夜
私はその晩殆ど眠れなかった。明日からまた旅が始まるから睡眠を取って体力を回復しなければならないというのに、意識が沈みかけると少しの物音で目が覚めてしまうという繰り返しだった。
それは近くで眠っている鴇が心配でならないからだ。彼の精神は今とても不安定で何をしでかすかわからない。
私は彼が起きた時に彼の行動を近くで抑えたいと思い、眠るに眠れなかったのだ。
鴇は殆ど寝息を立てていない。薬で眠らされる人間とはこういうものなのか、それとも鴇自身が静かに眠る性質なのだろうか。
「渡……」
渡はまだ“片付け”をしているのか帰って来ない。一人でどこか行ってしまったのではと不安になり、探しに出掛けたい衝動に駆られるが、今ここを離れるわけにいかないと思い直すことの繰り返しだった。
私は膝を抱き座ったまま、ごろりと横に倒れた。
畳に額がつき、その部分がひやりとする。ここまで顔を近づけるとイ草の香りがする。
子供の頃は卸したての畳の香りが嫌いだった事を、私はふと思い出した。子供の鋭い感覚では嫌だったものも成長し感覚が鈍くなれば気にならなくなるものだ。
まだ子供だと思っていたけれど、私も成長したのだとこういった小さな事で自覚する。
そのまま転がった状態で私の意識が再度落ちようとした時、鴇が小さな呻き声を上げた。
重くなりかけていた身体を起こし、彼の顔を覗き込むと瞼を開いた鴇と目が合った。
「鴇君、大丈夫?」
「から……かね?」
朦朧とした眼差しで、鴇は私を見た。
彼は頭に手をあてながら、気怠そうにゆっくりと起き上がった。
「俺……」
薬で眠らされた人間の覚醒とはこのように呆然としたものになるのか、単に寝ぼけているだけなのかはわからないが、彼は無言でしばらく畳を見ていた。
そして、全てを思い出したかのように目を見開き、彼の唇から血が一筋流れた。
私は無言で鴇が話し出すのを待っていると、目に炎を宿した鴇がゆっくりと私に頭を向けた。
「唐金……、輝夜という奴について教えてくれ」
鴇は大声も出さず暴れもせず、冷静にそれだけ言った。私は彼に答えるように無言で頷いた。
それから私は話せる範囲で彼にすべてを語った。
時を繰り返していること、以前の時間軸で輝夜が鴇や瑠璃を殺したこと、輝夜がヘンタイ先輩に執着していること、すべてだ。
「逸見先輩ってあの?」
「そう。化学部の部長で美化委員長の彼。先輩は実は私達よりずっと前にこの世界に来て勇者となったの。その時一緒に旅をしていた仲間の一人が輝夜なんだって」
「勇者の仲間だった奴が未来では虐殺をしているのか……」
鴇は鼻で笑った。
「輝夜は生き物ではないと先輩に聞いた。だから絶対に殺せないとも」
「そんなの試してみねぇとわからねぇだろ」
「試して無理ならその場で返り討ちにされて殺される」
畳が鈍く音を立てる。鴇の拳が畳に凹みを作った。
「私ね、そんな輝夜を倒す方法を一つ知っているの」
「教えろ」
「勇者の能力の一つに必ず敵を倒す事ができるものがあるの」
「杜若空を探せばいいんだな」
「うん」
杜若空は勇者だ。今はどこで何をしているかわからないが、彼の能力なしに輝夜を倒す事は絶対に適わないだろう。
腸が煮えくり返るような相手ではあるが、輝夜を倒す事は私の役目ではない。ヘンタイ先輩から強く申し付けられている私の真の最終目的は杜若空を殺す事と皆を集めて元の世界に戻りたいと強く願わせる事だ。
ただ、鴇に前を向かせるために輝夜という存在の討伐を利用させてもらうだけだ。
達成可能な目的が出来たお陰で、鴇の顔に色が戻ってきた。
復讐心は強い、原始的な愚かな感情といえるがだからこそ人間を突き動かす事ができるのだ。
これで鴇が悲観して死のうとする事は一先ずはないだろう。
「鴇君はこれからどうする?」
「俺か……?」
鴇は腕を組んで畳を少し眺め苦笑した。
「むしろ唐金がどうするかって聞きたいんだが」
「私? 私は……」
私は正座をし、鴇に真っ直ぐに伝えた。
「渡と一緒に鬼ヶ島に行くよ」
「そうか、それなら別行動だな。輝夜の手下と平気な顔して旅ができる自信がねぇ」
「ごめんね」
「気にすんな、手分けした方が効率いいだろうしな」
私は渡と繋がれた糸を絶ってから他の事を行動するつもりだ。だから彼の側を離れ他の目的を優先して行動するわけにはいかない。
鴇の方は渡と居たら嫌でも輝夜とのことを思い出してしまうだろうし、渡と共にいる事は輝夜に与する事にも繋がりかねない。私は割り切っているけれど、鴇としては絶対に避けたい事なのだろう。
だから今、私達は一緒に行動はできない。
「鴇君」
「何だ?」
「夕霧を探して見つからない時は瑠璃ちゃんの事を探すといいかも。兄妹だし」
「勿論、そっちも放置する気はねぇよ。真朱も杜若も心配だからな」
「私もみんなの事は気に掛けながら旅をするよ」
「おう」
私と鴇は拳と拳を合わせた。
これで彼はしばらく一人でも大丈夫だろう。
そう思った途端急に眠気が襲ってきて私はその場に崩れ落ちるように寝転がった。
「鴇君、ごめん。私寝るわ……」
「お、おう。じゃあ俺は出てくわ」
立ち上がろうとした鴇の服の裾を私は掴んだ。
「鴇君ももう少し休んだ方かいいよ。一緒に寝よう」
「は!?」
鴇の顔がみるみると赤くなる。
「一緒の部屋で男女が寝るわけにいかないだろ!」
「さっきまで寝てたのに」
「マジかよ!?」
「マジだよ」
鴇は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
彼の反応がオーバーなのか、渡や牡丹と同じ部屋で寝泊まりして感覚が麻痺した私が異常なのか、そのどちらもなのかわからないが、今この状況ではそんなにおかしい判断だとは思わない。
しかし、鴇は気にするようで、勢いよく立ち上がったと思ったら、「目が覚めたからいい」と叫んで部屋を飛び出していってしまった。
彼の精神状態は回復しただろうし、放っといても害はないだろうと私は判断し、彼を追いかけずに本能のまま瞼を下した。




