可愛いウサギの話
ノワール様の研究室で、私はテーブルの上の皿に乗せられたウサギの死体を挟み、ノワール様と向かい合って座っていた。
あれからも、依然ノワール様は虫の居所が悪いみたいで、さっきからずっと左手で頬杖をついて、右手の人差し指で忙しなく机を叩いていた。
「じゃあ、まずこのウサギを蘇らせる前に、死霊術のロジックについて理解しなさい」
私は出来るだけノワール様の機嫌を損ねない様に、背筋をピンと伸ばして姿勢良く椅子に座っていた。
ノワール様は立ち上がって背後の壁に魔法で文字を板書し始めた。
「まず、死体の使役方法には2種類のパターンがあるわ。使役死霊と操作死霊よ」
「ほう!それにはどんな違いがあるんですか!?ノワール様!」
私はノワール様に気持ちよく講義を続けてもらうため、あえて大袈裟な関心を装った。ノワール様はそんな私をちょっとの間無言で見つめた後「見せてあげるわ」と言って研究室の扉に向き直り、パチンッと小気味良く指を鳴らした。
ガチャ、と木製の扉が開く。
すると、ドレスを着た女性の死人が現れた。
ノワール様が何かの呪文を唱えると、死人はうめいて足を引きずりながらノワール様に近づき、足元に跪いた。
その動きはたどたどしく、まるで生まれたてで体の使い方がわからない子鹿の様におぼつかないものだった。
ノワール様が跪いた死人に手の甲を差し出して、また何か私にはわからない呪文を呟くと、死人はその手をとってキスをした。
その動きはやはり不自然で、結果として辛うじてキスをした事がわかったけれど、注意して見なければ単に手の甲に噛みつこうとしていたんだと勘違いしそうだった。
その死人を左に立たせると、ノワール様は私に言った。
「これが使役死霊よ」
なるほど、死霊を使役しているから使役死霊。分かり易いわね。
「なるほど!では操作死霊とは?」
私が聞くと、ノワール様はまたパチンと指を鳴らした。
また、ガチャ、と扉が開かれ、タキシードを着た一体の死人が姿を現した。ノワール様が死人に手をかざすと死人は姿勢良く背筋を伸ばして如何にも紳士といった風にピシっと立った。
ノワール様が死人にかざしていた手を翻し、挑発するみたいに、こっちへ来い、という風なジェスチャーをすると、それに従って死人は綺麗な姿勢を保ったままノワール様の方に歩き出した。
その間、ノワール様は空いた手で死人を操り人形に見立てて弄ぶみたいに指を動かしていた。よく見ると、ノワール様の指と死人の動きは、まるで見えない糸に繋がれてるみたいにしっかりと連動している。
死人がノワール様の前に着くと、ノワール様は今度、ジェスチャーしていた方の手の平を下に向けて何かを押す様に下げた。それに連動して、死人がノワール様の足元に跪く、最後にノワール様は、下げた手を死人の目の前に差し出し、もう片方の手で死人の頭から伸びる見えない糸を引っ張るみたいにクイッと動かすと、死人は差し出されたノワール様の手の甲にキスをした。
それらの動きはどれも自然で、死体特有の虚ろな目や、今にも抜け落ちそうな髪の毛、生気のない肌を除けば、本物の人間となんら遜色ないように思えた。
いや、寧ろ並みの人間よりよっぽど生き生きと動いている。
二つの死体を両脇に立たせると、ノワール様は私に問うた。
「この二つの違いがわかるかしら?」
「えと、使役死霊は使役する死霊術で...操作死霊は...操作する死霊術...です...」
要約すればそういう事でしょ?なのにノワール様は私の事をバカを見る目で見ていた。まあ、ノワール様の目元は黒い目隠しで隠されているから、こちらから目は見えないのだけれど。それでも雰囲気から伝わってくる。いかにも「あんたバカなのね」と言いたげだ。
「あなたバカなのね」
言われた。
それでも笑って赦さなきゃいけない。ここで反抗したら抗議を中断されてしまうかもしれない。
「あはは...ごめんなさい」
「いい?操作死霊っていうのは、いわば死体の操り人形なの。頭の先から爪先まで、死体の全てを掌握する行為よ。対して使役死霊は具体的な命令だけ与えて、そこに至るプロセスを死霊側に委ねてしまうの。だから、その二つの決定的な違いは『死体を自動で動かしているのか手動で動かしているのか』よ」
むう。言われてみれば確かにそうかもしれない。でも、別に私の答えだって間違ってたわけではないはず。そんなモヤモヤした気持ちを、私は胸にしまい、とびきりの笑顔でお返事をした。
「なるほど!確かにその通りですね!」
「わかったかしら?でも、魔力が使えないあなたには操作死霊は不可能よ。だから、今回は使役死霊を執りおこなうわ」
いよいよだ。ようやく死霊術師としての第一歩を踏み出せる。私はワクワクしていた。ようやくただの非力な少女という枠を飛び出し力を手に入れる事ができる。
そのあとノワール様は簡単に使役死霊のロジックについて説明してくれた。
使役死霊は、霊界から呼び出した、意思がなく、術者に逆らわない「喪魂」と呼ばれる魂を死体に入れて行うという事。
喪魂には霊界の言葉で命令を与えなければならないという事。
喪魂にはランクがあり、高くなるほど従える時に多くの代償を必要とするという事。そのかわり、ランクが高ければより能力が高いという事。
喪魂は代償分の仕事を終えるか、命令が実行不可能になった時点で死体から離れ、霊界に戻ってしまうという事。
「じゃあ、始めましょうか」
ノワール様は私に一つの奇妙な手袋を渡してきた。黒の革手袋で、右手の分しかない。掌に何やら魔法陣が描かれている。手の甲には大きな赤い空洞の水晶のようなものが埋め込まれていて、それ以外には随所に私には読めない不思議な文字が並べられていた。
「それはシプキンスの籠手袋。魔法の才能がない者でも魔法が使えるわ。掌に魔法陣が描かれているでしょう?それはゲデヒトニスの領域への転移門なの。要するに、そこに代償を入れれば、見帰りが得られるわ」
ノワール様はそう言いながら、こないだ見せてくれた魂石を私に差し出した。
籠手袋をはめ、それを受け取り軽く握ると、魂石は簡単に砕け散り、その破片はキラキラと光って宙に溶けた。
「えっ!?あっ!ごっごめんなさい」
私は最初、魂石を強く握ったせいで壊してしまったのだと思った。でもノワール様は
「合ってるわ。それで。甲を見なさい」
とつまらなそうに言った。
私は従って手袋の甲を見た。すると、はめ込まれた水晶が薄く光っていた。
「うわ!光ってます!光ってますよ?不思議ですね!何でですか?」
「代償の魔力が光ってるのよ。考えればわかるでしょう?」
つまり、今私は方法さえわかればいつでも魔法を使える状態にある。
ようやくだ。私の胸は高鳴っていた。
「ノワール様!この後は?」
「簡単な呪文を唱えると魔法陣から喪魂が召還されるわ。喪魂は近くの死体に勝手に入るから、狙った死体を蘇らせたいならそれも呪文で指定する必要があるの」
「そ、それで?その呪文って!?」
私はウキウキが止まらず、ついに椅子から立ち上がって身を乗り出し、机越しにノワール様を見つめた。
ノワール様はうっとおしそうに呟いた
「リ・スティラ」
リ・スティラ。それが呪文。
私は深呼吸して手袋をした手をウサギにかざした。ウサギは依然死んでいる。ウサギ特有のモフモフした毛はしなび、だらんと力なく横たわっている。まるで毛が生えた液体をこぼしてしまったみたいだ。
「リ・スティラ」
私は呪文を唱えた。すると、甲高い金属音を立てて手袋に刻まれている何かの呪文と水晶が眩く光り、掌から確かに何かが飛び出した感覚を味わった。
光りが消える。あたりが静まり返る。その中に獣の吐息が響く。鼻息荒く、細かく呼吸している。
ウサギが蘇っていた。
さっきまで使い古された雑巾のようにただ置かれていたそれは、確かに今、呼吸している。二足歩行で立っている。周りをキョロキョロと見渡している。
「ノワール様!立ってます!ウサギ!立ってますよ!?」
私は嬉しくてぴょんぴょんと飛び跳ねながらノワール様に言った。
ノワール様にとってははただ当たり前の事に大喜びする私に、本当につまらなそうに「そう」と言った。
「ノワール様!見てください!かわいいですよ!?ほら!」
私はウサギを抱きかかえて、ノワール様に見せた。ウサギは冷たかった。それに、生きているウサギに比べて、あまりモフモフしていなかった。当たり前といえば当たり前なのかも。だって血が通っていないんだもの。
でも私は気にしなかった。
私の手で作り出した生命...というのかは怪しいけれど、とにかくとても愛おしく感じられた。
でも、ノワール様はとにかく無関心だった。
「わかったわ。じゃあ、ここに霊界の言語と現世の言語を翻訳する為の「霊訳書」を置いておくから。後は勝手にお人形ごっこでもして遊んでなさい」
そういうと、ノワール様はけだるげに席を立って研究室の扉に手をかけた。
正直、私は腹立たしかった。自分の弟子が大きな一歩を踏み出したことにもう少し関心を持ってほしかった。もちろん、ノワール様にとってはウサギが蘇るのは必然であり当然の結果なのだろうけど、私にとっては奇跡のようにさえ考えられる偉業なの。それを達成した喜びを、ほんの少しでも分かち合ってほしかった。だから、私は呼び止めてしまった。
「ノワール様!」
今まさに研究室を出ようとしていたノワール様がピタリと静止し、振り返らずに返事をした。
「なに?」
ぶっきらぼうでけだるげだ。やめておけばいいのに、私はどうしても反抗してしまった。
「ヴラドシュタイン卿に謁見してから、ノワール様なんだか怖いです。その、嫌いなんですか?あの人のこと...」
「は?」
ノワール様は振り返り、そういった。さっきまでのぶっきらぼうな返事とは違い、不意を突かれたような、消え入りそうな声だった。ノワール様が目隠しの向こうで目を丸くしているのが感じられた。
「私があのお方を...?」
「そうですよ。ノワール様、今夜はなんだかおかしいです」
「違うわ。私があのお方を嫌うなんてことは絶対にありえない」
「じゃあどうして...?」
「ただ...」
ノワール様は俯いて、しばらく黙り込んでいた。
研究室の中をウサギの吐息と時計の音だけが支配した。
長く、重苦しい時間がたった後、ようやくノワール様は口を開いた。
「あの方が...不憫なのよ...」
予想外の返答に私は困惑した。不憫?
「それってどういう...」
私は尋ねたけど、ノワール様にはもう言葉が届いていなかった。
「私なんかを代わりに立てなければいけない程、あの方は傷心している...自らに存在しないからこそ...身内の死が受け入れられない...不憫なお方...」
ノワール様は開いたドアに寄りかかりうわ言のように繰り返し呟いていた。
そのうち私に返ると
「明日は講義はなしよ。空き部屋ならいくらでも使っていいから、自主研究でもしてなさい」
と言い捨ててバタン、と部屋から出ていった。
私はウサギと部屋に取り残されてしまった。
「おいで」
ウサギに向かって手を叩いてみたけれど、ウサギは首をかしげるだけで何もしない。そか、霊界の言葉で命令を与えないといけないんだっけ。
私は霊訳書をめくって難解な語群の中からようやく目当ての一文を探し出した。
「グル・ミ・アール」
意味は意訳して「私へ来い」
命令を聞き入れたウサギは私の腕に飛び込んできた。
ウサギは私の腕の中で変わらずきょろきょろと周りを見渡していた。決して触り心地の良くないそのウサギを撫でながら、私はウサギが意味を理解できないように現世の言葉で愚痴り続け、次第に飽きると、自分の成果をグレース夫妻に見せてあげようと、ウサギを抱えてノワール様の研究塔を後にした。