アドルフと女優
アヴァリの一族に登場するアドルフの昔話です。
この話はR15です。
ちなみに本編は……ごにょごにょ
か、改稿中です……。すいません。
夏は暑いし、虫が増えるから嫌いだった。うっかりイナゴを踏んだ日には、木の枝を踏んだような乾燥した音と、柔らかい肉が潰れる感触に足裏が嫌悪で嘆いて、靴ごと捨てたくなるほどだ。書店の書架の空いたスペースでも、カラカラに乾燥して死んだ虫なんかを見かけて、ディオの様に潔癖症でなくても、店員に言いつけて掃除をして欲しいと思ってしまう。
だから、誤って踏んでしまわないように慎重に歩く。地面を見て虫をよけながら、たまにゴミと虫を間違えて避けたと思ったら虫を踏む。早とちりしてうっかり勘違いをして間違いを犯してしまうのは、アドルフの昔からの欠点だった。
慎重に慎重に、特に一人の時は顔を上げないように歩く。外で顔を上げないように歩くのは、既に癖になっていた。顔のせいかは知らない、理由はわからない。だけどなるべく人の目に触れないようにしないと、どう言う訳か面倒なことになるから。
やっと遊ぶという事にも慣れてきて、その日は一人でギャンブルをしに出かけて、その帰り道にオッサンにしつこく声をかけられている女性を見つけた。
貴族然とした風貌だったが、強気な態度で寄せ付けない女性に興味が湧いた。どう言う訳かアドルフは子供の頃から女難の相が全開で、女に関わるとロクなことにならない。だから普段なら女が困っていようが完全無視を決め込むのだが、何となく興味を惹かれて、ただの気まぐれだったが助けてやることにした。オッサンの肩を強く掴んで女性から引き離して、「俺のツレになんか用か」と凄んでみせると、オッサンは即座に退却した。
女性は少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を向けてくれた。見たところ女性は金持ちのご婦人と言った感じで、アドルフよりも一回りほど年上のようで、30代後半くらいのようだ。
「どなたか存じませんが、助かりました。ありがとう」
「いーえ。迎えでも呼んで、さっさと帰った方がいいですよ。女性の一人歩きは危険ですよ」
「じゃぁ、あなたが送って下さる?」
初対面で図々しい女だ、面倒くせぇと思ったが、金持ちなら駄賃くらいくれそうだ、と考え直して送ってやることにした。結局面倒くさいことになってしまったので、やはり助けて損をしたと後悔した。
しばらく歩くと、女性は疲れたからどこかで休みたいと言い出して、仕方なしにその通りの裏にあるバーに入ることにした。
―――――あー、面倒くせぇ。これだから女はイヤなんだよ。体力なくてすぐグダグダ言い出す。
心の中で愚痴りつつ、グラスの白ワインに優雅に口を付ける女性の身の上が、少しだけ気になった。年齢からして結婚はしているだろう。金持ちなら従者がいてもいいはずだし、旦那は夫人を置いて何をしているんだか。気になって、尋ねてみた。
女性は元々ヴァチカンの人間ではなく、イタリアの政治家の愛人だと言う。仕事の忙しい政治家が、家にこもってばかりいると息が詰まるから羽を伸ばして来い、とヴァチカンに別荘があったため、旅行させたのだと言う。
「でも、付き人位いるでしょう?」
「いないわ。私自身はお金持ちなわけではないもの」
「付き人もなしで、夜に一人歩きするものじゃありませんよ」
「ええ、そうね。だけど、私あまり一人で外に出たことがなかったから、色々見て回りたくなったのよ」
あまり一人で外に出たことがない、婦人なら尚更夜に一人で出るなど珍しかった。しかし、疑問に思う。
「それなら、旦那様もご一緒すればよかったのに」
「あの人は、忙しいから。それに、私は愛人だから」
少し淋しげに笑ってそう言った彼女の表情に、少しだけ心が動いた。
その日は名前も連絡先も聞かずに、女性を屋敷に送り届けてそのまま帰った。
「私、しばらくヴァチカンにいるの。またどこかで出会えたら、お話のお相手をしてね」
女性はそう言っていたが、狭いヴァチカンと言えどもアドルフは屋敷と教皇庁を往復したり、仕事以外では外出することはほとんどなかったので、会う事はなかった。
しばらく経って、レオ達と遊びに行った帰りに道端に座り込む人影を見つけた。駆け寄って顔を見ると、例の女性だった。
「あぁ、あなた・・・ごめんなさい、気分が悪くなってしまって」
「しっかりして、立てますか?」
「えぇ、もう少し落ち着いたら・・・・・あぁ、もう、平気よ」
アドルフの手を借りて立ち上がった女性だったが、まだ顔色は悪そうにしている。さすがに心配になったので、レオ達を帰して、女性を別荘に送った。
寝室まで女性を連れて行くと、フラフラとベッドに潜り込む。
「あぁ、あなたに助けられるのは2度目ね。ありがとう」
「一人で出歩くのはやめた方がいいと言った筈ですよ」
「ええ、そうね。だけど、あなたに会えてよかったわ」
水を飲ませてやると幾分か落ち着いたようで、少し顔色もよくなった。
「ねぇ、あなた、名前は?」
「アドルフ。アドルフ・リスト」
「あぁ、あなたドイツ人?」
「ドイツ系です」
「あらそうなの? 奇遇ね、私もなの。私はカテリーナ・クヴァントよ」
名前を聞いて、息が止まった。カテリーナはアドルフの母親と同じ名前だった。母親と同じ名前の年上の女性。それに矢も楯もたまらなくなって、立ち上がった。
「すいません、帰ります」
「あぁ、引き留めてしまってごめんなさいね。私、話し相手がいなくて淋しいのよ。よかったら、また家に遊びに来てもらえない? そうしたら夜に出歩かなくて済むわ」
普通なら、即答で「断る」と言うところだったが、この時のアドルフは断りきれずに、「気が向いたら」とだけ答えて、それにカテリーナは「待っているわね」と微笑んで、複雑な気分のまま別荘を後にした。
―――――なーんで来るかな、俺。
それから2日後、アドルフはカテリーナの別荘の前にいた。呼子を引くとカテリーナが出てきて、2日前よりは体調もいいようで顔色も良かった。
「お加減はもう悪くはないですか?」
「ええ、大丈夫よ。さぁ、入って頂戴」
アポイントもなしに突然訪れたと言うのに、カテリーナは本当に独りで淋しいのか、喜んでアドルフを招き入れてくれた。
そこそこ広い屋敷は、一つの家族がふらりと立ち寄るのにちょうどいい、といった具合の設えで、最低限の家具と家電しかなく、それが一層広さを感じさせる。ここに、今日もカテリーナは独り。
「私、いつも人が近くにいたから独りは慣れないの。仕事の時もたくさん人がいるもの」
意外だった。身なりも物腰も上品だし、愛人だと聞いていたから、てっきりその政治家がパトロンで、仕事をしていないのだと思っていた。
「仕事をなさってるんですか? 何を?」
「うふふ、もう引退してしまったけど、私、こうみえて舞台女優なのよ」
「へぇ、女優ですか。道理で」
「なにが、道理で?」
「あなた、綺麗な人だから」
「あら、お上手ね。でも私、その口説き文句は聞き飽きたわ」
「ハハハ、そうでしょうね」
―――――なるほど、女優か。それなら政治家の愛人てのも納得だ。けど、引退するにはまだ早くねーか?
「あなた、引退するにはまだお若いでしょう。舞台女優と言っても、人によっては60位までできるのでは?」
「辞める気は勿論なかったわよ。でも色々あって」
「色々って?」
「色々よ」
これ以上は聞かれても話す気はない、カテリーナの笑顔にはそう言う意思が見えて、聞くのは諦めた。大方その政治家のスキャンダルか、芸能界のゴタゴタだろうと結論付けた。
「アドルフ」
「はい?」
「あなた、一度も私を名前で呼んでくれないわね。淋しいじゃない」
名前を呼ばないよう努めていた。呼んだら、深入りしたくなってしまいそうで。なんとなく、それは危険だと心のどこかで声がした。
「どうして?」
「秘密です」
「教えられないの?」
「ええ」
「それはどうして?」
しつこく質問を重ねるカテリーナがひどく滑稽に思えた。
「ハハハ、あなた、俺の質問には答えないのに」
「あら、本当ね。ごめんなさい」
少しいたずらっぽく微笑むカテリーナを見て、ふと、本当に綺麗な人だな、と思った。
―――――勿体ねーな、愛人なんて。言い寄る男なんか今まで山程いただろうに。それでもやめねーってことは、そういうことなんだろうが。なんかこの人幸薄そうだし、幸せになってもらいたいような……ってオイ。どうだっていいだろ、俺には関係ねーよ。
自分らしからぬ考察をしていることに気付いてすぐに打ち消した。
この日はおしゃべりだけして、帰った。それから時折カテリーナの元を訪れるようになった。カテリーナはアドルフがやって来るのを心待にしているようで、呼子を鳴らすとすぐに出てくる。
―――――もしかして、俺が来んの待ってんのか。
そう思って、少しだけ喜んでいる自分に気付いた。
カテリーナとおしゃべりするのは楽しかった。小さい頃からヴァチカンで育ったアドルフは、舞台だとか世俗的なことに触れたことは全く無かったので、彼女の口から聞かされる事はどれも新鮮だったし、単純に、楽しかった。
それに、彼女といると妙に安心を覚えた。彼女の笑顔を見て話しをしている時は、色んなことを忘れられて、心が安らいでいる気がした。彼女といる時は穏やかにゆるりと時が流れる感覚がして、それでいて時が経つのは早く感じた。
ある日アドルフが訪れた後に天気が崩れてしまった。空は大泣きで、傘を持ってこなかったことを後悔しながら窓を見つめていると、カテリーナが「泊まっていけば?」と言ってくれた。
「ありがとうございます。でも俺、明日は仕事があるから帰らなきゃいけないんですよ」
「あら、そうなの。それならうちから行けばいいわよ」
「いえ、そう言うわけには」
「そう、残念ね。そういえば、アドルフは仕事何をしているの?」
「笑いません?」
「わからないわ」
てっきり「笑わないわ」と帰ってくると思っていたのに、想定外の答えに少し驚いて、苦笑した。
「あなた、正直な人ですね」
「あなたと違ってね」
その言葉にまた苦笑させられたものの、仕事の内容を言うと、案の定笑われてしまった。それに少し気を悪くしたが、カテリーナは全く気にもしていないようだ。
「あはは、可笑しい。似合わないわ」
「……余計なお世話です」
「人は見かけによらないわね」
「なんだと思ってました?」
「ジャズピアニストかなって。弾きながら歌うのよ」
思わず吹き出してしまった。
「ハハハ、どこからそんな発想が? そっちのほうが似合いませんよ」
「そんなことないわ。あなたの指、長くて綺麗だし、綺麗な声をしているわ」
「そうですか? じゃあ今の職をクビになったら考えます」
「それがいいわ。そうして」
突然、窓の外が昼のように明るくなって、激しく雷鳴が轟いた。驚いたカテリーナは咄嗟にアドルフにしがみつく。
「雷、苦手なんですか?」
「ええ、どうしても慣れなくて……ビックリするし、怖いわ」
怯えるカテリーナを見て、可愛い女性だと思った。再び轟いた雷鳴と共に突然、カテリーナが“女”に見えた。
雷鳴が激しく轟き青白く照らされた部屋で、アドルフは自分の行動に激しく動揺し、後悔した。無意識のうちに、しがみつくカテリーナの顔を向かせて、口付けをしてしまった。謝罪してすぐさま屋敷を出て行こうと立ち上がると、「待って」と、カテリーナが服の裾を掴んだ。
「すいません、俺、どうかして―――」
「私、嫌だなんて言った覚えはないわ」
アドルフの言葉尻を断ったカテリーナの言葉に、心臓が跳ねた。動揺するアドルフの手を引いて、引かれるがままに座りなおしたアドルフに、続けてカテリーナは言った。
「言っていなかったけど、私、3日後にはここを発つの。最後に、アドルフとの思い出が、欲しいわ」
そう言いながらするりと絡んできた白く細い指に、慌てて手を引っ込めた。
「何を言うんです、あなた―――」
誰かの愛人なのに。そう言おうとしたアドルフの口を「言わないで」と人差し指で静止して、もう一度指を絡める。
「アドルフ、あなたはどうして私に会いに来てくれるの?」
「……わかりません」
「ウソを言わないで」
「ウソじゃありません。ただ、あなたが淋しそうだから」
「それだけ?」
「ええ」
「私、アドルフが来ない日はとても淋しいわ。だけど、もう会えなくなるのよ。あなたは、淋しくはないの?」
カテリーナの問いにどう返事をすればいいかわからず頭を悩ませていると、徐々にカテリーナは顔を歪め、激しく咳込みはじめた。
驚いて膝をついて覗き込むと、顔色も悪くヒューヒューと音を立てる様な苦しげな呼吸。ただ事ではないと思い、カテリーナを抱えて寝室のベッドに横たわらせた。
「ゲホッ、ハァ、ハァ、ごめんなさいね。大したことじゃないわ」
「でも、顔色が良くありませんよ。無理はしないでください」
「ハァ、あなた、優しいわね。平気よ。多分ただの風邪ね。近頃暑かったものだから、薄着をし過ぎたのね」
「今日はもう、休んでください。また、伺いますから」
「本当に? 私、3日後の昼にはここを発つのよ。それまでにまた会える?」
「ええ、2日後にまた伺います」
「ウソをついたら、風邪をうつすわよ」
「ウソじゃありませんよ」
何とか信じた様子のカテリーナは安心したように微笑んで、少しの間看病をして屋敷を出ると、雷は遠くに聞こえて、雨はもう通り過ぎていた。
2日後、約束通りカテリーナの元を訪れた。仕事が立て込んで少し遅くなってしまったので、迷惑だろうからやめようかとも考えたが、彼女の様子を思い出すと、約束を破る気にはなれなかった。何よりも、彼女に会えるのはこれが最後なのだから。
―――――や、でも別に今生の別れってわけじゃねーし、その内会うかもしんねぇし。
そう思ったが、すぐに考え直した。彼女はただの元女優ではない。政治家の愛人なのだ。彼女に会えるのは本当にこれで最後。彼女がここを出てまたローマで出会っても、友人としてのカテリーナではなく、元女優で政治家の愛人としてのカテリーナとして出会うのだから。
アドルフの姿を認めて笑顔で駆け寄ってきたカテリーナに少し心配になったが、咳も出ていないようで顔色もいい。風邪はもう治ったようだった。
「具合はどうですか?」
「平気よ。もう治ったみたいだわ。心配かけてしまってごめんなさいね」
「いいえ、大事ないなら、よかった」
屋敷に入って少し話していると、カテリーナが倒れたためにうやむやになってしまった事を思い出して、急に羞恥と後悔に駆られた。
―――――うおぉ、なんで思い出すんだ、俺。忘れろ! アレはなんかこう、悪魔の囁き的な! あ、もしかしたら夢かも? 夏至も近くて暑いし、暑い日は寝苦しくて大概悪夢とか妙な夢を見るからな。カテリーナさん普通だし、夢かも? そうかも!
無理やりそう思い込ませていると、カテリーナは再び咳込みだした。寝室に連れて行ってほしいというカテリーナを抱えて寝室のベッドに横たえると、彼女の体の下から手を抜こうとした瞬間、カテリーナはニヤリと笑った。
「ひっかかった」
「え? ―――っ!」
アドルフの首に腕を回して、キスされた。アドルフの方からした時のような触れるだけのキスとは違って、アドルフの情動を掻き立てるのに十分な官能を持っていた。
「なにをするんです」
なんとか理性を保って彼女から離れようとしたが、首に回された腕はグイッと引かれて、前かがみになっていたアドルフはいとも容易くカテリーナにのしかかる形になった。
「最後なのよ、こうして会えるの。最後に、思い出を頂戴?」
舞台女優だったためか引き締まって、年齢の割には張りのある、しかし十分に熟れた肢体、美しい顔、潤んだ瞳、甘い声、全てがアドルフを誘惑する。彼女が望んだから、そう言い聞かせて、今度はアドルフからキスをした。
「あぁ、アドルフは神父だから、こういうことをしてはいけないのかしら」
先程まで誘われていたのに急に引かれてしまうと、アドルフから攻め入りたくなる。
「いいんですよ。俺は、特別なので」
「あ……ちょっと。なんだか妙に慣れてるわね。さては初めてじゃないでしょ」
「まぁ……」
「本当に神父なの?」
「破戒僧とか言われてますけどね」
自分の指先ひとつで過敏に反応するカテリーナを見て、その淫靡な姿に猛烈に欲情した。初めて、女性を可愛いと思った。アドルフはもう情動を抑える事など不可能で、誘われるままに身を沈めた。
「あなた、すごく熱い」
「お願い、名前で、呼んで」
「カテリーナさんの中、気持ちいい」
「嬉しい。私もよ」
カテリーナがいいと言うので、カテリーナの中で果てた。
「後悔してる?」
「少し。あなたと、こうなりたいと思ってたわけではなかったから」
「私は後悔していないし、素敵な思い出が出来て嬉しいわ。だから、あなたも悔やむことないわ」
「……そうですね」
彼女とはそれが一度きりで、最初で最後だった。お別れだからと、最後にたくさん話して、たくさんキスを交わして、彼女と別れた。
カテリーナがヴァチカンを去って、しばらくアドルフはカテリーナの事を考えた。
今頃どうしているだろう。まだ体が弱いのだろうか。今はもう一人で淋しがってはいないのだろうか。
彼女の事を考えている間は、様々な苦悩から解放された。しかし、それを仕事に台無しにされる。それが繰り返された。
カテリーナと別れてから数か月後、夕刊に目を通していると、3ページ目を開いた時に思わず目を見開いた。大きな記事ではなかったが、すぐに目に飛び込んできたカテリーナの写真と、タイトル。
「アプローディ幹事長の愛人と噂される元舞台女優アンジェラ、肺梗塞で死亡」
その記事には、こう書かれていた。カテリーナはアプローディの勧めで、知人の医師にかかっていたそうだ。その医師がヴァチカンに住んでいて、アプローディの所有するヴァチカンの別荘で療養することを勧められたらしい。その段階で、彼女の症状は既に末期だった。
そして、カテリーナがヴァチカンを発ちローマに戻った後再び発作を起こし、本人の希望で故郷のトリノの病院に入院し、入院先で重度の発作を起こし、死亡した。
記事を読んで、新聞を握りつぶして床に叩きつけ、頭を抱えた。
―――――俺のせいだ。俺が彼女に無理をさせたから、死んでしまった。
人を殺すことも、人の死を見ることも、アドルフにとっては既に日常茶飯事で、少しも心を動かされないはずの出来事だった。それでも自分を責めずにはいられなかった。彼女の病状を悪化させてしまったのは自分のせいだ、自分と出会わなければもう少し生きられたかもしれないのに、そう思うと腹立たしく、悔しくて仕方がなかった。
―――――こんな事になるなら、もっと名前を呼んであげればよかった。
どれほど後悔してもあの夏の日はとうに過ぎ、木枯らしが窓を打ち鳴らしていた。
彼女の死後少しの間、街中には彼女の写真や映像が溢れた。舞台上で演技をする彼女の映像を電器屋のテレビの中に見つけて、思わず足を止めた。一緒にいたクリストフが、ポンと肩を叩いて横に並んだ。
「この前死んだって言う女優だな。お前、この女優好きだったのか?」
「別に。ただ、綺麗な人なのに、死んじまったなんて勿体ねぇって思っただけだ」
「……そうか」
「んなことより、さっさとナンパしよーぜ。女どもが俺らを待ってるからな」
「……あぁ」
カテリーナが死んでからと言うもの、カテリーナも含め色々なことに板挟みになっていたせいで、アドルフは荒れに荒れていた。
そんなある日、彼女の死から1年以上経過した頃、手紙を渡された。
「なんかアディ宛だけど、妙な手紙」
言われて見て見ると、そこには住所もまともに書いていない。
“ヴァチカン教皇庁 アドルフ・リスト様”
これだけだった。
「よくこれで届いたものですね」
「教皇庁に問い合わせたのかな? わかんないけど、住所とかもよく知らない人から、何の手紙だろうね。差出人書いてないし」
裏を見ると、差出人の名前はなかった。中身は明らかに紙しか入っていないし、爆弾などの類でもなさそうだったので、礼を言って部屋に戻り封を切った。
親愛なるアドルフ
この手紙が届いているという事は、きっと私はもうこの世にはいないのね。私ね、本当はずっと肺結核を患っていたの。女優をやめたのも、そのせい。一人になったのも、そのせい。あの人も会ってくれなくなって、私はとっても淋しかったわ。
だけど、あなたと出会えて本当に良かった。短い間だったけど、素敵な思い出ができたわ。本当にありがとう。
私はあなたと出会って、あなたと過ごす日々がとても楽しかった。毎日毎日あなたが来るのを待って、バカみたいだけど、まるで少女の頃に帰ったみたいな気分で。でも、あなたに会えるのが何よりも楽しみだったわ。
あなたに出会うまで、私はもう死ぬのを待つばかりだと思って、自棄になって色々なことを諦めていたの。生きることも自分のことでさえもどうでもよくなって、どうにでもなってしまえばいいと思っていた。
だけど、あなたと出会って、私の生活は彩りを取り戻したような気がして、息を吹き返したのよ。いつの間にか、あなたが私の心の支えになっていたわ。アドルフ、あなたは私にとっては本物の天使だったのよ。
私は死んでしまうけど、アドルフは私の魂を天国に導いてくれるわ。私は幸せだったもの。あなたと過ごしたあの短い日々を、夏の夜を、宝物のように愛しく思うわ。
私、幸せだったのよ。とっても楽しかったわ。あなたと出会って、色々なことを話して、聞いて、何度も助けてもらったし、名前も呼んでもらえた。私はあの時泣きたいくらい嬉しかったわ。だから、私が死んだと思って悲しまないで頂戴ね。あなたは何も悪くないわ。あなたと出会えて私は幸せだったんだもの。むしろ、誇らしく思ってもらわなきゃ困るわ。
何と言っても私は首相の愛人で元女優なのよ。その私が幸せだと言っているんだもの、名誉でしょう? あなたに今後私以上にプレミア感のある女性が現れるかしら? なかなかいないと思うわよ。
これからあなたが「わからない」と言っていたことが分かるようになった時、少しだけ私の事を思い出してくれたら嬉しいわ。
あなたが最後にくれた思い出は、この病んだ胸に大事にしまっておくわ。そしてお墓の中で私の体と共に滅びるのよ。あなたの思い出を抱いて死ねるなら、こんなに幸せなことはないわ。
あなたの綺麗な声、あなたの綺麗な指、あなたの綺麗な髪、あなたの綺麗な顔、あなたの綺麗な体、全部、忘れないわ。だから、どうかあなたも私を忘れないでいてね。
これからのあなたの長い人生の中で、「そういえばあんな人がいた」と思い出してくれたら、私は天国から手を振ってあなたの名前を呼ぶわ。だから、あなたは私の声が聞こえたら、空を見上げて、私の名前を呼んでね。きっとお返事をするから。約束よ。
アドルフ、男を磨きなさい。教えたとおりにね。あなたはハンサムで素敵だし、きっと素敵な女性に巡り合えるわ。きっと、色んなことが分かるようになるわ。
私は後悔していることが一つだけあるの。愛人なんて早めに手を切って、誰かと幸せに結婚するべきだったって。私が見たもので美しいと思ったものは2つ。子供を間に挟んで笑いあう夫婦と、仲良く腕を組んで歩く老いた夫婦。その道を選ばなかったことを、何度も後悔したわ。あなたは神父だから、一生独身ね。だけど、あなたにはいつかそういう美しい光景の一部になってほしいわ。
あなたがいつか神父をやめてピアニストになって、素敵な女性と結婚して幸せになったら、とても嬉しいわ。私はきっと自分の事のように喜ぶの。
あなたの身に幸福が降り注ぐように、天国から祈っているわ。私の天使が、幸せになりますように。
アドルフへ、愛を込めて
カテリーナ・クヴァント
手紙を握りしめて、机に伏した。きっと、彼女の事は忘れられないだろう、そう思った。
結局アドルフには未だにわからない、恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎる思い。母親代わりにはあまりにも若く美しく、切なすぎる。
クリストフは「お前の年上好きの原点は彼女だったんだな」なんていうが、あれは、恋だったんだろうか。
今でも彼にはわからない。彼が答えを見つけるのは、もう少し先の話。
女優の話がお気に入りで今まで改稿に改稿を重ねてきましたw
ちなみにイメージは私の中で儚い系美女筆頭の松雪泰子さんですw




