過去①
※
雪羅が語るには、夕霧は彼の本名ではなく、雪羅が付けた名前なのだそうだ。
三年前のこと、まだ夕霧が名前のない“勇者”とだけ呼ばれていた頃の話――。
ある日この世界の白銀雪殿の庭に彼が倒れているのを一人の女房が見つけた。
彼の意識はなく、とりあえず屋敷の中へ移動させ、報告を受けた摂政の水仙が駆けつけ、謎の侵入者である彼の様子を見た。
そして、何かを感じ取った水仙が彼を鑑定したところ、職業:勇者と結果が出たのだ。
倒れていた男が異世界からの勇者と判明し、それから、水仙は大忙しで色んな者へ指示を出し、勇者は地下牢へと一旦閉じ込めた。
その後、極わずかの重鎮だけで緊急で会議が開かれた。
そこでどんな話がされたのかは雪羅は知らないそうだが、勇者を鬼の国で強化・育成すること、厳しい訓練にも逃げ出さないように、見た目の良い雪羅を使い勇者の気を引くことが決定された、と後で聞かされた。
政権を握る時雨家の傀儡であった雪羅は何事にも関心がなく、言われるがままそれに黙って従った。
彼の目覚めと共に始まった勇者訓練は効率が重視され、彼の人権はあってないようなものだったそうだ。
まずは死体に慣れるため彼に損壊死体と個室で過ごさせた。
凄惨な日々に心が壊れた頃に部屋から出し、次は手っ取り早く強くなってもらうため、適当に捕虜にした人間を処刑し解体させたのだそうだ。
時を同じくして、雪羅は勇者と過ごす内に彼に惹かれていっていたらしい。
勇者は雪羅を一人の少女として扱ってくれた。周囲の大人達はただの置物としてしか彼女を扱わなかったため、それが雪羅には嬉しくてたまらなかったとのことだ。
内心、こんな酷い訓練をさせて彼には申し訳がないと思ったが、彼が強くなるのは悪いことではないため、胸を痛めながら雪羅は勇者の成長を見守っていたらしい。
それに、敵である“輝夜”を倒せるのは彼しかいないため、彼に希望を託すしかなかったのもあった。
人の国の王である輝夜は残虐で、妖を自由に操る能力を使い鬼達を次々と殺し、雪羅の両親を襲った妖も輝夜の刺客ではないかと噂されていた。
雪羅は輝夜の存在を疎ましく思っており、彼女を鬼の国の民のためにも倒すべきだと強く考えていたのだった。
その後、勇者が処刑に慣れた頃、牡丹と菊が実践的な戦い方を教えることになった。二人の優秀な師に教わり勇者はみるみると成長していった。
彼は年下の雪羅をいつも可愛がり甘やかしていたが、修行で牡丹に中々勝てないと悔しがっていた姿は実に少年らしく、雪羅はそんな勇者を心の中で可愛いと思っていたそうだ。
ある日、雪羅は彼のことを知りたいと思い、勇者の名前を聞いたことがあったそうだ。しかし、それは彼には嫌な思い出の一つだったらしく断られてしまった。
その変わり新しい名前を付けてくれと言われ、雪羅は彼に“夕霧”と名付けた。しかし、夕霧と呼ぶのは二人きりの時だけに止めたそうだ。気恥ずかしかったし、二人だけの秘密を共有できるのが雪羅は嬉しかったらしい。
ある日、雪羅は勇者に何か手作り料理を振る舞おうと、普段行かない廊下を歩いていたそうだ。
その時偶然にも、水仙と牡丹の会話を聞いてしまった。そして、その会話の内容は雪羅にとってとても衝撃的で恐ろしいものだった。
『牡丹、勇者は順調に鍛えられているか?』
『ええ、まあ。あと数ヶ月も鍛えれば実験に使えるようになるかと』
『そうか。成功するといいのだが……成功すれば金のなる木になるからなぁ……』
『勇者で成功しないのであれば他に誰も出来る者はいない。それがわかれば十分でしょう。勇者が実験で死んだらそれまでです。輝夜の手元に金のなる木が行かないのであれば得られる物としては悪くない』
雪羅は恐ろしいことを聞いてしまった。実験が何なのかは雪羅ではわからないが、愛する夕霧が時雨の手によって殺される可能性があることを知ってしまったのだ。
雪羅は急いで夕霧の元へ走った。彼をどうにかして逃がさなければと思ったのだ。
息を切らして突然部屋を訪ねてきた雪羅に、夕霧はえらく驚いたそうだ。
『どうしたの雪羅?』
『逃げて』
『逃げる? 僕と追いかけっこでもしたいの?』
『違うの!』
雪羅は夕霧にすべてを話した。時雨の策略により夕霧の身が危険なため今すぐ逃げなければならないと。
夕霧は自分の命がかかっているというのに、いつものように落ち着いていて雪羅は可愛いねと言い頭を撫でてきたそうだ。それどころじゃないのにと、もどかしい気持ちになりながら必死に訴えようとすると、夕霧は突然雪羅を優しく抱きしめた。
『ありがとう、雪羅は僕のことを本気で心配してくれるのだね』
そして、彼はここから逃げ出すことに同意してくれた。
しかし、どうやって夕霧をここから逃がすのかが大きな壁となった。雪羅は主であったが、実質持っている権力は一つもなく、時雨氏が管理している勇者を逃がすのは雪羅の力では不可能に近かった。
白銀雪殿は海に囲まれており、唯一繋がる橋は時雨氏のお屋敷に直結している。そこを突破する方法はないに等しかった。
完全に手詰まりだと雪羅が歯噛みしていた時、二人の前にある協力者が現れた。
その協力者の名前はその人への被害も考え、言うことは出来ないとのことで、ただ“協力者”とだけ表現された。
協力者は、夕霧に魔法を施して完全に姿形から声まで変え別人にし、人の住む曙の国へ逃がす手引きまでしてくれるとのことだった。
作戦決行の当日――。夕霧との別れの時に、雪羅は夕霧へ告白をした。
『夕霧……、私、一人の男の人として、あなたのことが大好きだわ。もし、結婚するなら桔梗ではなく貴方がいい』
『ありがとう雪羅。でも、ごめん。僕は君に相応しくない。僕のような汚れた人間でなく、もっと素敵な人の方が綺麗な君には似合っている』
『嘘よ。本当は他に好きな人がいるのでしょう?』
雪羅は夕霧と一緒にいて、夕霧に誰か忘れられない人がいるのだと感じていた。
そして、その人の存在が夕霧を苦しめていることも……。
『どうなんだろう……彼女と離れて久しいから……』
夕霧は想い人への気持ちを否定も肯定もしなかった。
けれど雪羅には、まだ彼の彼女への気持ちが残っているのだと痛い程感じていた。
夕霧はその彼女のこと以外は愛さないのだ。
『ねえ、夕霧。一つお願いがあるの』
『何?』
『私のこと名前で呼んで』
『名前? 雪羅?』
『雪羅は本当の名前ではないの。王が代々受け継ぐ王たる証が雪羅。表向きでは名は捨ててしまっているけれど、お父様とお母様が付けてくれた本当の名前があるの』
『そうなんだ。教えてくれる?』
『葵よ、それが私の名前。でも、今は呼ばないで、いつか貴方と再会できた時にその名前で呼んで』
『わかった。何年かかるかわからないけれど必ず君の名前を呼びに帰ってくるよ』
そうして、雪羅と夕霧は離れ離れになった。




