7、結末
「姫。この度はご迷惑をおかけしました」
事件から数日後。
怖い思いをさせて申し訳なかったとセシルはナディアに深く頭を下げた。
もう侍女の格好はしておらず、騎士としてナディアの前に参上していた。
「どうしてあなたが謝るの。すべてはわたくしの侍女が招いたことだというのに……」
心痛の面持ちでナディアは自分こそ悪かったと謝ったので、セシルはきっぱり否定する。
「いいえ、姫様のせいではございません。ポーレットが姫の気持ちを無視して暴走した結果起きたことです。あなたもまた、被害者です」
「でも……わたくしも、ガブリエルに惹かれていたわ」
セシルが目を丸くすると、ナディアは胸に手を当てた苦しそうな表情で吐露する。
「彼はわたくしのこと何とも思っていなかったみたいだけれど、わたくしは、彼と一緒になる未来を想像してしまったわ。素敵な人だと思ったの。だからもしかしたら、ポーレットの策略にも……事故だから仕方がないと逃げるように言い訳して、彼に助けを求めたかもしれない。あなたから、彼を奪ったかもしれない」
「そんなこと――」
「わたくしも母と同じなのっ」
ナディアはテーブルから顔を上げて、悲鳴を上げるように告白した。
「母も、父の目を盗んで、ラガルド卿――ガブリエルの父と逢っていたわ。父がそれを知って怒って、悲しんでいたのに、気づかない振りをして……わたくしにも、ごめんね、もう逢わないって言いながら何度もポーレットに手引きされて、逢っていた。秘密にするよう約束させた。わたくしはそんな母が悍ましくて、でも、母から見捨てられたら、一人ぼっちになってしまうから……だから、見ない振りをした。わたくしは絶対に母のようにならないと思っていたのに……ガブリエルに会って、自分がどんどん嫌な女に……母のようになっていく気がしたの。あざとくて、媚を売る、そんな女に……だから、わたくしもポーレットや母たちと同罪よ。最低な女なのっ」
「姫様……」
ごめんなさい、と肩を震わせて謝るナディアはまるで幼子のようにセシルの目には映った。そんな彼女の前に跪き、セシルは優しい声で告げる。
「いいえ。同じではありません」
「同じよ」
怒ったように否定するナディアにセシルは微笑む。
「いいえ、違います。己の醜さや弱さを認めて、よくないことだと糾弾する心を持つあなたは、決してお母様と一緒ではありません」
涙で潤んだ瞳が揺れ、セシルの目を見つめ返す。
隠し通すこともできた己の過去を打ち明けてくれたナディアに、セシルも秘密を明かした。
「姫様。実はわたし、父を――いえ、父親とも思いたくない男を、殺したことがあるんです。頭の中で何度も」
脈絡もなくそんなことを打ち明けられて、当然ナディアは驚いた様子を見せる。
「父だけでなく、父の愛人も。ああ。殺す前には、とてもご令嬢には聞かせられない、口にするのも悍ましい言葉を浴びせて罵りました。そうして剣で何度も腹や腕を突き刺しました。恐ろしいでしょう? でも、突き刺しながら、わたしに罪悪感は一切ありませんでした。むしろ清々しかった。今まで母を散々馬鹿にしていたやつらに直接手を下すのは、こんなにも気持ちがいいことなのかと愉快な気持ちでした」
こんなことをつらつら話す自分が怖くなるのではないかと思ったが、ナディアは意外にも神妙な顔で耳を傾けてくれる。
「わたしはその時まだぎりぎり子どもだったから、実行しても大人がうまく隠蔽してくれるのではないか。同情心に訴えれば、罪に問われないのではないか。そこまで残酷に考えることができました」
「……でも、結局あなたはそうしなかったのでしょう?」
ナディアからの問いかけに、セシルは寂しそうな笑みで答えた。
「ええ。頭のどこかでは、わかっていたんです。すべてを実行しても、わたしは救われないと。相手に母が受けた苦しみは理解してもらえない。わたしはただの殺人者になって、それで終わり。……それでも、もう何もかもどうでもいい、すべて壊してやるという怒りと憎しみで頭が支配されそうになった。頭の中がかーっとなって、痺れたような感じがして、何も考えられない状態……。その時初めてわたしは自分が恐ろしくなりました。このままでは、わたしは自分が何か別の恐ろしい生き物になると思ったのです」
悪魔や畜生の類。ただ復讐に駆られた存在に。
「だから、わたしは騎士になることを志したのです」
男になると母に宣言した時、セシルは物語に出てくるような騎士を理想の男性像にした。そして実際に騎士になると決めた時も、そうなろうと思った。
卑劣な行為を悪とみなし、弱き者には当たり前のように手を差し出す存在に……。
「醜く弱い心に支配されたくなかった。負けたくなかった。だから、己を鍛え、今のわたしがあります」
「……だから、何? わたくしにもそうなれと? 無理よ。わたくしは騎士じゃない。あなたのように強くなれない。そんなふうに明るく自分の過去を言えない。あなたには、支えてくれる人がいるものっ」
「ナディア様がわたしと違うのは当然です。あなたには、あなたにしかない強さがある」
強い口調で断言するセシルにナディアが戸惑う。
「あなたと初めてお会いした時、その姿に圧倒されました。美しさはもちろんですが、王族としての気品があった。隣国とはいえ、見知らぬ土地に来て不安もおありだったでしょう。でも、全くそんなふうに見えず、堂々と前を見据えていた。可憐な微笑みで、わたしたちの心を虜にした。その後も、接する度にわたしはあなたに恐れを抱いたのです。物腰や教養ある話し方。……どれも、わたしでは得られなかったもの。間違いなくあなただけの武器です」
そこまで言うと、セシルは困った顔をして本音を零す。
「ガブリエルがそんなあなたに惹かれてしまうのではないかと、実はとても不安でした」
「うそ」
「本当です。あなたがとても怖かった」
だから、とセシルは身動きが取れないでいる王女に勇気を与えるよう言葉を紡いだ。
「あなたは弱くありません。これから前を向いて歩いて行く強さをきちんと自分で手にしている。何も恥じることはありませんし、むしろ誇りに思っていい」
「セシル……」
ナディアは目を潤ませて閉じると、一筋の涙を頬に伝わせた。指で拭う様はやはり美しい。
「わたくしの言葉は毒にしかならないというのに、あなたの言葉には人を酔わせる才があるのね」
「美しい薔薇には棘がありますから。相手の受け取り方次第でしょう」
「本当に……どうして彼があなたに惹かれたのかわかるわ。わたくしでは、到底あなたに勝てないはずよ」
「……姫様にも支えてくださる方はおります」
そう言ってセシルは立ち上がり、白い封筒をナディアに差し出した。
「これは?」
「ヴェイユ王からのお手紙です」
ナディアが動揺を露わにする。
「どうして。手紙はすべてポーレットが燃やしたのでは……」
「燃やしたのもありましたが、机の抽斗に隠していたのもあったんです」
実際に燃やした後で怖くなって残していたのか。あるいは言い訳するために残しておいたのか。真実はこれから行われる尋問によって得られるだろう。
「大事なお父様からのお手紙をこちらの不手際でお渡しできず申し訳ございません」
手紙を渡さなかったのは、恐らく国王も噛んでいるのではないかと思う。彼は姪であるナディアとガブリエルが結ばれることをポーレットと同じように望んでいたから。
「いえ、それはもういいのだけれど……本当にこれは、わたくしに宛てられた手紙なの?」
「はい。返事がないことで不安に思われたのか、続けて送られたそうです」
「そう……でも、わたくしのことを心配した内容とは限らないわ。だって……ここへ送り出す時も、何もおっしゃらなかったもの」
そう言いながらもナディアは白い封筒から目を離さない。
「わたしは席を外しますので、ゆっくりお読みください」
「待って」
退出しようとしたセシルの腕をナディアがとっさに掴んだ。彼女の手は震えていた。
「ここに、いて……お願い。一人で読むのは、怖いの」
「はい。わかりました」
セシルがそう言うと、ナディアはほっとした表情になり、またすぐに強張った顔で封を切り、中身に目を通していく。食い入るように文字を追っていたナディアの目にみるみるうちに涙がたまると、彼女は目を閉じた。
「姫……大丈夫ですか」
「あなたの、言う通りだったわ。そちらでの生活はどうか、何か困っていることはないかと……顔を合わせた際は、あんなにも素っ気なかったというのに……ねぇ、セシル。わたくし、お父様が何を考えているかわからないの。この手紙も、側近に書かせたものではないかと思えて……読んでいて、苦しいわ」
「……もしかすると、お父様も同じかもしれません」
ゆっくりとこちらを見たナディアに、セシルは微かに笑う。
「親からすればよかれと思って子を遠ざけることもあるそうですから」
「それは、あなたの親も……」
ナディアが訊いていいか迷うように口ごもったので、セシルはそんなたいした話ではないと優しい声で続けた。
「ええ。わたしの母は、わたしがそばにいることを許しませんでした。恐らく父との嫌なことを思い出すからでしょう。でも、親としてそれがよくないことだとも理解していたんです。だから、ガブリエルの家にわたしを預けました。自分から遠ざけることが、娘のためになると思っていた」
「……あなたは今、それをどう思っている?」
「わたしは――」
瞼の裏に在りし日の母が映る。
彼女はいつも窓の外を見て、セシルに気づくと一瞬悲しそうな顔をしたあと、怒った顔をするのだ。自身を律することができず感情が乱れた母の姿を見るのは、子どもながら可哀想に思った。母も辛かっただろう。それでも――
「そばにいたかったです。母がわたしを嫌っていても、わたしのためだと思っても、わたしは彼女のそばにずっとずっといたかった」
寂しそうに述べたセシルにナディアは泣きそうな表情をすると、手元の手紙に視線を落とした。
「わたくしも、父のそばにいたい。……本当は、わたくしのことを見てほしいの」
「その気持ちをどうか、お父様に伝えてあげてください」
「でも、怖いの」
「ええ。怖いでしょう。ですが……一生伝えられなくなる前に胸の内を明かした方がいい」
ナディアがはっとこちらを見るので、セシルは迷いながらも進言した。
「わたしは母が亡くなって、もっと向き合えばよかったと後悔しました。たとえそれで決定的な亀裂が生じたとしても……自分の気持ちを素直に伝えていればよかったと。そうすれば、亡くなる寸前でも、わたしの思いで母が救われることがあったかもしれない。わたしが今抱えている苦しみも、もっと違うものになったのかもしれないと、考えない日はありません」
「まだ、苦しいの?」
「はい。これからもふとした瞬間に苦しみ続けると思います。……これはわたし個人の考えですが、親に愛されたかったという願望は、友愛や異性愛では決して満たされない。替えのきかないものだと思います。他人から無償の愛を捧げられても、わたしが求めるのは不器用な母の愛だけなのです」
セシルにとっては、父は物心ついた時から親と思えなかった。母だけが親だった。
だから母との過去を思い出す度、苦しくなって負けそうになる。
その苦痛を心から誰かと分かち合うことはできない。ガブリエルにも同じことがいえる。彼には彼の苦しみがある。これは、セシル自身が一生をかけて向き合っていかなければならない傷なのだ。
「姫様。あなたのお父様はまだご存命です。そしてあなたは彼を父親として求めている。だから、どうか勇気を出して、姫様の方から歩み寄られてはいかがでしょうか」
セシルが言えるのはそこまでだった。
今でも、余計なことを言ったのではないかと心臓がドキドキしている。
だが、ナディアには後悔してほしくなかった。セシルの勘であるが、ヴェイユ王も娘との距離を掴みかねている気がしてならなかった。
「ありがとう、セシル。あなたの言葉で、いくつも気づいたことがあります。わたくしが本当に欲しいものを……だから、勇気を出します」
長い沈黙のあと、ナディアは覚悟を決めた表情で微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「ナディア。突然国へ帰るだなんて、どういうことだい?」
数日後。予定よりも早く帰国するナディアに国王が呼び出して理由を尋ねた。
王妃やステファンも同席し、護衛としてガブリエルや自分もそばに控えることが許された。
「申し訳ございません、伯父様。でも、どうしても早く帰りたいのです」
「ポーレットのことならば、もう気にしなくていい。怖かっただろう。だがもう大丈夫だ。お前を傷つける者はいない。それに、ガブリエルがお前のことを守ってくれただろう? 此度のことで私はつくづく実感したのだ。やはりそなたを任せられる相手はガブリエルしかいないと。なぁ、ナディア。そなたもガブリエルのことを憎からず思っているだろう?」
「ええ。ガブリエルは頼りになる騎士ですわ。今回のことでも彼に迷惑をかけ、また助けられました。感謝してもしきれません」
「そうか! ならば――」
「ですがそれ以上に、わたくしはセシル・フレイに身も心も救っていただきました」
ガブリエルの恋人の名前が出たことで国王は意表を突かれた顔をする。
「セシルが? 確かに彼女はそなたの侍女としてよく働いてくれたと思うが……」
「侍女としてはもちろん、騎士として彼女はわたくしの命と心を助けてくれたのです。それこそ身を挺して、ポーレットの暴走した忠義心を止めようとしてくれた。セシルはわたくしの命の恩人でございます。――そんな彼女の想い人を奪う真似など、わたくしにはとてもできませんわ、陛下」
すうっと目を細めて敬称を変えたナディアの纏う雰囲気に国王は一瞬固まる。
「……ナディア。そなたは何か誤解しているようだな」
「誤解? セシルとガブリエルを無理やり別れさせ、彼をわたくしの伴侶にあてがおうとしたこと。そのために、わたくしの侍女と手を組み、お父様の目を欺こうとしたこと、それらすべてに陛下が関係していることが間違いだとおっしゃるのですか?」
そう。ポーレットの手紙の件も、不審者が出たという話も、事が発覚する前に国王は認知していた。知った上で黙認した。何なら、国王自ら言い出した可能性がある。
ナディアが怯えるように自分の手の者に命じてポーレットの部屋を荒らし、見張りの騎士たちにわざと倒れた振りをしろ、と。
だがそれを国王に問い詰めることは不敬にあたるし、詰問したところで認めることは絶対しないだろう。
「ナディア。それはあんまりだ。可愛いそなたを私がそんな危険な真似に晒すはずがないだろう?」
嘘をついて上手に誤魔化すことは王様の得意分野だ。そうでなければ彼は今ここに座っていない。
「そうですか。ええ、そうですわよね。陛下は、母に生き写しのわたくしをとても可愛がってくださった。母の代わりに。自分は妻を恋情で娶り、母には想い人と別れさせて隣国に嫁がせた罪悪感から」
(おお……)
他の臣下たちがぎょっとしたのがセシルの位置からも見えた。王妃はばつの悪そうな顔をして、ステファンはにやにやしている。国王も笑顔を張りつけたまま頬を引き攣らせた。
「ナディア、それは」
「ああ、心配なさらないで? 陛下がご自身にだけ都合のいい選択をしたことは、別に咎めるつもりはありませんから。だってお母様が父と結婚しなければ、わたくしは今ここにおりませんから。それは、ガブリエルも同じこと。わたくしが言いたのはつまり、母とラガルド卿を可哀想に思って罪悪感を消したいのは結構ですけれど、そのためにわたくしとガブリエルの将来を利用するのはおやめください。とても、迷惑極まりないですから」
そう訴えるナディアの声は決して大きくなく、穏やかな口調であったが、場をシンと静まり返らせるだけの威圧感があった。
「……ナディア。私は決してそなたやガブリエルの未来を利用しようなどとは思っていない。ただ、隣国で不遇な目に遭っていると聞いたから、そなたには幸せになってほしいと思っただけだ」
「そうよ、ナディア。罪悪感を消したいなど……確かにシャルレーヌ様には申し訳なく思っているけれど、それとあなたの幸せを願うのはまた別の話よ。だからどうか、そんなひどいことを言わないで」
王妃もまた誤解を解こうと弁解する。
優しい顔立ちの王妃に言われたらそうかと納得してしまいそうなものだが、ナディアは微笑で返した。
「では、相手にどう思われるかの違いですわね。お二人にそのつもりがなくても、わたくしとガブリエルには、わざと意地悪をしているように思えてしまう。ですから、これからは気をつけていただけると助かります。わたくしとガブリエルの意思をきちんと確かめた上で、相手よりも身分が上であることを利用せず、どうしたいか尋ねてください。そして尊重してください。今この場で約束していただけますか?」
「……ガブリエル。そなたはナディアのことをどう思っている?」
姪の思わぬ強気な態度に国王はガブリエルを取り込むことにしたようだ。身分が上であることを利用するなと言われたばかりなのに圧をかける国王にナディアは呆れた表情をする。そして素早く言葉を添えた。
「ガブリエル。陛下やわたくしに気を遣わず、あなたの本当の気持ちを言ってください」
「ナディア様、お気遣いいただきありがとうございます。では、遠慮なく……その前に、一つ陛下と王妃殿下に尋ねたいことがあります」
国王は言ってみよと無言で促した。
「陛下は以前、私の父の血が姫と惹かれ合うのだとおっしゃいましたよね? では、私の母の血が、彼女だけは絶対に選びたくない――そうは考えてくださらないのですか」
「それは……」
ここでラガルド侯爵の妻であるラウラの名前が出るとは思ってもいなかった、という顔を国王夫妻は揃ってした。その反応にガブリエルが目を細める。
「あなた方にとって母はいつも物語の外だ。いつだって主人公は、恋人を奪われた父と、そんな父を嫁いでもなお想い続けるナディア様の母親。そこに、彼らの伴侶や子どもたちの存在はなく、無視される。彼らはただの脇役だから当然かもしれませんね」
「ガブリエル。ずいぶん言葉が過ぎるようだが、私はなにもラウラのことをそんなふうに思ったことは――」
「陛下。なぜ母が父との結婚を受け入れたと思いますか?」
国王は微かに眉を寄せて答える。
「結婚は、ラウラの父親と話し合って決めたことだ。彼の父が承諾してくれた。断る選択肢も与えた。決して無理強いしたわけではない」
「ではなぜ祖父は受け入れたのでしょう? 彼は娘である母のことを大切に思っておりました」
「そこまで私は知らぬ」
「祖父が、あなたの臣下だったからです。母たちの婚姻は、陛下から持ちかけられたものだと聞いております。先ほど断る選択肢をお与えになったとおっしゃったが、あなたはその時すでに即位していた。そして祖父の家は代々王家に忠義心厚く仕えていた」
断れなかったのだ。たとえ娘が不幸になるとわかっていても。
ガブリエルは黙り込む国王の隣に座る王妃にも目を向けた。
「王妃殿下は、母とも面識があったのですよね?」
「え? ええ、そうだけれど……でも、その、あまり親しくなかったから」
「数年、母は侍女として王妃殿下に仕えていたそうですね。気軽に話しかけられる仲ではなかったかもしれませんが、母はあなたに憧れていたそうですよ。優しい方で、よくしていただいたと……生前私に話してくれました」
王妃の顔が気まずいものに変わり、ガブリエルはそんな彼女を厳しい眼差しで見続ける。
「そんな王妃殿下から、ラガルド卿との結婚を勧められた。祖父と同じように母も仕える主に対して尊敬の念を抱いていました。殿下がこんなにもおっしゃってくれるのだから、前向きに受け入れよう。まだ男女の愛も知らず、純真だった母はそう思ったのではないでしょうか」
王妃の顔が青ざめる。彼女は夫がまとめようとしていた縁談を何とか成立させたくて、ラウラの将来がどのようなものになるか深く考えず勧めたのではないか。
「王妃殿下、教えてください。結婚しても他の女を想い続け、自分の子どもすらろくに愛してくれなかった男を夫にした母がどんな気持ちで最期を迎えたのか。同性であるあなたならば、私よりもさらに共感できる部分があるのではないですか」
「……その時は、ラガルド卿がラウラを大切にしてくれると思ったのよ。シャルレーヌのことも、いつか忘れると思って」
「シャルレーヌ様からの手紙を父に渡していたそうですね。あなたを隠れ蓑にしていたわけだ。あなたが率先して二人の仲を取り持った……母の気持ちよりも、二人に同情する気持ちが強かったからでしょう?」
「それ、は」
「ガブリエル、もうよさぬか」
国王が責められる王妃を庇うように話を終わらせようとするが、ガブリエルは引かなかった。
「あなた方の中で、母の存在はずっといないものとして扱われてきた。母の息子として、俺はそれがとても悲しかった。俺や兄、弟と妹たちの存在まで都合のいい道具としてみなされている気がした。そんな中、セシルだけは違った」
ガブリエルが振り返り、セシルを真っ直ぐ見た。
「彼女だけは、母の苦しみに寄り添い、俺たち家族を支えてくれた。本来支えるべき父の代わりに。出会った時からずっと彼女は俺にとって光だった。すでに大事な家族で、かけがえのない女性です。セシル以外と一緒になる人間はこの世界にいない」
「ガブリエル……」
彼の告白にセシルだけでなく国王たちもみな驚いたように言葉を失った。
ステファンだけはニヤニヤしているのが気になったが。
「そんなのは認めない!!」
大声で反対を述べたのは国王ではなかった。戸惑う衛兵たちを押しのけて入ってきたラガルド侯爵、ガブリエルの父親であるアンリだった。
「ガブリエル! お前は姫と結婚するのだ! その娘と一緒になることは断じて許さん!!」
目をカッと見開き、何かに憑りつかれたようにラガルド侯爵は息子に詰め寄る。ガブリエルはそんな父親の剣幕に一切動じず、落ち着いた態度で向き合った。
「あなたは妻を娶り、子どもを作っても、一人の女への未練を残して周りを苦しめ続けた愚かな男です。俺はそんな人をもう己の父とは思えない。あなたに人生を振り回されたくない」
ガブリエルがここまで言ってもラガルド侯爵は目を覚まさず、むしろ薄ら笑いを浮かべるのが不気味だった。
「いいや。お前は間違いなく私の息子だ。私の血を引いている。その証拠に、お前は昔から好きだった女との愛を貫こうとしている。私と同じだ。私もまたラウラを愛さず、シャルレーヌだけを愛し続けた。お前もそうなる」
「……ええ。あなたに振り回された母やシャルレーヌ様が気の毒でなりません。だからこそ、俺はセシルだけを想います。王女との婚姻は望みません。それが俺とあなたの決定的な違いです。一緒ではありません」
「いいや。お前は――」
「いい加減になさいませ。ラガルド侯爵」
凛とした声を響かせて間に入ったのは、ナディアだ。ラガルド侯爵は彼女の方を見ると、驚愕し、なぜか怯えたような表情を見せた。
「シャルレーヌ……」
「いいえ。わたくしはナディアです。母ではございません。あなたの息子があなたではないように」
ナディアが一歩近づくと、やはりラガルド侯爵は怯えた様子で退いた。
その態度を疑問に思う。生き写しと言われるほど愛する女性に似ているナディアと会えて、どうしてそんな態度を取るのか。
(似ているからこそ? でも、それにしては……)
一方ナディアは、侯爵がそんな態度を取るのがわかっていたように艶やかに微笑む。
「あなたにまたお会いできたら、どうしても伝えたいことがありましたの。父は母のことを愛しており、母も最期には父の愛を求めていたことを」
「それはどういう……」
ガブリエルが詳しく訊こうしたが、ラガルド侯爵が「嘘だ!」と叫ぶように否定した。
「姫が愛していたのは私だ! あんなひどい男じゃない!」
ナディアが涼しい顔をして笑う。
「ひどい男、ね……。確かに父は母以外の女性を愛しました。それは母にとって裏切りにあたるでしょう。わたくしも同じ女として思うところはあります。ですが、父は母を愛していたのです。母があなたからもらった手紙を隠れて読んでいることを知るまでは。ポーレットに手引きされてあなたと密通していたと知るまでは、母を信じていた。初恋を終わらせて、きちんと自分と向き合ってくれることを待っていたのです」
でも結局裏切り続けられたから、ヴェイユ王は他の女性に愛を求めたのだ。
「父にも否はあるかもしれない。ですが父の言い分を代弁すれば、先に裏切ったのは母の方なのでしょう。わたくしからすれば、どちらも逃げたように見えましたけれど」
ラガルド侯爵は初めて痛手を負ったような顔をして言葉を詰まらせる。
ナディアはそんな彼を冷めた目で見やり、微笑んで告げた。
「わたくしはあなたが嫌いです。大嫌いです。あなたにずっと言いたかった。どうしてわたくしの両親の仲を壊したの。ただの他人に過ぎないあなたがどうしてわたくしの母を奪ったの。ねぇ、なぜです? あなたさえ余計なことをしなければ、父は母を愛し続け、母も己の態度を反省して父を受け入れたのかもしれないのに。わたくしはそんな両親と家族として幸せに暮らせていたかもしれないのに」
「違う、違う……! シャルレーヌは私を愛していた! 嫁ぐ時も、決して自分のことを忘れないでくれと私に誓わせた。死ぬ時はあなたと一緒がいい。そうすれば来世は一緒になれるからと、だから私は自分の妻も捨てて、あの方のもとへ行ったんだっ!」
血を吐くように語るラガルド侯爵をナディアは冷ややかに笑った。
「ええ。あなたは病気で今にも亡くなりそうな母に逢いにわざわざ来てくれた。それまでは、父が母の面倒を看ていました。今までは険悪な夫婦仲でしたが、さすがに永遠の別れが迫っているとあれば、無視できなかったのでしょう。あんなにいがみ合っていた二人が寄り添う姿を見て、子どもだったわたくしの目には、ようやく仲直りしているように見えました。それなのに、あなたが来たという知らせを聞いて、父は部屋から出て行きました」
ヴェイユ王がそうしたのは、せめて最期には想い合っている二人を許そうという気持ちがあったからか。シャルレーヌがラガルド侯爵を求めたからか。
だが彼女は先ほど、母も最期には父の愛を求めたと言っていた。それはつまり――
「母が病魔に侵されながら呟いた名前は父のものでした。母のそばにいたわたくしには聞こえました。あなたも、信じられない顔をしてその直後息を引き取った母を凝視していましたよね?」
まるでその時のことを思い出したかのようにラガルド侯爵は呆然として膝をついた。
そばにいたガブリエルがそうか、と合点がいった様子で呟く。
「だからあんたはシャルレーヌ様の後を追わなかったんだな。彼女が最後の最後で求めたのがあんたじゃなくて他の男だったから。心中しても意味がない。だからのこのこ俺たちの家へ帰ってきたんだ。母さんに縋るつもりだったのか? でも、母さんもシャルレーヌ様と同じ病で亡くなっていた……結局あんたは愛する女ともあの世へ旅立てず、義務で娶った妻にも先立たれて、今、そんな屍の状態で生き続けているんだな」
自殺しなかった理由を語る息子にくずおれた侯爵の背中がぴくりと震える。
何とか反論しようと顔を上げるが、口をぱくぱくさせて何も発せなかった。
「わたくしの推測に過ぎませんけれど、母は最後の最後で今までの振る舞いを後悔したのではないでしょうか。夫となった父ともっと向き合い、言葉を交わすべきだったと」
ラガルド侯爵のもとへゆっくり歩いてきたナディアは彼を見下ろし、目が合うとにっこり微笑んだ。
「母はもうあなたのことを愛していなかったのです。その事実から目を背けて、今まで周りの者たちを傷つけ、朽ち果てていく貴公の姿は、もはや騎士ではなく、ただの愚者ですわ。ふふ。――本当に、憐れな男」
愛する人に生き写しと言われた顔でナディアは止めを刺した。
ラガルド侯爵は息の根が止まってしまったように見えて、周りは見てはいけないものを見てしまったかのように顔を逸らす。
「ははは。傑作じゃないか。姫も言うね!」
「ステファン!」
「父上、母上。今のナディアとガブリエルの訴えを聞いたでしょう? あなたたちも同罪ですよ。どうするんですか。この後始末は」
「それは……」
長年目をかけてきたラガルド侯爵はもはや再起不能に陥った有様である。ナディアは微笑んでいるものの、目は一切笑っていない。彼女は侯爵と母の逢瀬を手伝ってきた国王夫妻にも怒りを抱いているのだ。
恐らく多くの人間に今までただ守られるだけのか弱い姫だと思われていた彼女が、一人の成人男性の心を完膚なきまでに打ち砕いたのだ。ただの小娘ではなく、怒らせてはいけない王族の人間だとこの場で認識を改めたのではないか。
国王と王妃にみなの視線が集まる。
王妃は夫に助けを求め、国王は珍しく焦った表情で遠くの方を見て、セシルと目が合った。藁にも縋る思いで見つめられて、セシルは笑みを浮かべる。
「国王陛下。よろしいでしょうか!」
セシルが明るく大きな声で言えば、国王は露骨に安堵した表情を見せ、「申してみよ」と許可を出す。
この何とも重たい空気を変えてくれることを彼は願っているのだろう。
ならば期待に応えてみせようではないか。
「わたしは今まで、ガブリエルとの婚姻をいつか許されると思って、今日この日まで待ち続けました。彼が幸せになるのならば、身を引くことも考えた。――ですが、もうやめます」
「やめる?」
「はい! ――お義父さま!」
わざと顔を上げてしまうような呼び方でセシルがラガルド侯爵を呼ぶと、彼はぼんやりとした表情でこちらを見る。
「あなたがわたし以外の女性とガブリエルを結婚させるつもりならば、わたしがガブリエルを攫って逃げます! どんな困難が立ちはだかろうと、彼は誰にも渡さない!」
高らかに宣言するセシルにラガルド侯爵だけでなく、ナディアや国王夫妻、その場にいた全員が呆気に取られる。
「……くっ、あはははっ」
沈黙を切り裂くようにガブリエルが大声で笑い出したので、周囲の人間がぎょっとする。息子のそんな顔を今まで一度も見たことがなかったのか、ラガルド侯爵もぽかんとしている。
「む。笑うな、ガブリエル! わたしは本気だぞ! お前となら、地の果てまで逃げ切る覚悟だ!」
「ふ、だってな。そういうの、普通は俺の台詞だろ。なのに、くくっ。勇ましすぎる……はは。最高だ、セシル!」
ツボに入ったように笑い続けるガブリエルにつられてか、ナディアもふふ、と声を漏らし、やがて同じように声を上げて笑い出した。
「おお……普段絶対にこんな笑い方をしないだろう二人が声を出して笑っている。見ましたか、父上、母上。僕はそちらの方に驚いてしまって、笑うタイミングを逃してしまいましたよ。さすがだな、セシル!」
「えっと、わたしは別に笑わせようと思って言ったわけではないのですが……」
少々不服である。
散々笑って目尻に溜まった涙を拭いながらナディアが声をかけられずにいた国王夫妻に向き合う。
「わたくしの母に足りなかったのは、この度胸ですわね。お二人もそうは思いませんこと?」
賛同したくないと苦虫を噛み潰したような顔をする国王に、ナディアがまとめるように言い放つ。
「この件は、母国へ持ち帰らせていただきます。父にも、ポーレットが起こしたことを報告せねばなりませんから。国王夫妻が一切、今回の事件について存じ上げないことも含めてすべて。ふふ。父がどのような反応をするか、今から楽しみに待っていてくださいね」
今まで可愛い姪としか見ていなかった国王の表情が恐れや怯えを滲ませたものに変わったことに、セシルは心の中でナディアに賛辞を呈した。




