紫苑
「私は牡丹の母、時雨紫苑。紫竜殿に住んでおります。紫姫と呼ばれているわ」
「柚子葉と申します」
紫苑は少しキツそうな目を細め、真っ赤な口紅を三日月のようにして笑顔を作った。
見た目だけだが、狐のような印象を抱く女性だ。
「母上、もう良いではないですか。帰りましょう」
牡丹が焦った様子で、何とか紫苑と私を引き離そうと口を挟んで来るが、再度、母親に睨まれ大人しくなってしまった。
私に用事ってどう考えてもあの事だよね。
「うちの牡丹の寵姫なのですってね」
「え……、あ、はい、一応」
真実を全て見透かしていそうな目で見つめられ、暑くもないのに私の額から汗が一雫流れた。
この母親が息子の嘘を見破れないはずがないと、私の脳が言っている。
「本当に?」
私はこのまま嘘を突き通せると思わなかったため、牡丹にもう無理だという視線を送ったが、牡丹にはそのまま突き通せと視線で返された。
「ほ、本当です」
その場が静寂に包まれた。時間がゆっくりと流れているような気がする。私は心許なくて、無意識に渡が中に入っているポケットに触れてしまう。
「母上、別に私が誰を囲おうとよいではないですか」
「そうね、誰とも結婚せず、結婚する予定だった婚約者も頑なに拒否した貴方が、誰かと恋愛する気になったのならそれは喜ばしいことだわ。事実ならね」
「ですから、事実だと」
「なら、ここで口付けは出来ますか?」
「それは……」
牡丹が仕方ないやるぞという目でこちらを見たが、私は全力で首を振った。
渡もいるし、絶対にそれは出来ない。
牡丹は再度母親へ視線を戻した。
「か、彼女は奥ゆかしい人なので、それは無理です、ぷはっ」
牡丹が心にもないことを言ったため、最後の方で笑ってしまっている。嘘つけない人か。
自分で言ったことがツボに入ったのか、牡丹は口を押さえて、溢れ出る笑いを必死に堪えていた。
紫苑は嘘が下手な息子をやれやれと言った様子で見下ろしていた。
「柚子葉さん、本当のところはどうなのですか?」
「それはですねぇ……」
もう、嘘はつけないよね。
完全に本当のことを言うことは出来ないけれど、恋人同士というのは否定しないといけない。
「妖に襲われていたところを太師に助けていただいたのです、それで家もなく身寄りのない私に同情していただいて、ここに置いてくださって。ただし、庶民の私を雇ってここに住まわせるには太師の寵姫ということにしないと周りがうるさいとのことで、そういう振りをして頂いております」
こんな感じで納得してもらえるかな。
「そうですか、それはお可哀想に」
紫苑は同情の視線を私に向けた。この話は疑われてはいないようだ。
「それにしても残念だわ、色恋に興味のなかった牡丹がやっと興味を持ったのかと思って、何人か姫を候補にと目星を付けていたのですが無駄でしたね」
「母上……また、勝手に」
「貴方は跡取りなのですから当然です」
「結婚する人くらい自分で選びます」
「選べないから今こうして独り身なのでしょう、金雀枝は妻子が何人もいるというのに……」
「金雀枝は気が多過ぎるのです」
目の前で親子喧嘩を始めてしまった。
ただ、紫苑の方が上手なため、牡丹は防戦一方で母の言った事に何とか一言返すの繰り返しだ。
紫苑は牡丹と百合の関係は知っているのだろうか。
屋敷中のみんなが知っているのだから、この人が知らないわけがないか。
紫苑はこの事をどう思っているのだろうか。黙って見守っているとしたら、相当寛容な心がないと難しいのではないだろうか。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「送って行きますよ」
「外に女官を待たせているので結構です」
紫苑は立ち上がり、着物を一振りした。そして、視線を私へ向ける。
「もし良ければ、今度紫竜殿のお掃除もお願いします、ここはとてもお掃除が行き届いておりますね」
「あ、ありがとうございます! ぜひ」
社交辞令とわかっていても褒められるのは嬉しいものだ。
私と牡丹は紫苑を玄関で見送った。
紫苑は女官達と共に、紫竜殿へ帰っていくのを、姿が見えなくなるまで見つめ続けた。
牡丹が隣で、緊張が解けたように大きく伸びをした。
「お疲れ様です」
「お前こそすまなかったな。母上が突然やって来てしまって。刀の件は感謝する」
「いえ、私がダメにしてしまったものですので」
「気にするな」
牡丹は軽く私の頭をぽんぽんと二回叩いた。
子供扱いされているのに不快ではなく、何だか擽ったい気持ちになった。
「そういえば、柚子葉。お前今日金雀枝に連れ去られそうになったそうだな、花梨が心配していたぞ」
「ああ、いえ大した事では。北尚書が助けてくれたので」
「そんなことより、何故金雀枝はお前を連れ去ろうとしたのだ?」
「太師の恋人に興味があるから一回相手をしろと言われました」
「あいつはまた……」
牡丹は頭が痛そうな表情で、腕を組んだ。金雀枝の色狂いには苦労しているのだろうか。
「まさか、一介の掃除婦にまで手を出そうとするとはな。あいつはどこまでも女好きだな」
「太師も大変なのですね」
「俺の恋人という設定はやめるか? 金雀枝も恋人でないと知れば興味もなくすだろう。母上はお前の事を哀れに思っている様子だから、母上に頼めば恋人設定などなくとも、お前の存在を認めさせる事は可能だしな」
「いえ、もう少しこのままの設定で行きたいです、少し理由があって」
「理由?」
「はい、今は秘密ですが」
「もしかして、妙なこと企んでいないだろうな?」
私は太師へ、満面の笑みだけを返した。




