桔梗
私は案内してくれた女官にこっそりと百合の息子を何と呼べばいいのか聞くと、“小三郎”だと教えてもらった。
まだ、元服しておらず役職もないため幼名で呼ぶのだそうだ。
その後、また私は桔梗の部屋の前で一人放置されてしまった。
知り合いでも何でもない引きこもりに話かけるという超難題を仰せつかってしまい、私の心は不安と緊張で溢れていた。
この世界に来て多少解消されたとはいえ、私も大概コミュ障なんだけどな。
このままここにしばらくいた後、やっぱりダメでしたーって感じで乗り切ってしまおうかな。いや、それは出来ない。百合には恩義がある。さすがに嘘はつけない。
「小三郎様、はじめまして柚子葉と申します。もしよろしければお部屋の掃除などいかがでしょうか?」
とりあえず自己紹介して返事を待つが、何も帰ってこない。よし、帰ろう。
私が立ち去ろうと腰を上げた時、ほんの少し戸が開いた。
「お前が兄上の新しい恋人か」
隙間から鈴のような、声変わり前の男の子を感じさせる独特の高めの声で問いかけられた。
ほんの少し、長くて青い綺麗な髪の毛が覗いている。
「どうでしょう? 小三郎様はどう思いますか?」
「母様の方がずっと綺麗だし上品だし、お前なんか母様の足元にも及ばない」
案外ずけずけと言うなぁ、事実だから否定は出来ないけれど。
しかし、ここで母親を出すということは、桔梗は兄と母の関係を知っているのか。それに、私に対抗心を燃やす程度には二人の仲を歓迎している……?
正直なところ母親が泥沼不倫しているから引きこもっているのかと思っていたけれど、そういうわけではないのか。
「お前なんかただの遊びだ、捨てられる前に兄上と別れてしまえ。これはお前のためを思って言っているのだ」
「もし、私が断ったら?」
「馬鹿め、女官に言って邪魔してやる」
「では、私は太師に言って守ってもらいます」
「くっ、兄上に余計な手間を掛けさせるな」
ムキになって可愛いなぁ。
年下の男の子をいじるのって結構楽しいかもしれない。
桔梗は牡丹のこと大好きなんだな。
兄弟仲が良いとは羨ましい。私は故郷の妹のことを思い出し少し苦い顔をした。
弟とは仲良くも悪くもなかったが、妹とは何かにつけて下らない事で喧嘩していた。こんな別れ方するならもっと歩み寄っておくべきだった。
家族ってものは、離れてから有り難みがわかるものだね。
桔梗は家族を大事に思っているようだがら、ここは一つ提案してみるか。
「太師と別れてもいいですが、条件があります」
「な……何だ?」
興味を惹かれたのか、隙間から覗く桔梗の髪の毛が大きく揺れた。
「小三郎様がその部屋から出てくださったら、私は太師を諦めましょう」
私が条件を提示すると桔梗は黙ってしまった。
私達の間にゆるやかな沈黙が流れる。
「それは、無理だ」
「どうしてですか?」
「無理なものは無理なのだ」
駄々をこねるように、ただ不可能だと言い切る桔梗の前に立ちはだかる壁は高く、今の私では到底越えられそうになかった。
「そうですか、残念です」
桔梗からの返事はない。
今日はこれ以上は無理そうだ。
「また来ます」
それだけ伝え、私は桔梗の元から去った。
桔梗は何故中に閉じこもっているのだろう、母と兄を気遣っていた様子を見ると引きこもり独特の自己中さは感じられなかった。
外に出られない何か事情があるのだろうか。
翌日渡を部屋に置いて出勤し、同僚達に桔梗のことをそれとなく尋ねてみた。ここは情報が早いから何か知っているかもしれない。
「あぁー、小三郎様の引きこもりは元服が嫌なのではないかともっぱらの噂だよ」
仕事でコンビを組んだ美雲にそれとなく聞いたら、意外な答えが返ってきた。
元服って大人になるための儀式ってことだよね、何がそんなに嫌なのだろうか。
「大人になると何か困ることがあるのですか?」
「あるある、小三郎様はね、今代雪羅様の婚約者なのよ、だから元服したらそのまま雪羅様の旦那様になることが決まっているの」
「えっ、雪羅様って女の子なのですか?」
「そうだよ、知らないの? 柚子葉ちゃんは本当に世相に疎いよね」
「田舎の出なので」
「まあ、上京したてならそんなものか。でね、雪羅様は十六歳で未婚なの、その婚約者に決まっているのが十三の小三郎様」
「へー、年下の婚約者なんだね」
「そう、年齢的には内府の方が調度良いと思うのだけれど、あの方は女の人に目がないから……」
「内府?」
「って、柚子葉ちゃん、恋人の弟も一致していないのね……」
「すみません」
「別に謝る必要はないよー、内府はね、太師の弟で小三郎様のお兄さん、殿下の二番目の奥様の黄竜殿姫のお子様なのよ」
「へーそうなんだ」
まだ会ったことないな、女癖が良くないのか、確かに女王様のお婿様にはふさわしくない属性だね。
年下の桔梗が婚約者として選ばれるわけだ。
桔梗は雪羅との結婚が嫌で出て来なくなってしまったのかな……。
他に好きな人がいるのか、単に雪羅が好きじゃないのかは私にはわからない。
そう考えると部屋に引きこもる気持ちが少しわかったような気がする。望まない結婚に十三の少年が抵抗するのは致し方ないのではなかろうか。
百合が喜べばと思ったけれど、無理に外に出すのも考えものだな。
ただ、このままひきこもりっぱなしも寂しいし、悪い子ではなさそうだから、私が出来る範囲内でなんとかできたらしてあげたい気持ちはあるのだけれど。
仕事を済ませ、自分の部屋へ帰る道中に、私は何か嫌な視線を感じた。
視線の主を探そうと辺りを見回すと、屋敷の物影からしゃがみ込んでこちらを見ている男の鬼が見えた。
私より少し年上くらいだろうか、黄色の髪に、金色の目、タレ目がちの甘いマスクの持ち主だ。
嫌な予感がして、目を逸らし、見なかったことにして、その場から立ち去ろうとしたが、どうやらもう遅かったようだ。
「そこの君」
話し掛けられてしまった。これでは無視出来ない。
「は、はい」
ぎこちなく、男の鬼の方へ顔を戻す。
彼が立ち上がり、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
「今、俺のこと無視しようとしたでしょ?」
「べ、別にそんなことないです」
男の鬼はニタニタとした笑みを浮かべながら、上から下まで品定めするかのように私を見つめてきた。
その視線がなんだか気持ちが悪いくて仕方がない。
「君、名前は?」
「柚子葉です……」
ここに来てからは名字を名乗らず下の名前だけ名乗ることにしている。これは渡からのアドバイスで、下手に氏を名乗るとそこから家柄を調べられ怪しまれる可能性があるのだそうだ。
「君が牡丹の……確かに美人だけど、見た感じそれだけだな」
「そうですか、ありがとうございます」
私は笑顔でお礼を言ってやった。
感じの悪い男だ。別に自分で美人だとは思わないけれど、こいつ相手には謙遜なんてしてやらない。
「牡丹をどうやって魅了したのだ?」
「さあ、どうでしょう?」
魅了した事実などないので答えらない。
そういえば目の前の男は“太師”ではなく“牡丹”呼びだ。
ということは、さっき話題に出た……
「内府?」
男はニヤリとし、私の頬に手を当てた。
「内府じゃなく、“金雀枝”と呼んでもいいんだよ」
どうやら当たっていたようだ。
美雲が言っていた女癖の悪い次男が、この金雀枝という男なのか。
「内府が私なんぞに何の御用でしょうか?」
「呼んでくれないのか……」
金雀枝は苦笑し、私の頬置いた手を撫でるように下に進め、肩へと置いた。
首筋を撫でられた時、背筋が凍るような気持ちになったが、表に出したら舐められると思い必死に耐えた。
その時、自分でもよくわからないけれど、渡に会いたくてたまらなくなった。何故だろう、今、彼は関係ないのに。
「俺、白姫一筋だった牡丹を虜にした柚子葉ちゃんの事が、気になって仕方がないんだよね」
「大したことないですよ、太師の気紛れですから」
それだけ伝え、私は身を翻し立ち去ろうとした。
しかし、腕を掴まれ強引に引っ張られて、壁に押し付けられてしまった。
「逃げないでよ」
金雀枝の顔が怪しく歪んだ。
その表情は、私の血の気を一瞬にして奪うような、恐怖を感じた。
この男は危険だ――。




