローゼンクライツの宮廷魔術師の妾である、という噂の真偽を推し量る為の、一種のブラフとも呼べる罠だった。
もし、トマトに対して必要以上に好意がある様子を見せたりすれば、この少女は自身が吸血鬼である事を隠し、お忍びで市場に遊びに来た宮廷魔術師の妾であるという村人達の噂の信憑性は格段に高いと期待できる。
しかし、この噂の中にはいくつか、村人達の勘違いが散見される。グレース村の村人達の間ではローゼンクライツの宮廷魔術師は黒装束の老吸血鬼だとされているというものである。吸血鬼の一門であるローゼンクライツの宮廷魔術師が吸血鬼だと考えるのは、もちろん自然な事だが、実際にそのポストについているノワールは人間であり、女性である。そして、実際のところ、吸血鬼と呼ばれる人種はそこまでトマトが好きではない。
だが、この少女は少し考えた後「トマトは好きだけれど、この海藻の方が気になるわ。これはどうやって調理するの?」と、あまりトマトに興味を示さなかったので、八百屋は目の前の少女の正体について確かめる手立てを失ってしまった。
彼は混乱し、自身と相対する少女の正体が掴めないことに一種の恐怖を抱き始めていた。周りの村人達は、そんな八百屋とセリナの様子を横目で眺め、未だにセリナの正体について、あれやこれやと噂を立てている。ミスター・グレースはというと、セリナが八百屋と話している間、彼女の後ろに立ってセリナを隠し、チラチラと見ている村人達を視線で牽制し、解散するよう促していた。
「お嬢さん、このトマト、食べてみないか?これは今朝取れたトマトの中でも特に赤々としていてね。ほら、見てごらん。太陽の様に真っ赤だろ?きっと美味いぞ?食べてごらん」
八百屋はそう言いながら、とびきりのトマトをセリナに突き出した。この際トマトに対する反応はどうでもよかったが、彼はどうしてもセリナの歯を見たくなった。吸血鬼と人間を見分けるにはそれが一番手っ取り早いに違いない。
「あら、海藻よりもトマトがオススメなのかしら?でも、本当にいいの?私、お金持ってないわ」
「いいとも。お嬢さん、見た所、良いご身分のようだ。そうだろ?そんな方には今後とも、ご贔屓にしてもらいたいのでね...」
八百屋のこの言葉を聞いて、セリナは村人達が自分を避ける理由をなんとなく察した。つまり、彼らはセリナをローゼンクライツの中でも高い身分の、それこそ令嬢や何かだと勘違いしており、それ故粗相をする事を非常に恐れている。と、そう考えられ、そして、それはまさにその通りだった。
納得すると、セリナはわざと周りの村人達にも聞こえるように、少し大きな声で、かつ自然な形で自らの素性を明かした。
「あら、そう見えるかしら?お恥ずかしながら私は只の魔術師見習いに過ぎないの。形としてはノワール様の弟子なのだけれど...」
ようやくセリナに対する礼のとりかたを悟り、八百屋はホッと胸を撫で下ろした。周りの人間達は一層ざわめき、各々好き好きに新たな噂や推測を垂れ流す。
「お、おお、かの宮廷魔術師様のお弟子様でありましたか!ともなれば、やはりトマトはお好きでしょう?吸血鬼の方々は、これをよく血の代わりに代用なさるとか」
ともかく八百屋は、これでセリナに必要以上に怯える必要がなくなった。身分相当のおもてなしをして、満足していただき、他の店に興味を移してもらう。それだけの話だ。だが、事は単純にはすすまなかった。
「なら頂こうかしら」
セリナは渡されたトマトに勢いよく齧りついた。正直なところ、彼女はお腹が減っていた。故に、通常なら感じるはずの違和感に気づかずにいた。
「・・・痛ッ」
セリナは口内に鋭い痛みを感じ、トマトを吐き出した。すぐに口の中に手を入れ、違和感の正体を取り出した。
「・・・釘?」
口の中から取り出されたのはドングリほどの長さの釘だった。痛みを感じた時、とっさに落としてしまったトマトをもう一度拾い上げ、よく観察すると、トマトには四本の小さな釘が埋め込まれていた。
セリナはそれらを一本ずつ引き抜き、手のひらに乗せると、八百屋の前に差し出し「なぜトマトに釘が刺さっているの?」と訪ねた。
この時、セリナは怒りよりも疑問が先行し、特にこのことについて咎める気持ちを持たなかったが、始終を見ていた八百屋は真っ青になって慌てていた。
「こっ、これは、その、あ!あいつらか!?クソッ!ただでさえ不作なのに・・・!ブレイの奴は・・・」
頭を抱えてうわ言のように言葉を繰り返す八百屋に、セリナは首を傾げた。
「ねえ、あなたが入れたの?それは...どうして?」
セリナの言葉を聞いて我に返った八百屋は実に早口で弁明した。
「いえいえ!近頃この辺りに出没する孤児どもがウチの商品にイタズラをするのです!決してあなたを傷つけようなどとは───」
八百屋の弁明がまだ終わらないうちから、セリナの口元に血が伝った。
ミスター・グレースはすぐに手拭いでそれを拭き取り「セリナ様、先程の・・・魔道具屋は度々不貞を働くうつけ者であります、しかし、彼は無辜の八百屋でございます。どうかお許しになられては・・・」と恐る恐る口にした。だが、当のセリナは何食わぬ顔で「怒ってなんかいないわ。ただ、少し驚いただけよ」と言って、釘が抜かれたトマトを再び口にした
「とっても美味しいわ。ありがとう」
セリナは笑顔で礼をいうと、怯えた顔つきの八百屋の店を捨て置き、その場を後にした。
セリナが市場を闊歩する間、グレース村の住人はセリナの行く道を塞ぐ事を極度に恐れ、神の威光を避ける悪魔のように散った。セリナはそれが疑問であった。故に、彼女はミスター・グレースに尋ねた。
「ねえ、ここの人達は・・・なんだか私を避けてるみたい。そんなに私が怖いの?」
「セリナ様。我々は・・・ローゼンクライツの庇護の元に生きる身故、ヴラドシュタイン卿に忠誠を誓っておりますし、慈悲深いかのお方を尊敬もしております。しかし、同時に、人ならざる者への恐怖を忘れる事もございません。吸血鬼がその気になれば、我々は打つ手なく塵と消えるでしょう。それ故、村人達は吸血鬼を怒らせる様な事は避けねばなりません」
「そもそも、私は吸血鬼じゃないわ。ノワール様もよ」
「もちろん。それは住人達の勘違いです。しかし、あなたがローゼンクライツの誉れ高き宮廷魔術師の弟子である以上、吸血鬼か人間かは重要ではありません。宮廷魔術師の弟子を、住人達は恐れるべきなのです」
「そもそも、宮廷魔術師とはなに?ノワール様がそれらしいけれど、死霊術師であることがそんなに偉いの?」
「宮廷魔術師とは、ローゼンクライツの主人、つまりヴラドシュタイン卿に魔術的な助言を致す名誉ある役職でございます。ローゼンクライツにおいて、この座についていらっしゃる方はノワール様、只一人でいらっしゃいます」
「でも、そんなことは関係ないわ。私はこの村に住んでる。だから、普通の住人として、みんなと同じように接してほしいの」
セリナの希望は叶わない。ミスター・グレースはそれをオブラートに包み、なんとか彼女に諦めさせる為の言葉を選んでいたが、市場の上空に突如現れた蝙蝠の大群によって、その思考は打ち消された。
蝙蝠達は市場の上空を縦横無尽に飛び回り、時にひどく低く滑空して市場の村人たちを巻き込んだ。村人たちはされるがまま蝙蝠に弄ばれ、だが特に反撃をすることなく、蝙蝠が自主的にそれらをやめるまで耐えていた。
蝙蝠達は一通り満足するまで付近を騒々しさと混沌で包んだ後、集合して複数の人の形を象った。
現れたのは吸血鬼達。ローゼンクライツの洗練された黒銀の鎧に身を包み、真紅のマントを大袈裟に翻して、まるでスーパーヒーローのお出ましだとばかりに踏ん反り返っている。
そのうち特に豪華な鎧を身に纏った隊長格らしい吸血鬼が、付近で唖然としている村人たちに呼びかけた。
「グレース家の者はいるか!奴の呼びかけに応え、わざわざ山を下ったのだぞ!」
村人たちはすぐにミスター・グレースの方を指差した。
ミスター・グレースは吸血鬼達の前に歩み出て、両手を広げて歓迎の意を現した。
「おお!恐れ多くもブラッドゴースの吸血騎士団が、この辺鄙な村にお降りになられるとは!これは・・・私の願いが聞き入れられたと考えてもよろしいのですかな?」
ミスター・グレースを視認した吸血鬼の隊長は、彼の目の前にゆっくりと歩いていき、息がかかるような距離で睨みつけるように話した。
「ああ、そうとも。野獣の一匹にも対処できないような軟弱な人間どもの為に、わざわざこの私が山を下ったのだ。感謝することだな」
吸血鬼の隊長はもちろんのこと、その他、約10数名いる吸血騎士達も、村人たちに向かって高圧的な態度を示していた。
ある者は剣を抜いて村人に向け、怖がった村人が仰け反って尻餅をつく様を嘲笑し、またある者は鍛冶屋の店棚に掛けてあった盾を取って「貰っていくぞ」と一言言って背中に背負った。
村人たちはそれに一切の抵抗を見せず、できるだけ目を合わせずに、吸血鬼に意識されないようにして、どうにか吸血鬼が飽きていなくなるのを待っていた。
セリナは群衆に紛れ、吸血鬼の隊長に恭しくお礼を言うミスター・グレースの様子を、怪訝な面持ちで眺めていた。
(村人たちが私を恐れるのも当然だわ。吸血鬼があんな調子じゃ・・・)
セリナは村人達を哀れんだ。同時に、この村の者達が吸血鬼の支配を甘んじて受け入れている事に対する疑問は大きくなった。彼らの横暴を前にして尚、蛇に睨まれたカエルの如く縮み上がっているだけの村人達の不甲斐なさはどこからくるのか。
「それで?吸血鬼様方は、ここに滞在して我々を守ってくださるわけで?」
と、ミスター・グレースは尋ねたが、吸血鬼の隊長はフンと鼻を鳴らし首を振った。
「生憎我々も暇ではなくてな。何日も貴様らにつきっきりで面倒見てやる事はできん。だから、奴等を直接狩ることにした」
周りの村人達からどよめきの声が上がる。吸血鬼達はそれを聞いて得意げに胸を張った。
ミスター・グレースが心配そうに吸血鬼の隊長の顔を覗き込む。
「そんな事が・・・可能なのですか?相手は私達より遥かに巨大で俊敏です。目が見えていないとは言え、優れた聴覚はそれを補って余りある」
弱腰なグレースの言葉をよそに、隊長は自信ありげに自らの剣を引き抜き、自分の前にかざして刃に写る自分の顔をうっとりと眺めながら答えた。
「我々が野獣に負けると?ローゼンクライツの誇り高き吸血鬼が?」
同時に、刃は眉をひそめるグレースの顔も映し出している。
「いえ・・・しかし奴はそこらのエイズより賢いし、凶暴です。くれぐれも用心の程を・・・」
吸血鬼の隊長は、翻って2、3歩歩くと、突如グレースに刃を向けた。
刃を向けられたグレースは目を丸くし、両手を頭の高さにまで上げて降参の意を示す。吸血鬼の隊長は言葉の調子こそ崩さないものの、態度からして怒っているようだ。
「ふむ。やはり無礼な人間だ。血を吸われなければ我々が吸血鬼だとわからんか?」
グレースの細い首に吸血鬼の隊長の剣が食い込み、血が伝う。
「ま、まさか!私は只、皆さまの狩の安全を祈っているだけでございます。決して偉大な吸血鬼様方の力量を疑っているわけではございません」
グレースの弁明を聞き、しばらく黙っていた吸血鬼の隊長だったが、首から流れ出るグレースの血を見ると、途端に落胆した表情になり、グレースの首元から剣を退けた。
「ああ、やはり所詮老人か。血が不味そうだ。お前の血では事は鎮まらん」
隊長は、首元を押さえて力なく座り込むグレースの血に全く興味を失い、今度は村人達を一人一人指差して品定めを始めた。村人達は隊長の行動の意味を理解し、身が縮こまるような恐怖を抱きつつも、なす術なく、自分が選ばれない事をひたすらに祈り続けた。
隊長の正面から始まり、時計回りに指さされていく、重苦しい緊張の時間が過ぎ、彼の指がおよそ9時の方角に達した時、それはピタリと止まった。
「お前、お前だ」
隊長の指の先にいた若い女性が小さく嗚咽を漏らし、絶望の表情を顔に浮かばせた。周りの村人達は一斉に彼女を中心とした付近から立ち退き、彼女の周りは、彼女を中心にポッカリと穴が空いたような群衆の空白が作られた。
だが、隊長はいかにも不愉快そうな顔をして「違う。お前じゃない。すぐ後ろの少女だ」と言い放った。
女性が振り向くと、そのすぐ後ろに立っていた少女を視認した。少女は群衆が立ち退いた時も特に移動したりせず、むしろ最初から我関せずの態度を貫いていた。しかし、吸血鬼の隊長に選ばれた事には少しの動揺を覚えたようで、目を丸くして、どうしていいかわからず、周りをキョロキョロと伺っていた。
吸血鬼の隊長が言う。
「そう、お前だ。前に出ろ」
女性は群衆の中に飛び込み、少女は前に進み出た。群衆は進み出る少女を見てざわめいた。
少女は吸血鬼の隊長の剣が届かない程の所で立ち止まり「私に・・・何か御用?」と恐る恐る尋ねた。
その声を聞き、首元を押さえて蹲っていたグレースが顔を上げて驚愕の声をあげる。
「セ・・・セリナ様!」
グレースの視界に映ったのは、不安げな顔の住人達の中心に立っている吸血鬼の隊長と、緊張した面持ちで対面するセリナの姿だった。
吸血鬼の隊長はセリナに歩み寄り、剣を向け
「若い少女の血は格別だ。狩に行く前に、あらかじめお前の血で祝杯をあげるのも良かろう。光栄に思いたまえ」
と高圧的に語り、一歩前に出てセリナの首元に剣を押し当てた。
グレースは血が伝う喉を押さえながら必死に叫ぶ。
「そのお方はこの村の住人ではありません!そのお方の血を流してはなりません!」
叫びと共にグレースの喉の傷が開き、尚血が滴る。だが、グレースはなんとしてもセリナを守らねばならぬと、地を這って隊長の足元にすがりついた。
「なりません!その方はノワール様のお弟子様でございます!なりません!」
それを聞いた隊長は険しい顔になり、すぐに剣を退いて目の前の少女に尋ねた。
「本当か?お前が?」
セリナは内心、吸血鬼に恐怖していたが、村人への酷い仕打ちと、いつも世話を焼いてくれるグレースを傷つけられた事の怒りが勝り、震える声で静かに言い放った。
「ええ、私はセリナ。・・・ローゼンクライツの宮廷魔術師、ノワール様の弟子よ。このことはノワール様に報告させていただくわ」
その他の吸血鬼の兵士達は互いに顔を見合わせ、まずいことをしてしまったのではないかという不安げな表情になった。隊長は尚、落ち着いて剣を鞘にしまい「これは失礼した」と明らかに不満げな声色で謝罪した。
「あのご婦人に弟子がいるとは初耳でございました。しかもこの辺鄙な村の住人達の中に溶け込んでいるとは。これぞ魔術師と言った具合でしょうか?」
「辺鄙だなんて言わないで。私はここを気に入っているわ」
吸血鬼の隊長は大袈裟に両手を広げながら
「はっ!ここを辺鄙と呼ばず何と呼ぶのです」
と鼻で笑い飛ばした後、セリナの返事を待たずにそそくさと厩の方に歩き去り、厩の主人を突き飛ばすと、馬の縄を解き、勝手に位の高い部下に分配し始めた。
「ちょっと待って!さっきから見てれば!どうして村人の物を勝手に盗るの?」
吸血鬼の隊長は、セリナが詰め寄ろうが我関せずの涼しい顔をして、黒く立派な馬にまたがると
「わざわざ人間の為に獣を退治してやるのです。これぐらいあって当然でしょう?」
と言い放ち「さて」と小さくつぶやくと、馬を竿立ちさせ、鞘に入れたままの剣を掲げ「血の同胞よついて来い!狩りの時間だ!」と叫び、走り去っていった。吸血鬼の部下たちも、馬を与えられた者は騒々しく駆け出し、与えられなかったものは蝙蝠の群れにになり、これまた騒々しく曇天の空に飛び去って行った。
そんな彼らを、セリナは怒りのこもった目で見送る。村に静寂が訪れ、村人たちは安堵のため息をついた。
(あんなやつら・・・)
村人たちの安堵と対照的に、セリナは悔しさで震えていた。なぜああも人間を見下すのか。強く握った拳に爪が食い込み血が滴る。
この後すぐ、彼女に復讐の好機が訪れたのは2時間後の事だった。