就職
満月の月明りが私と牡丹の姿を照らしている。少し肌寒さを感じる冷たい風が、私と牡丹の間を吹き抜けた。
私と牡丹は向かい合い、お互いに攻め込む隙を見極めていた。それは一見肉食獣同士の狩りのようであったが、私は内心震える小鹿のようになっていた。
牡丹は私を殺せば勝ち、私は牡丹に勝ち目がないと思わせたら勝ち。かなり不利な戦いである。
まずは牡丹が一歩踏み込む、いや、たった一歩踏み込んだかのように見えたはずなのに、距離にして約五メートルは離れていた間合いを、ほんの一瞬で詰めてきた。
私は即座に高圧水を使い、牡丹を瞬時に弾き飛ばし、距離を再度取ることに成功した。
「……掃除婦が、水の魔法を使うだと?」
「一応これも魔法なのかな? まあ水の魔法ではないけれどですが」
魔法は水を勢いよく出すことを一工程でこなすが、私の特技は水を出して、それを高圧で飛ばす、という二工程必要になる。
面倒だが、組み合わせはしやすいため、応用が利くのだ。そういうところは日常職ならではだと思う。
戦闘職は速さが命だから魔法も速さを求めて進化したのだろう。
牡丹は私を警戒して距離を取り、再度様子見をしている。
これはチャンスだ。
私は牡丹の頭上に大量のレモン汁を生成し落下させる。牡丹は簡単に避けるが、いきなり鼻腔へ進入した強力なレモン汁の匂いにむせ込んでいる。
香りに気を取られ、牡丹の力が緩んだその一瞬の隙に、私は牡丹目掛けバキュームの能力を使用した。バキュームはいわば吸引機だ。私はそれを自然に起こすことが出来、その吸引力は調整可能である。私はそれを全開まで上げた。
目指すは牡丹の右手。私は牡丹の愛刀を全力で吸引し見事強奪に成功した。
強奪したものを素早くワックスで固め、使い物にならないように加工してやった。
「これでこの武器は使えないですね」
私は奪った刀を牡丹に投げ返した。
私は余裕のあるふりを必死に演じた。内心ヒヤヒヤしっぱなしだが、強いと思わせないと私の負けだ。
牡丹は刀を受け取り、刀身を眺め、苦笑した。
「これ、かなり高かったんだがな……」
「私を雇えば元に戻せますよ」
にっこりと営業スマイルを牡丹へ送る。
高いってどれぐらいだろう、元に戻せなかったら首吊るしかないかなと、私は内心冷や冷やだった。
「いいぞ、雇ってやろう。確かに無傷で勝てる気がしない」
「ありがとうございます! 牡丹さん。本当、無一文で困ってたのですよ〜」
「取り敢えず俺のことはこれからだいし太師と呼べ、決して名は呼ぶな」
「た、太師様?」
「様はいらない。お前は人の身だから知らぬかもしれないが、鬼の国では下賤のものが高貴な身分の者の名を呼ぶ事は、非常識で不敬罪に当たるのだ」
「は、はぁ……」
下賤呼ばわりされた。世界が世界だから仕方ないけれど、現代日本の価値観に慣れた身としてはあまり気分は良くない。
「あと、これを付けろ」
そう言って牡丹は、肩に掛けていた薄布を私に渡してくれた。
「これは?」
「頭に被って隠せ、角がないと目立つからな」
「ありがとうございます!」
私は牡丹に向かって、敬礼のポーズを取った。牡丹はそんな私に怪訝な視線を向けてくる。
「お前は常識がなさすぎる。人間だから仕方ないがな」
「申し訳ないです」
「後、お前は俺に妖に襲われていたところを助けられたことにしろ。誰かに聞かれてもあまり深く話す必要はない。ボロが出るからな、黙っていれば周りが勝手に話を作るだろう」
「勿論です。太師が女の人と密会していたところに出くわしたなんて口が滑っても言いません」
「もし、言ったらタダじゃおかないぞ」
「身の危険を感じたら、私も実力行使に出ます」
私と牡丹はジリジリと睨み合った。
身の安全のためにも、多少の牽制は必要だ。雇い主なので基本的には下手には出るけれど。
「あい、わかった。取り敢えずついて来い」
牡丹は呆れたような表情を作った後に身を翻し、私に後ろを歩くように促した。
私は牡丹に貰った布で頭を隠しながらついて行く。
しばらく月の出ている方角に歩いていると、鬱蒼と茂った森から、整備された土地へと景色が移り変わった。
畑や家が余すところなく広がっており、住人も多いと思われるが、夜のため皆家へ引っ込み、鬼の姿は視界には入らない。
農地を抜けると、今度は立派な町が見えた。
しかし、牡丹は町を迂回し、裏通りの目立たない道を進んでいった。
「太師は、いつも徒歩で移動しているのですか?」
「馬は姫を帰すのに使わせた。お前のせいで徒歩になったのだよ」
「あーそうですか」
あんなところで逢い引きしていたお前が悪いのだろう、と思ったが心の奥に閉まい込んだ。話が進まなくなるからね。
そのまま二人でしばらく歩くと、北に南に広がるとても長い壁が見えてきた。長過ぎて端が見えないくらいだ。
「ここだ」
「え……?」
牡丹が大きな壁の前で立ち止まる。
これが家なの、広過ぎだよね、大きな商業施設くらいの敷地がありそうだ。このお屋敷の掃除婦を志願したことを、早くも私は後悔しつつあった。
その後、戸惑う私を余所に、牡丹は壁伝いに少し道を進み、ある箇所で立ち止った。
「来い」
牡丹が私に手を差し伸べた。
言われるがまま近寄ると、牡丹が私の体をふわり、と持ち上げた。
これは所謂、お姫様抱っこというやつ……ではなく、私は牡丹の肩に米俵のようにひょいと担がれた。
「ちょっ、いきなり何なんですか!?」
「じっとしていろ」
私を担いだ状態で、牡丹は少し膝を曲げ、勢いをつけて壁の上に飛び乗った。
いきなり地面から離れ、そして壁から地面へ飛び降り、着地した時の衝撃が体に伝わる。いきなりのジェットコースターのような体験に、私の心臓は高鳴り、顔は引き攣ってしまっていた。
牡丹はそっと私の事を下してくれるが、今の恐怖体験のせいで足が震え上手く立てずに、牡丹の方へよろめいてしまう。牡丹はそんな私を両手で受け止めてくれた。
「大丈夫か?」
返事をしようと牡丹の顔を見上げると、鋭い眼差しに長い睫毛、鼻筋の通った端正な顔立ちが近くにあり、思わず無言で見つめてしまった。
「柚子葉?」
牡丹が不思議そうに少し首を傾げ、私の名前を呼び、そこで我に返り、顔から火が出た。
恥ずかしい、美形だから思わず見惚れてしまった。私はすぐに牡丹から離れ、誤魔化すように話題を変えた。
「このお屋敷ってこういう出入りの仕方をするのですか?」
「まさか、俺だけだ。表から入るとなると周り道になるし面倒だからな」
「案外破天荒な人なのですね……」
「別にいいだろう、これくらい」
「はあ」
屋敷の庭には所々に街灯のようなものた建っていて、それ程暗さを感じなかった。
火の魔法で灯しているのだろうか、優しい明るさで暗闇を照らしてくれている。
周囲を見渡し観察すると、木造の建物が敷地内にいくつも建っており、その全てが寝殿造りのような形で建てられていた。
私達は数ある建物の中を縫い進み、牡丹は一際大きな赤い色を基調とした建物の前で歩みを止めた。
「ここが俺の住まいだ。赤竜殿と言う」
「すごく大きいのですね」
「この屋敷の中では二番目に大きい。一番は父上の住まいだ。まあ、あの方は大抵は家にはいないがな」
「お父様は忙しい人なのですか?」
「ああ、知らないのか。俺の父上は摂政だから大抵は鬼王の下で仕事をしている」
摂政って確か歴史の授業でやった、女性や子供の君主の変わりに政治を動かす職だよね。
もしかして、もしかしなくとも、牡丹ってとっても偉い人の息子だったりするのか。どうやら私はとんでもないとこに飛び入ってしまったようだ。
「お前は今日から赤竜殿の預かりとする。ここで掃除婦として働け」
「このお屋敷だけ掃除すればいいのですか?」
「詳しいことは教育係をつけるからそいつに確認しろ」
「はあ、有難うございます」
私は、牡丹について、恐る恐る屋敷へ足を踏み入れたのだった。




