未来からの来訪者1
今日は雨が降っていた。
閑静な住宅地に雨音が響いている。
久方振りの雨で、乾いて渇望していた植物にとってはさぞ喜ばしいことだろう。
植物だけではない。よく耳を済ませてみると、雨に歓喜を示すかのように、数匹のカエルが鳴き声を発している。
正直気障りであるが、待ちに待ったカエル達自身にとっての楽しみは、日頃のストレスを解消してくれるのだから、今日くらいはカエルの大合唱は多めにみておこう。
そして、小学生達だろうか、地面に出来た水溜まりをよそに駆け回る音がこだましている。無邪気なものである。童謡を口ずさみながら楽しそうに登校しているようだ。
「……今日は雨か」
ため息混じりの一言。
憂鬱な気分になるのは仕方がない。
俺───赤橋祐弥はただいま引きこもり中であるからだ。
「……はぁ」
正確には、就寝から目覚め、特有の温もりに浸る為に布団から出ずにうずくまってるだけだが。
あいにくの雨なゆえに、何にもやる気が起きない。
布団の中が天国過ぎて、無気力になっていくのも要因だろう。
ほんわかした空間に作用した心身的な何かが俺の身体を支配しているに違いない。何せ、布団の中は理想郷───いや、桃源郷で、余生を謳歌せずにはいられないのである。
現時刻は、十一月二十八日午前七時。
俺は高校二年生なので、もちろん学校があるのだが、登校時刻まで一時間少々ある。
ということは、まだ寝る時間があるのだ。朝食を抜けば、睡眠に時間が割ける。
重たい瞼を重みに任せて閉じ、布団を肩までかけて二度寝の準備を完了させたので、俺はもう一寝入りに───。
「ゆーやっ! あっさだよー!」
「……そうだった、もう居たんだ」
安穏とした空気は一人の人間による弾んだ声で、瞬く間に崩れ去っていった。
すっかり忘れてしまってたようだ。この家に魔物が帰還していたことを。
階段が軋む音が段々大きくなってきている。つまり、一階にいた魔物が俺の部屋へと向かってきているのだ。
「……ゆーやっ?」
やがて、俺の部屋の前に到達した魔物は、心配そうな声を出しながら、ドアを開けてしまった。
すかさず、俺は如何にもうざがるように、溜飲を下す。
「はぁ、また安眠妨害か姉……」
「すとっーぷ! 姉貴っていおーとしたでしょ? 私のことは、苺って呼んでっていったよねー?」
魔物、と表現したが、初参は表現の訂正を要求するかもしれない。
容姿は間違いなく大部分の男が見入る。さらに、垢抜けない高めの声だ。十人十色、口を合わせて可愛などと発音するだろう。
だが、騙されてはいけないのだ。魔物の甘い声に。
「……おやすみ」
俺は抵抗するべく、魔物に背を向けて、布団に覆い被さる。
「うん。おやすみゆーやっ! ……じゃなくてー!」
魔物は一度、快諾したようだが、流れに負けず、すぐに快諾を取り消し、力付くで俺のベールをひっぺはがしてしまった。
ベールが剥がされたとなると、次に刃を報いるのが、不可視の冷気達だ。
奴らは一斉に温もり空間へ突入し、あっという間に空間を冷気で支配してしまった。
要は。
「さ、さっむーっ!?」
季節は初冬だ。
当然、温度差はある訳で、思わず残りの温もりをかき集めるかのように、俺は身を丸くし、体育座りの形をとったまま横になった。
あまりの寒さに、身体が震えているではないか。
「もう、大袈裟なんだから、ゆーやは! いつまでも布団にいるから余計に寒く感じるんでしょっ」
このうるさい魔物と表したのは俺の姉貴―――赤橋苺だ。
姉貴は大学一年生で、基本的に忙しい共働きの両親に代わって、炊事と洗濯をこなしながら大学へ通っている。
流石に家事全てを押し付けるには、罪悪感があるので、掃除と買い物は俺が担当しているのだが、一時期は全部を請け負って、過労に近い状態に陥ったことがあった。
俺には負担かけさせたくないと、何度も連呼していたが、両親からの提案を飲み込み、受験戦争の真っ只中を、高校が保持する有名大学への推薦権を掌握して───略奪とかではなく、きちんとと成績に由来する───大学が決まっていたのである。
なおかつ特待生扱いで、生徒会長を務めていたというのだから、紛れもなく優等生なのだが、普段の行動からは想像が出来ない。どう考えても頭がいいように見えないのだ。
「ややっ? 今然り気無く私のことをばかにしてたよねっ?」
どうやら、自分でバカと思ってるようだ。
姉貴曰く、毎日手入れを慎重に行っている黒髪はサイドポニーテールで結んでいる所や、透き通るような瞳と薄桃色の唇に思わず見とれるような、整っている小顔が自慢らしい。まさしく、自画自賛。
だが、そんな姉貴にも決定的におかしな所がある。
それは。
身長が百五十センチ丁度だと言うことだ。
姉貴はよく小学生と間違われ、なぜか「えへへー。私小学生に見えるほど若いんだー。照れるなぁー」と確実に勘違いしている。
単にチビ扱いをされているだけだと、誤解を解こうとしたが、「そんなこといって、私を心配してくれてるんでしょ。でも、どんなに私を想っても、私たち……姉弟だから……ねっ?」と明らかに答えにならない発言をするのだ。
Aといって普通Bと返ってくる会話が、Aといったら問答無用でZで返してくる。これではキャッチボールにならず、一方的な全力投球を幾度も行う始末である。
いくら姉貴を侮辱しようが、姉貴の脳内では全ての言葉がプラスに成り変わる変換が生じるようだ。
「とにかく、早く起きてよゆーやっ! 朝ご飯が冷めて氷になっちゃうから!」
「百%あり得ないだろ」
どうして姉貴は大学へいけたのか。
姉貴の脳内異常変換を無視しつつ、黙々と着替えを済まし、テレビを見たり、朝食をとったり時間を使っていたら、あっという間に、登校時刻の七時四十五分になってしまった。
「……ったく。だるいなー」
「そんなこといわないで、頑張ってきなよー」
「はいはい」
「いってらっしゃーい」
憂鬱感MAXのまま、大学へ行くには時間の余裕がある姉貴に玄関で見送られて外に出た。
「うへぇ、さむ……」
十一月の終わりというだけあって、日に日に寒さは厳しさを増している。
夜中から降っていた雨は止んでいるようだが、予報では再び降り出すらしい。空を見上げてみると、灰色の雲が連なって日差しが遮られている。
ひんやりとした空気が漂い、吐いた薄白い息を視認すると、俺は学校への道を歩きだした。
制服の上に、ベージュのコートと、黒と白のチェック柄のマフラーを首もとに巻きつけて尻尾を後ろに垂らしているが、顔に細小の針が突きつけるような感覚は遮断されない。フルフェィスでもしない限り、防ぎようがないことくらいは承知だが、どうしても口元が震える為に、上下の歯が接触して音が発生してしまう。
傘を持てという姉貴を無視して家を出たものの、やはり、一旦止んでいた雨が降りだしそうな雨雲が切り目がなく空一面に広がっているのだから、持参した方が無難かもしれない。
しかし。
「……どうせ降らないだろう」
単なる安直な考え。帰りは更なる寒さに見まわれる自分を想像するのは容易い。
たが。
俺は家に傘を取りに行かず、そのまま登校してしまったのが故に、あいつと出会ったかのもしれない───。
道に女の子が倒れていた。
「は?」
その一言だけが俺のくちから漏れた。
どうみても、倒れているのは人間で、女性。しかも、俺と余り年齢が変わらなさそうな少女であることは間違いない。
仰向けで、瞼を閉じているので、意識があるか分からない。十字路のど真ん中に倒れているということは、車に跳ねられて気を失ったのだろうか。それとも、既に意識はこの世には───。
「いや、まだ分からないだろ」
最悪な結果を考えないよう、首を振って逡巡を消して、力無く横たわっている左腕を掴んで服を肩側に捲った。
ここで勘違いしないでもらいたいが、決して、動かない少女に性的ないたずらをしようなんて思っていない。そんなのはただの犯罪だ。
「脈は…………一定のリズムであるな」
少女の細い左手首から脈を感じたので、ひとまず生きていることは確信した。
少女の身体を道の端に寄せ、背中を民家の壁にもたれかけさせてから、俺は周囲を見渡した。
「……この時間帯は通らないか」
周りを見回すが、誰もいない。
そもそも、余り多くの人が通らない道だ。車といえども、道に迷った車か、国道へ出る抜け道を熟知している車くらいしか通らない。
ならば、車に接触したということは考えにくい。道端が狭い為、スピードが出せないのだ。スピードが出てない車を避けるのは大したことはない。
ならば、暴行をうけたのだろうか。
服の下は分からないが、少なくとも手や顔に痣や怪我はない。
それに、ここは住宅街だ。
怒鳴り声や、悲鳴が聞こえれば、数人は家から飛び出してくるだろう。
あれこれ考えてみたが、まるでが思い当たる節がない。
ひとまず、少女を起こしてみるべきなのだろう。
「おい。こんな所にいた……ら」
ふと、俺は思わず、自分がこの少女に対して行った処置を思い出してみてぎょっとした。
「……普通に接してるなんて」
俺は、とある理由で、女性が苦手だ。
別に、嫌悪感を抱くとか憎悪を向ける対象ではない。ただ、苦手なのだ。出来れば、会話は手短にしたり、極力行動を共にしないようにしている。
だからといって、女性に興味がない訳ではない。歴として、恋愛対象は女性だ。好きな女性タレントだっている。
要は、女性とうまく接することが出来ないのである。身内は例外だが。
意識がないとはいえ、見知らぬ少女に触れたり話したり出来るのが奇妙なのだ。
ましてや、自他共に少女が美少女だと認めるのが決定事項であろう。
クリーム色の髪の毛を、右耳付近に集めてサイドポニーテールにしてある。
あどけなさが残る小顔には、整った鼻梁があり、その下には、潤いのある薄桃色の唇。気がついたら見入ってしまっていた。
「……うーん」
少女は魘されているかのような声を出し、やがて徐に目を開けた。
「…………」
暫しの沈黙。
そして、寝ぼけた表情から、一瞬で驚きの表情へ成り変わっていくのが見てとれる。
見開かれた両の眼は、鋭いとはいわないが、切れ長で、意志力を感じる。
白藍色の瞳は、濁りがいっさいなく、ある種の宝石より、はっきりとした煌めきがあるのだ。
「えい……っ」
何を思ったのか、少女は自分で自身の頬を抓ったり、背後のブロック塀に頭をぶつけたり、謎の行動をしている。
「じーっ……」
「……何だ?」
現実に納得したのか、奇怪な様子は終了し、少女はは俺の顔を凝視した後、顔を緩ました。
「ぱぱ……? ぱぱなのね!? やっと、やっと会えたっ!」
少女は手を合わせてこちらを見ている。
「………………」
あまりにも想像の範囲外の言葉が少女の口から出た為、俺は呆気にとられていた。
年齢もそう変わらないであろう少女に、あたかもパパ呼ばわりさせているなんて、周囲に知れ渡ったら、もうこの世では生きていけない。社会的に死亡する。
「………脳外科か? いやそれとも、精神科? それとも」
一旦深呼吸し、起立して目を輝かしている少女に、俺はピッタリな病院をフルスロットル回転の思考で探した。
すると、眼前の少女はきょとんとした様子で、平然とこう反論した。
「え? 私は元気よ。だから病院なんて探さなくていいの! それよりね……」
少女は地面を踏み切り、勢いに乗り。
会えてよかったっ!
そんな、感動的なセリフをいいながら、あろうことか、涙をこぼして抱きついてきた。
「……なんなんだ?」
柔らかい身体が服越しに密着してくる。
動揺、なんてものでない。
何故か、会話できるだけでも奇跡であるのに、抱擁まで享受できるとは。
少女の意味不明な言動と、女性拒否反応が起きないことに、俺は驚愕していた。
「……あっ」
落涙していた見知らぬ女の子は、我に帰り、俺から離れると、もう一度俺を髪の毛から、靴に致までせわしなく観察している。
「じーっ……」
「……………」
「……へっ…」
くしゃみでもする寸前なのだろうか。
なら俺の顔の前で、くしゃみをしないでほしい。
しかし、彼女は予想外のことを再び口にした。
「……へっ、変態よー!」
「……は?」
今日は何度呆れたことだろう。
挙げ句の果てに、俺は変態扱いだ。そもそも変態呼ばわれされる理由がないのだが。むしろ、救世主扱いの方が理にかなっている。
思えば最初からこいつはおかしかった。
『……ぱぱ?』
初対面の女の子になぜ、ぱぱ呼ばわりされなければならないのか。
どう考えてもおかしい。
だが、罰ゲームとか、そういう類のことではないと思う。遊んでいるようには感じられない。
何かが引っ掛かるような気がする。
───本当に、初対面なのだろうか、と。
深く考え込もうとしたが、少女はシンキングタイムを俺に与えてくれないようである。
両手を唇の左右に当てて、拡声器を使うかのような仕草をした。
「変態よーっ! 変態が私を襲ってきてっ……。誰か助けて!」
少女の悲鳴を聞いてどこからか駆けつけた男女数名が俺を見つけた瞬間、睥睨しながら、俺を取り押さえようとしてきたので、とりあえず、疑念を払拭しなければならない。
なんといっても、濡れ衣を着せられているのだから。そもそも、路上に倒れていたのが悪い。しかも、勝手に抱きついてきたのだから、こっちが被害者である。
ここは、しっかり叱っておかなければ。
「全く、朝からうるさいな、有紗。他人様に迷惑かけたりす……」
俺は今。
今、反射的に少女を叱責しようとした。
あくまでも、反射的にだ。まるで、子をしかるような親のように。
更に、俺は見知らぬ女の子の名前を確かに呟いた。
適当ではない。染み付いた経験が素のまま露呈したのだ。今まで経験したことのない経験を。
「……やっぱり」
彼女は知ってたかのように口を開いた。
俺が経験したこと、いや、経験することを熟知しているように。
「やっぱりって……お前、何者だよ」
「さっきいったでしょ、ぱぱって。悟ってよ」
「……ふざけないで本当のことを」
「本当よ。紛れもない真実なの」
「…………っ」
頭が回らない。少女のいっていることが理解出来ない。
状況的な証拠はないが、少女のいっていることが感覚的に正しいと思ってしまう。
だが、何がどうであれ、少女が無事ならば、こんな下らない茶番に付き合っているほど器は広くないし、時間もない。
俺は、踵を返して、学校へと向かおうと少女に背を向けた。
そんな俺を追う素振りも見せず、少女はただ言葉を続けた。
「さっき変態よって叫んだでしょ。それは、ぱぱだという確証を得るためなの」
それでは、俺を探していたかのようではないか。
ふと、足を止め、首だけ捻って俺は云った。
「俺だと確証を得る?」
「そう。ぱぱなら、逃げたりしない。貴方は私を叱ってくれた。……ねぇ、貴方の名前は何?」
「俺は……」
いつの間にか、俺を捕まえようとしていた人達はいなくなっていた。
そんな不可思議なことを追求するより、もっと非現実的なことを目の当たりにしようとしている。
俺は、彼女の言葉を思い出す。
『会えてよかったっ!』
俺は導かれるように、自分の名前を告げた。
「俺は、赤橋祐弥。お前は……」
「私は、有紗。赤橋有紗。私は、ぱぱの……」
───赤橋裕弥の娘です。
語られた事実。
それは、真なのか偽なのか。
そして同時に、ある疑問が浮かび上がった。
「お前はどこから来たんだ?」
娘、と名乗るならば、当然、俺の記憶に有るはずだ。有っても、高校生で子持ちなんて、言語道断である上、歳が変わらなければ、因果的におかしい。
つまり、本当の娘であるならば。
「私は今から三十年後の世界……未来から来たの」
「三十年後……だって?」
「うん。現在のぱぱにはさっぱりだよね。いきなり、可憐な娘に奇想天外なこと言われたらさ」
「…………」
「ちょっとっ!? なんで少し引いたような顔するのよ!」
「普通は引くだろ。やっぱり頭がおかしいとしか思えないしな。漫画とかアニメの見過ぎで現実逃避してるのか?」
「そ、そんなことある訳っ……ないとはいえない」
「そらきた。なんか流されかけたけど、仮に未来から来て、娘だとしたらさ、何で俺の名前を訊いたんだよ」
この少女───有紗に対しては、気持ち的にも、態度的にも、少し大きくでれる。普段会話を最低限に留めている俺が、流暢にまくし立てるなんて。
「だ、だって、他人だったら恥ずかしいし、昔の写真はあまりないから、名前くらいしか参照出来ないんだもん」
「じゃ、消えた人達は何なんだよ。突然わいてきたみたいだったぞ」
「うぅ、やっぱり昔のぱぱも鋭いよぉ……」
「鋭いというか、謎の現象を見せつけられたらトリックが気になるだろ」
「そうだけど、それに関しては……」
「いえないという訳か。まぁ、未来の何らかの情報が関与しているならば、それを過去の人が知ったら未来が変わりそう……って、まさか」
「一般人が干渉してしまったら、そうなるかもしれないけど、ぱぱは特別だから、大丈夫なんだよ。ぱぱはシステム権限を持っているってことだからね。だからぱぱは未来を変えることも出来るし、変えないことも出来る。未来の改変の影響範囲は限られるけど」
「……システム? なら、その神出鬼没トリックを今の俺が知ったって別に良いだろ」
「ダメなんだよ。いくらシステム権限があるからといって、メインじゃないからね。今のぱぱに与えられているのはサブ権限。メインは未来のぱぱが持ってるから、メインに禁止されてる権限は教えられないんだ」
「……おいおい、権限、権限って、パソコンとかじゃないんだから」
「そうだね、パソコンなんかじゃないし、ましてや仮想的な世界の話でもないよ。とにかく、今は私を信じてくれなきゃ、先に進めないよ」
「先に進む?」
「あ、いや……あ、はは」
「…………」
含みがあると、伝えているような苦笑いである。
こんな隠し事をされてしまえば、必然と、信用性が希薄になっていくのはいうまでもない。
「なら……俺はお前が自分の娘だと信じられない」
逆にこれだけの情報で、信じられる者はいるのだろうか。
真に迫るような、切り詰めた空気が漂っていたが、辻褄の通らない説明や、意味不明な話を聞かされてしまったので、十分不信に思う材料は揃っている。
信じ込もうとしていた自分の頭がどうかしていたようだ。
「…… ほっ、本当なの! 信じがたいかも知れないけどっ」
それまで笑顔だった彼女は笑みを消して必死に弁解をしてきた。
「確かに俺のことを知っていたし、俺だってお前の名前を自然といったときは説明出来ないけど本当かもしれないって思ったさ」
「なら、どーして?」
不意に、彼女は俺の手を取る。
寒さが本格的になってきたことを忘れていて、いつもポケットにいれて温めている俺の手が、有紗の介抱を行っていた為に、冷たくなっていた。
時折吹く風によって、全身鳥肌がたつのを感じる。
しかし。
彼女の手は温かった。
全身の寒気を吹っ飛ばしてくれるほどに。
手から伝わってくる温もりは体温によるもののはずだ。
だが、それ以外のものがいっそう温もりを増しているように感じる。
何かは分からない。
それこそ、未来の俺ならば、何かの正体が分かっているのかもしれない。誠に皮肉であるが。
「ねぇ、温かいでしょ?」
彼女は俺の心を悟ったのかのように、柔和な笑みを灯して話しかけてきた。
「これはね、ぱぱのおかげなんだよ」
「俺のおかげ?」
「そう。昔、まだ私が四歳のとき。今日みたいな寒い日にね、ぱぱとお出かけしたの」
「…………」
語り出した、俺にとって未来、有紗にとって過去の話を、俺は黙って聞き続ける。
「私いつも愛用してる手袋を道で落としちゃってね、手がどんどん冷たくなっちゃったの。あ、そのときは冷え性だったから、手袋がないと嫌な気分になってたんだ」
有紗の話は嘘かもしれないと思う気持ちは七十パーセント。心のどこかで本当のことかもしれないと思う気持ちが三十%。
全部を信用していない訳ではない。
ただ、現実味がなさすぎて、理解に及ばないので、信頼に欠けるのだ。
彼女は話を続ける。
「手袋をなくしちゃったのもあるけど、それ以上に寒くて私泣いちゃったんだ。情けないことにね。でも、パパがこういってくれたの。『泣くな有紗。手袋がなくても温かくなる方法があるぞ』って。それでね、手を繋いでくれたんだ。『ほら、温かいだろ? これがぱぱの温もりだよ』ってね。私の小さな手を大きな手で覆い被せられたときは、ぱぱの手に飲み込まれたかと思ったよ」
「そう……か」
俺は。
こいつを知っている。
まだぼんやりとだが、知っている。
彼女の話が鮮明に俺の記憶に干渉するのだ。
頭痛とともに、女の子の小さな手を握ったり、頭を撫でたりした記憶が蘇っていく。そして、娘のもう片方の手を握っている人物が───。
「ぐっ…………!」
この頭痛は、知ってはいけない記憶の領域に踏み込もうとしているからなのだろうか。
意識が朦朧としかけて、足が覚束ない。
有紗に支えられ、思考するのを止めてみると、徐々に痛みがひいていく。
「ぱぱっ! 大丈夫!?」
「あぁ……」
「嘘よ! だって苦しそうにしてるもの!」
苦しい。その原因は。
俺は、流れに任せて、やつあたりのように告げた。
「お前が作ったんだろう。そもそも娘とかいう嘘っぱちの情報を与えてよ……」
一瞬、有紗はたじろいだ。
「……まだ信じてくれないの?」
俺を見る彼女の目がさっきまでの透き通った瞳と変わり、濁った虚ろな瞳に変わり果てた。
「わかったわよ……」
希望を失ったかのような様子で立ち上がり、俺を支えていた手を離し、距離をとってから、頭を深々と下げてこう謂った。
「ごめんなさい。私が間違えておりました。大変ご迷惑を御掛け致しましたと存じ上げます。誠に申し訳御座いませんでした」
「な……」
機械的な謝罪の言葉を述べた彼女の態度は全く異なっていた。
「では、失礼致します。大変貴重な時間を私のような無礼な者が独占してしまい、本当に申し訳御座いませんでした」
彼女はもう一度深くお辞儀をして、惜しむように、この場を去っていった。
「…………」
気のせいだろうか。
去り際に、彼女の方から水滴が舞ったのは。
「……いや、雨か」
俺は無意識に空を見上げ、更に黒雲が増し続けているのを確認した。
「大丈夫だ。雨は降らない」
再び踵を返し、俺はそのまま何事もなかったかのように学校へと向かおうとした。
しかし、俺はあるものを見つけてしまった。
「……手紙?」
外国の便箋みたいな、至る所に染みがついている手紙。
俺は開ける前に自然と宛先を確認した。
「俺は……どーしちまったんだ」
案の定、頭の片隅にあるデータと宛先が一致した。
紛れもない、俺の住む家の住所である。
明けてみると、中には写真と一枚の紙が入っていた。
「この写真は……っ」
写真はどこかの家の縁側に、二人が腰かけていて、後ろに、一人が間に入るように立っているものだ。
俺は、写真に写っている三人のうち、二人を知っていた。
一人は、外見が少し変わってると思うが、俺だった。
そして、もう一人。
ウェーブがかかってるふわふわしてそうな長いクリーム色の長髪。
それを右サイドに結び、シュシュを着けている。
顔はどこからみても艶やかで綺麗な肌に、小さめの唇と穏やかさを感じる白藍色の瞳が、一層顔を整えさせている。尚且つ、笑顔でカメラ目線だ。
何も謂わずとも、幸せさを醸し出していることは間違えない。
この少女は、現在の俺の記憶領域に書き込まれたばかりである。
「写真通りだったな、あいつは」
この写真があるということは、偽造されていなければ、有紗の証言の証拠になるだろう。現像した日付が三十年後となっていることも、重要な証拠だ。
しかし、気掛かりなことがある。
有紗の横に座っているもう一人が一体誰なのだろうかということだ。
「有紗にそっくりだな。見間違えるほどに。姉妹……なのか?」
有紗と違うのは、もう一人の人物の髪型がショートボブで、全体的に大人びいているということだ。
セーター越しにも、胸部に双方の山が有るのが分かる。有紗よりは、頂上が高そうだ。
「って、何を考えてるんだ俺は……。となると、ショートの方が姉のほうか」
何故、姉妹と写真を撮っているのか謎だが。
「そういえば、紙が一枚入ってたな」
俺は、流石にこのまま立ったままだと、学校に遅刻する恐れが生じてきたために、歩きながら紙に書かれてることを読んでみた。
『拝啓。そろそろ本格的に寒さが……んー。なんか季節の言葉書くのだるいから早速本題に入るねー』
「なんじゃこりゃ……」
なんという手紙の書き方しているのだろうか。横暴さが滲み出ているではないか。書くなら頑張って書けと申したい。
『えっとね、まだ私はニューヨークから戻れそうにないわ。また仕事が入っちゃってね。本当にごめんさい! 二人ともに心配かけまくりだと思うわ。でも、あと何個かの仕事が終わったら日本へ帰れるから、もうちょっと待ってて。私の愛する有紗。そして愛しきあなた。……やー。書いてて恥ずかしいわねー。とりあえず、この写真を送るわ。私達《家族》の記念の写真をね。それじゃあねっ! LOVE MIKA』
やはり、下手くそな書き方である。
どうして日本語の挨拶で始まり、英語で終わるのだろうか。添削してしまいたい。
しかし、この手紙と写真のおかげで関係が少々はっきりした。
この女性は、有紗の姉ではなく、おそらく赤橋裕弥の妻であるということ。
そして。
有紗は俺の娘であるということだ。
要するに、元々ニューヨークに三人がいて、俺と有紗が先に日本へ来たと推測できる。
「俺は……本当に信じていいのか?」
今度こそ、本当なのだろうか。
忌々しい過去のような、あんなことにはならないだろうか。
俺の脳内に昔の記憶がフラッシュバックする。
川辺で、少年四人が一人の少年を囲っていて―――。
『……バーカっ! 嘘に決まってるだろ。騙されてやんの!』
一回り大きい一人の少年が痩せている少年を嘲け笑い、川に突き落とそうと―――。
「……もうあんな目に会うのは散々だ。どーせ、この手紙だって偽造で、有紗っていうやつは、騙して金でも取るつもりの野郎なんだよ。そもそも、どうやって過去に来たんだよ」
いくら未来が発達していようと過去に行けるようになっていたとしても。
そんなことは絶対にあり得ない。
なぜなら、現在の時間で未来で会うはずのやつが来ると、本来存在しなかった《時間》が存在することになって、恐らく未来が変わってしまうからだ。
彼女はうんたらかんたらと否定していたが、付け焼き刃の説明だろう。
「……もう考えるな。忘れろ」
俺は自分にそう言い聞かせ、手紙を鞄にしまって、駆け足で、学校へと向かった。
「赤橋……裕弥」
付近にいた白装束に身を隠している怪しい人物には微塵も気付かずに。
〇〇〇〇〇〇
今日も平和な一日だった。朝の出来事を除けば。
学校では基本的に誰かが俺につきまとうことはほとんどない。だから、平和なのである。
人付き合いが苦手ではない。体質のせいで、うまく折り合いがつかないから、あえて一人でいるのだ。
別にいじめの対象でもない。俺のことを知っている唯一無二の親友だっているし、それでも話しかけてくれるクラスメイトだっている。
誰とも触れあわなければ、厄介事に巻き込まれないので、俺からは話しかけたりしない訳だ。
後は、ホームルームが終われば帰宅できるのだが、今日は掃除当番の日だったらしい。
俺は、忘れていたので、ホームルーム終了後、そのまま帰宅しようとしたのだが、その行為を、俺の逃亡とみた、ある女子がいた。
「赤橋くん、どこにいくのかなぁ」
低いアルトボイス。
それは、身の危険を知らせる合図である。
察知して振り返った時はもう遅かった。
「あ…っ!? しまっ……」
「覚悟決めろー!」
刹那、間合いを詰められ、華奢な女子に、制服の首もとを握られ、女子は身体を捻って背中に俺を乗っけさせた。
「おっ、おいっ! 止めろォォォーっ!」
「とりゃぁぁぁーっ!」
教室の地面に叩きつけられた鈍くて重い音が響いた。
教室にいた生徒全員がこちらに振り向く。
数人が、悲痛な面影を見せ、すぐに自分の作業に戻っていった。
「いってぇー……。お前は何回言えば投げなくなるんだよ」
俺がそう謂うと、光が当たる度に、きらやかに輝くエメラルド色の長髪を持つ少女にこう謂われた。
「赤橋くんが掃除をサボらなくなったらねっ!」
ホウキを縦に持って二回床を叩く。
「はい! 今日はホウキね。本当はサボりのつけもやって欲しい所なんだけど、私は心が広いから許してあげようっ」
俺にホウキを差し出した少女―――七崎香里ことクラス委員長は、にんまりと笑った。
「今日はマジで忘れてたんだよ」
しぶしぶ、差し出されたホウキを受け取って、ゴミや埃を一カ所にまとめ、ちりとりに乗せて、委員長が持ってきたポリバケツのゴミ箱へ捨てた。
「はいはい、その言い訳は何回も聞いたよ」
「だから、考え事してたから純粋に忘れてただけだって。本当に!」
「どうせ、ろくでもないことでしょ。そんなことより、目先のやるべきことをやってから考えればいいじゃない」
委員長のホウキが、俺が取り残したゴミを指し示している。
「ダメだよ、しっかり掬って。私が観ていないとでも思ってるの?」
「…………はぁ」
もう溜め息は数えまい。
十月。丁度、一ヶ月前に、俺のクラスに転入生が来た。
その転校生は恐ろしくて、転校初日早々に、それまでクラス委員長だった男子を脅して───いや、あることをして地位を奪い取ってしまった。
背負い投げ。
あれは見事な一本だった。
素人が見ても美しさが分かるくらいだ。
綺麗な湾曲を空中に描いて、軌跡を残してしまうほど、一つの技に磨きがかかっている。
何しろ、転入生は柔道で黒帯まで会得してる経験者らしい。
暴力行使のために、武術を利用するとは、実に不誠実である。せめて、正当防衛や、人助けのためにやむを得ない実力行使に武術を使うのならば、話は別だ。
まさか、それが俺に振りかかるとは夢にも思わなかった。
俺は、適当に理由付けて、掃除をサボろうとしたとき、新委員長が仁王立ちで通せんぼうをして来たのだ。
実は、一か月前まで、それこそまともに話せるのが一人の親友だけだった。
当時、クラスメイトは、俺のことを遠ざけていたのだが、委員長は、なりふり構まずに、俺に声をかけてきた。
「赤橋くん。まさか脱け出そうとか考えてないよね?」
いつの間にか、委員長は俺を背に担いでいた。
容赦なく、一本背負い。
女子にもかかわらず、俺はその時激昂の波に乗って口論をした。
俺の変わり果てた様子に、クラスメイトは唖然としていたが、俺はその場のノリで、自分が準女性恐怖症かつ、準対人恐怖症であることを打ち明けたのだ。
それが幸だったのか、特にいじめられることなく、逆に受け入れてくれ、非常に優しく接してくれるようになった。
自分から話しかけるほどまだ順応していないが、俺は初めてクラスメイトに感謝の気持ちを伝え、以降俺は心狭い思いで、過ごすことがなくなったのである。
俺とクラスメイトの微妙な距離感を取り除くきっかけをつくれたのは、委員長こと七崎香里なので、多少荒いが、委員長にも感謝はしているつもりだ。
ただ、サボりようにもできなくなってしまったのだが。
「委員長。今日は凄く疲れてるんだ。ゴミを捨てたから、頼むから見逃してくれ」
残ったゴミをゴミ箱に投入し、俺を解放してくれるように懇願してみた。
「……赤橋くん。人の話聞いてた? せっかく人が甘ーくしてるのに、それを踏みにじっちゃうんだ?
きちんと、机運びまで手伝ってよ」
委員長は俺の顔を覗き込むように謂った。
俺は委員長から目を逸らして、何かを謂おうとしたが、口ごもってしまった。
「そういう訳じゃない。ただ……」
「ただ? ろくでもないことだったら即投げ!」
構えをとり、いつでも臨戦態勢になって、俺を睨んでいる。
謂ってもどうせ、投げられるだろうから、ここは腹を括るべきなのだろう。
「いや、俺の娘が未来からきてしまったらしくて……みたいな」
何度も述べた通り、完全に信用をしているということではないが、結局なんだかんだいって、学校にいる時は、ずっと有紗のこと考えていたのだ。騙されているのかもしれないのに。
自滅覚悟で委員長に向けた言葉は、意外にも委員長を動揺させていた。
「え、まさか……あの子っ」
「あの子?」
「なっ、何バカなこといってるの! そんなことより、早く帰りたいなら帰っていいよっ!」
「ん……? 珍しいな。じゃお言葉に甘えて」
掃除当番を全うしたので、クラスメイトには苦笑されながら、俺は教室を後にした。
運動部が放課後練習の準備をあたふたしながらしている中、俺は、ちらほらと帰宅する生徒達に交じって学校の正門を出た。
ゆっくりと歩く中、委員長が動揺をみせたことについて、疑問の種が蒔かれていた。
普通ならば、即投げと叫ばれて、投げ技に痛い思いを体感するところだ。
あの動揺が本物ならば、委員長は有紗という自称未来人を知っていることになる。嘘ならば、わざわざあの子と口走ることはない。
委員長は有紗と何かしらの繋がりがあるのだろうか。
いや、もういいだろう、その話は。
二度と有紗に関わることはないのだから。
彼女自身が間違えたと礼儀正しく訂正したではないか。
考えるだけ無駄だ。
一日中考えていたのが馬鹿らしい。
『ぱぱ?』
「…………」
なのに。
なのに、どうして有紗の表情が想起されるのだ。
忘却してしまったほうが、考えなくて済むのに、俺は───。
「……ぱぱ」
そう思った矢先に、聞き覚えのある声が耳に入った。
振り向かない選択肢もあったはずだ。
だが、俺は足を止め、後ろに振り返ったのだ。
振り返ったそこには、サイドテールの髪が象徴的な少女―――有紗の姿があった。
「……有紗」
その掛け声と共に、風が一瞬吹きぬけた。
そして、その風が俺の心の枷を少し緩めたような気がした。
「どうしてここに……?」
「だって、私はぱぱと同じ高校生だもん。しかも、同じ高校。未来と場所が変わっていなければ、同名の高校くらい分かるよ」
「じゃ、お前は俺を待っていたのか?」
「うん。待ってた」
「あれだけ否定されたんだぞ、俺に。それに、お前は、丁寧な決別の言葉を俺に謂っただろ」
「……正直、本当に違うのかなって思ったよ。でも、私がわざと落とした手紙を捨てなかったでしょ」
「……っ! 何でそのことを……」
「何でって、今ぱぱのズボンの後ろポケットに入ってるから」
「あっ……」
どうやら、教室から出る際、鞄から取り出した財布と一緒にズボンの後ろポケットに入れていたようだ。便箋のカラフルな模様の一部が外に飛び出している。
「だから、私は確信したの。私のぱぱは、貴方だって」
「…………っ」
俺は、期待してしまっていたのだ。有紗との再会を。
否定すればするほど、再会という言葉が重くのし掛かってきた。
有り得ないはずの邂逅を、俺は胸中で、容認していたのだ。
それは、つまり。
有紗を信じていたということになる。
有紗を信じていたと分かりたくなかったから、俺は強く拒絶してしまったのかもしれない。
確かに、記憶のない記憶を参照しようと試みたら、頭に激痛が走った。
それを理由に、俺は有紗を信じる思いを無理やり消去しようと無意識にしていたのである。
人を信じないと心に決めた俺が、再び人を信じてしまうとは。
俺は、ごくわずかであるが、人を信頼をする心を取り戻したのかもしれない。
有紗との出会いによって。
「……ぱ……ぱぁ」
有紗は泣く寸前の状態だった。
今にもダムが決壊を迎えてしまいそうだ。
「私を……信じてくれたんだね」
「まだ完全じゃない。ただ、ちょっと……。そうだな、十パーセントくらい信用してるだけだ」
さっきまでの自分が嘘の存在だったような、手のひら返しである。
「ううん、いいのっ! ぱぱが私を少しでも娘だって信じてくれただけで嬉しいよっ」
有紗は涙をこぼしながら、満面の笑みを浮かべていた。余程嬉しかったのだろう。
「そうだな……」
不思議と、有紗を見つめていると、心臓の鼓動が加速する。
娘とはいえ、有紗とは今同じ高校生だ。
一人の可憐な美少女には間違いない訳で───。
「───って、俺は一体何を考えてるんだ!」
確実な証拠がないが、有紗は俺の娘(仮)なのである。
なのに、思わず顔が赤くなってしまう。
「あっ! ぱぱ顔あかーいっ! もしかして、私にときめいちゃった?」
悪戯っ子のように、にやにやとした表情を見せている。
「なっ、バカなこというなよ……」
「もうっ。だらしないんだからっ」
頭の捻子が欠損しているのか、やけにアプローチを仕掛けてくる。
「……おいっ、こんな所で!」
どうして、デレデレとした態度でいるのだろうか。
俺達がいる場所は、校門の前だ。
殺気を感じて、おそるおそる見渡すと、生徒達が俺達を目を凝らして見ていた。
これで俺の印象が下がったな。ただでさえ、事情を知らない人は、俺を毛嫌いしているようなのだ。
俺が高校に入ってから、一年も経たぬうちに、俺が関わりを根絶していることを、噂で伝播していたらしい。誰が謂い始めたのか、定かではない。
とにかく、馴れ合いをしないことで有名な俺が、女の子と一緒にいることがあまりにも驚愕なのか、生徒達は、豆鉄砲をくらったかのように目を丸くしている。
しかし、今更気にしても、変わらないだろう。
それよりも、有紗に訊くことが沢山ある。
「なぁ有紗。そろそろ今の状況を教えてくれ。まずは……」
と、俺が問いかけた時だった。
どういう風の吹き回しか、一瞬にして有紗の態度が一変した。
「何をいってるの? そんなこと勝手に調べればいいじゃない。ま、まぁ、私が話さない限り何も分からないと思うけどねっ」
有紗はそう謂い、勝ち誇るかのように、両手を腰に当てた。
「……は?」
「どーしてもっていうなら、ぱぱには教えて上げないこともないんだけどねっ!」
今度は左目を閉じて、そっぽを向いてしまった。
「………」
全力で傲慢さを誇示しているつもりなのだろうか。
眉は普段使わない筋肉を使ってか、小さく痙攣している。
しかし、重要なことは有紗の様子ではない。
「うわぁ……赤橋の野郎、彼女にぱぱって呼ばせてるのかよ」
「っていうか。赤橋、彼女なんているわけぇー?」
「まさかあいつ……女の子を脅して強要させてるんじゃ?」
「え? まじぃー? やばくない? 警察呼んでもらおうよ」
いくら人とのコミュニケーションを避けているといっても、心に痛みは生じてしまう。
まさしく、濡れ衣である。そして、デジャヴである。
そもそも有紗が、急に人目が集まるおかしな行動をするから───。
「……お前、まさか」
「え、ちょ、ちょっと!? 何するのっ、離して!」
俺は有紗の手を取って、人気のない河川敷の道へ引っ張っていった。
生徒達が電話をどこかへかけているのを無視して。
○○○○○○
西方の彼方には、一日の役目を終えようとする太陽が、あかね色の夕焼けを映えさせていた。
有紗を半ば強引に連れ出した俺は、学校から、下級の川の河川敷へ向かい、年季のある橋の下へと到着していた。
ここは、日が暮れる頃から、ほとんど人が来なくなることを検証済みだ。
「よし。ここなら誰もいな……」
「ぱぱぁっ!」
「おっ、おい……」
有紗は人工的な性格を捨て去り、躊躇いなく抱きついてきた。
「さっきはごめんなさい! 甘えてるって思われたくなくて……」
やはり、そういうことだった。
だからといって、俺を犯罪者に仕立て上げるのは違うだろう。よりによって、二回も。
「……よしよし」
「へっ? ひゃあ!?」
「あっ……。わりぃ……」
俺は、無意識の間に、有紗の頭を撫でていた。
子を愛でる親みたいに撫でてしまった。いや、確かにそうであるが。
それにしても、頭を撫でるという行為は、やる方も温かな気持ちになるものだ。癖になるまえに、なるべく自重しなければ。
「……っ」
冷気をまとう凪を感じる度に、有紗は体を強張らしている。
「寒いのか?」
夕方になり、気温は低くなっており、吐く息が、白い煙のようになっている。
古びた架橋の下へ入っていたので、余計に寒気がまとわりつく。
川の流れは穏やかだったが、頭上では、トラックが何台も走ったのが分かる重い音や、時々橋が軋む音などが飛び交っていた。
「……大丈夫だよっ。だってぱぱが、ぎゅってしてくれてるもんっ」
「なっ……」
有紗はそう呟いたあと、俺の体に顔を埋めてきた。
「あったかぁーい……。ぱぱの心臓の鼓動が聞こえるよ。どくんどくんって」
有紗は天使の囁きのような甘美なる響きで呟いた。
流石に、いくら父親だとしても、俺は高校生であって、一人の雄なのだ。理性がどうにかなってもおかしくない。飛んではいけない禁断の道へ。
「し、しかし、よくも俺を父親だと決定しているな。ちゃんとした根拠がないから、まだ分からないだろ?」
「分かるよ。匂いが一緒だもん。くんくん」
「ちょっ……!」
犬の真似をしながら、俺の首もとに有紗の鼻が近づく。
「やっぱり、あの匂いだよ。男の臭い!」
「あのー、字が違わない?」
さり気なく、おっさんの臭いといわれたようなものだ。
こうして、世の中のお父さんは、娘が離れていって、やるせなさが残存するのだろう。
「なんて、冗談だよ。顔も声もそっくりだし、身長だって差異がないんだよ」
「といっても、やはり根拠が無ければな……」
「……根拠がなきゃ駄目?」
有紗は俺から少し離れ、赤みを帯びた顔で尋ねた。
顔を紅潮させる意味が理解できない。
「それがあるかないかによって、信頼度が変わるかもな」
「……分かったっ」
有紗は意を決したように頷いた。
一瞬の静寂の後だった。
彼女は、俺の肩を掴みながら、背伸びをしてきた。
そして、有紗は。
「ん……っ」
俺の額に、柔らかい唇を当てた。
「……っ!?」
困惑する俺を見ながら、有紗は照れくさそうに告げた。
「これが、根拠……だよ」
果たして、これが、何の根拠だというのだろうか。