名前 〜ある勇者の呟き〜
「いやー、牡丹さん強いね、稽古つけてもらって七日目なのに、今日も一撃も入らないよ」
僕は部屋で雪羅を膝の上に寝かせ、膝枕の態勢で雪羅の頭を撫で撫でしながら、今日あったことの愚痴を零していた。
やっぱり、雪羅を可愛がるのは溜まった疲れやストレスを癒すのに一番効果がある。
雪羅は僕が撫でると、たまにくすぐったそうにしながら首を竦める仕草をし、少し恥ずかしそうに僕を見上げた。
「牡丹は鬼の国でも有数な剣士の一人なの、だからまずは彼に勝つことを考えて、輝夜のところにも牡丹以上に強い剣士がいるわ。せめて牡丹と互角に渡り合える腕がないと輝夜に辿り着くこともできないと思う」
「はーい。頑張ります」
雪羅は僕の膝から起き上がり、僕の着物の裾を指先でちょこんと掴み上目遣いで僕を見た。
「ごめんなさい、こんなことに貴方を巻き込んでしまって、私のせいで貴方が辛い目に……」
「んー、なんか“あなた”って呼ばれると僕達夫婦みたいだよね」
「なっ!!」
雪羅は顔を真っ赤にして、怒りとも泣き顔ともつかない複雑な表情で僕を見てきた。
僕は慌てて愛しい少女に弁明する。君にだけは嫌われたくない。
「雪羅? 冗談だよ。ごめんね?」
「うっ、そう……冗談なのね」
今度は途端にしょんぼりとした顔をした。
僕は取り繕うように、雪羅の頭を撫で「雪羅みたいに可愛い子と結婚出来たら、そんな幸せなことないけれど」と、付け足した。
雪羅の耳が瞬間赤くなる。
「わ……私は鬼の頂点に立つ者、結婚相手も決まっているわ。でも、もし、輝夜を倒した英雄となら結婚も許して貰えるかしれない……」
雪羅は消え入るような小さな声で、目を逸らしながら僕に告げた。
僕はそれに、何も返事はしない。
「雪羅は鬼で一番偉いのに、結婚相手すら君の自由にならないのだね……」
「そうね、私の婚約者は時雨水仙の三男・時雨桔梗。政治的なことや、私の財産管理、私の人生、全て時雨氏が管理しているわ。私の自由になることなんて大してないの、お父様とお母様がいればもう少し権力があったのでしょうけれど」
「雪羅のご両親はもういないんだね……」
「ええ、二人で外出していた際に、妖に襲われ亡くなってしまったわ」
「そうか、辛かったね……」
「いいのよ、もう立ち直ったわ。お父様とお母様の代わりに私が頑張らないといけないの」
「雪羅は偉いね。僕も雪羅に恥じないように頑張らないとな」
「と、ところで……」
雪羅は少し顔を赤らめながら、僕の服の裾を小さく掴んで何か言いにくそうにしている。
「雪羅、どうしたの?」
「な、名前を教えて。“貴方”って呼んで他の人達に夫婦と間違えられても困るから、今から名前で呼んであげるわ」
雪羅は有名人だし、僕と夫婦と間違える人はいないと思うのだけど、可愛いから突っ込まずにいよう。
「じゃあ、雪羅が付けてくれる? 僕はここに来てから新しい自分になれたと思いたいんだ」
「そ、そうなの……、えーっと、どうしよう」
「すぐじゃなくていいよ、思い付いたら教えて。ただ“青”を連想する言葉だけはなしでお願い、苦手なんだ……」
「ええ、わかったわ。次回会うときまでに絶対考えておくわね」
その日は雪羅とそれで別れた。
そして、次の剣の訓練もその次の訓練も、僕は牡丹に一撃も入れることが出来なかった。
それでも、菊の魔法の授業や、妖との戦いで僕の戦闘力はめきめきと上がっていた。
牡丹との勝負も最初は一瞬で終わっていたのが、今では数分は持つようになっていた。
結果負けることには変わりないが、一方的にやられていたのが戦いとして成り立ってきた。これは充分進歩と言えるだろう。
「また、僕が負けてしまいましたね」
「…………」
牡丹は、必要事項以外は話さない。
何か質問をした時は答えてくれるのだが、雑談なんかは基本してもらえないのだ。
「牡丹さん、僕に何か助言はありますか?」
「速さを上げろ、狙うところは悪くないが速さが伴っていない」
「ありがとうございます、速さですね! 意識してみます」
「今日はこれで終わりだ、また次回」
珍しく牡丹が僕にアドバイスしてくれた。
僕がアドバイスするレベルにまで至ったということだろうか、もしそうなら素直に嬉しい。
早く強くなって、早く僕の目的を達成したい。そのためにも頑張ろうと心に誓った。
※
僕はその日、強くなる自分に心を躍らせながら、自室へ戻った。すると、扉の前に雪羅が立っていた。
彼女は指を絡ませながら、もじもじとした様子で佇んでいる。
「雪羅、どうしたの? 中に入ろう」
「ええ、ありがとう」
僕は雪羅を自室へ招き、座らせた。
雪羅は落ち着かない様子で、何かを言おうとして口を紡ぐ動作を何回か繰り返した。
「あ、あの……」
「どうしたの、雪羅?」
「そ、その、な、名前を考えたのだけれど」
「ん? ああ! ありがとう。どんな名前?」
雪羅は長い髪を耳にかけ、伏し目がちで僕の新しい名前を口にした。
「夕霧……、夕霧なんてどうかしら」
「夕霧?」
「夕方に出る霧のことよ。夕方といえば赤、そして霧は紅葉の秋を象徴する言葉でもあるわ。それに、どこか掴み所のない貴方のことを想像して夕霧と名付けたのだけど、いや……かしら?」
「ううん、有難う。すごく気に入ったよ。これから僕の事を夕霧って呼んでね」
「ゆ……夕霧……」
その時の、僕の名前を呼びながら、少しはにかみながら嬉しそうに笑う雪羅は、最高に可愛かったと思う。




