「タリーア断片」thalia fragment (ヒュペーリオン) ヘルダーリン原作 思想小説試論
「ヒュペーリオン」hyperionは
ヘルダーリンの代表作ともいえる
教養小説(書簡体小説)である。
正確には「ヒュペーリオン、またはギリシャの隠者」という題名である。
hyperin oder der eremit in griechenland
決定稿にいたるまでにこの、「タリーア断片」がある。
たしかにこれは決定稿に至る前の草稿であり、未完成度は否めまい。
しかしというか、それがためにより一層彼の激越な思想が、苦悩が、より
生の声でつづられており、私は決定稿である
完成された「ヒュペーリオン」より
タリーア断片thalia fragment のほうが好きである。
このタリーア断片は、シラーの編集する雑誌「ノイエ・タリーア」に
1794年11月に『断片ヒュペーリオン」という題名で掲載されたものである。
そもそも「ヒュペーリオン」はゲーテの「ウイルヘルムマイステル」と、同系列の
ヘルダーリンが書いた教養小説であることに間違いはあるまい。
ただ今の言葉でいえば
ヒュペーリオンは、一種の思想小説・哲学小説であろう。
ヒュペーリオンという潔癖な青年が卑俗な現実の中で苦悩しながらも自己形成をはかるという筋立てである。
ただこれは外面の物語はどうでもよく
ヘルダーリンの思索と瞑想と生の深淵への洞察が主軸である。
その意味ではニーチェの「ツアラツストラ』の先駆をなす作品であるという人もいるくらいだ。
タリーア断片の出だしはこうだ。
『人間は一切を支配することを望むし、また一切を包含したいと思うものである。
イグナチウスロヨラの墓碑銘にはこうある。
『最大のものにも圧倒されず、また、最小のものの中にも喜びを見出せる、
それは神聖な事である」と。
この箴言は人間というものの、すべてを渇望し手に入れたいという危険さと同時に、
また人間の到達できるもっとも美しい状態をも告げているだろう。
この箴言を人間がどう生かすべきかは各人の自由意思に任されている。』
さてヒュペーリオンの一応は物語の筋をたどっておこうか?
主人公ヒュペーリオンはギリシャの青年、深く生の意義に思いを寄せる青年だ、
そして純粋ゆえにまた絶望も深いという青年だ。
それは時としてあまりにも『全き友情』を求めすぎて
せっかく出来たアラバンダという友人を失いかける原因にすらなってしまう程だ。
ヒュペーリオンは常に生の意義を求め、全き友情をまさぐり
ディオティーマに対してはまるで女神のごとき愛情を期待する、
彼は純粋で決して卑俗な世間と妥協できない、
だから常に傷つき、絶望するしかない、
ギリシャ独立の夢に燃えて義勇軍に参加するが
戦場の現実は彼を絶望させるだけだった。
そして愛するディオティーマにも先立たれて
すべてに絶望した彼はギリシャに帰り
自然と帰一した隠者の生活をするというところで終わっている。
ヒュペーリオンはその最後にこう言う。
『私は人間界の夢は見つくしたのだ。そして今御身よ、自然だけが生きていると言おう。
人間たちは腐った果実のように朽ち果てるに任せよう。そうすれば彼らは御身の根元に
戻っていくだろうから。
死とはなんだろう?哀しみとは何だろう?
そんなものは人間の幻に過ぎないのだ。
一切は喜びから生まれ、平和の裡に終焉するのではないか?
別れ別れになったものは再び巡り合うのだ。
そして争いとは愛し合うもの同士のささいな不和に過ぎないのだ。
血管は心臓で別れてまた心臓に戻る。
そしてすべては、一なる、永遠に灼熱している生命なのだ、』
これが決定稿の「ヒュペーリオン」の最終節である。
さて「タリーア断片」では大筋は決定稿と同一であるが
これらの思想がより純粋で激越に展開されると理解したらよいだろうか。
タリーア断片の最終節はこうなっている。
「私は予感し続けている、見出されないままに。
私は星に尋ねる。星たちは黙っている。
私は昼に、夜に尋ねる。しかし彼らは何も答えない。
私自身に尋ねる。
するとそこからは神秘な言葉、意味のわからぬ夢が響くのみなのだった。
(中略)
この頃私は一人の男の子が道端に横たわっているのを見た。
その子の母親はその子が木陰でやすらえるようにと、
暑い日差しがささないようにと
一枚のベールをその子にかけた
しかしその子はその覆いをはねのけて
太陽の恵みを見ようと目を凝らしたのだ。
しかしやがてその子は太陽の光で目が痛くなり
大声で泣きながら地面に顔を伏せた。
かわいそうな子、、、。
だが私だってそうなのではないのか?
探究心を捨てようと一時は思ったのだから、
しかし私にはそれはできなかった、
また、するべきでもない。
それは明かされなければならないのだ。
私に生を、あるいは、死を与える大いなる神秘は。」
より激越な表現で締めくくっていはしまいか?
なお、タリーア断片ではディオティーマは登場せず、代わりに、メリーテという少女として
登場している。
ヒュペーリオンは
ヘルダーリン自身の姿を移し替えたといわれるように
ヘルダーリン自身も世間とななじめず、
純粋で傷つきやすく純粋な愛を常に求めていた
俗で無教養なドイツの現状にも絶望し
彼は自らを『乏しき時代」に生きる詩人という位置づけを
するしか無かったのだった。
時代への絶望は、勢い彼が理想郷とする古代ギリシャへの熱狂的な賛美へと転化していったのだ。
ヘルダーリンの純粋さが長く世間で安住できるわけもなく
やがて彼は狂気の淵に沈みこむしかなかった。
狂気の中ではもはやヘルダーリンではなくなり、
自らをスカルダネリと称し
たまにかつての令名をしたって尋ねてくる人あれば
乞われれば詩を書いてその人に手渡すこともあったという。
そんな残されたいくつかの、いわゆる「狂気の詩編」には
実は何の狂悩もなくまた何という静寂さに満たされているのだろうか。
まるで春の日のような平静さしかそこにはない。
彼が望んだ自然の神々との合一や、ギリシャの理想境は
このような発狂ということでしか現実界においては
実現されえなかったのであろう。
ヘルダーリンは長く狂気の晩年を送り
やがて亡くなっている、
そんな狂気の詩編には
たとえばこんな詩がある
『深淵から春が生に帰ってくると
人間は驚きの目を見張る。
そして新しい言葉は霊性からほとばしろうともがく。
喜びは立ち戻り
歌と歌声は晴着をまとう。
生は時間の調和から生まれ
自然と精神は常に感受に伴う。
完全は精神において「一者」であり、
それゆえ、多様性は生まれ、自然から最多が生まれる」
一七五八年5月二四日
敬伯 スカルダネリ