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恋人が王女と結婚するよう命じられて、わたしを姫の侍女に推薦したのですが!?  作者: 真白燈


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1、恋人からのご指名

 金色の髪をうなじのあたりで一つにまとめ、ルーセル王立騎士団の隊服を身に纏ったすらりとした少女――セシル・フレイは、足早に指定された部屋へ向かっていた。


(やっぱり、別れよう、って話しかなぁ……)


 呼び出したのは幼い頃からの親友であり、一応、恋人でもあるガブリエル・ラガルドであった。


 数日前。彼が国王夫妻から隣国・ヴェイユ国の姫とお見合いをしてみないかと提案されたことを、セシルはガブリエル本人から打ち明けられた。


『えっ。ガブリエルの顔の良さって、隣国にまで伝わっているの?』


 確かに切れ長の目や綺麗な鼻筋など、男らしく整っている顔立ちだなとは以前から思っていたが、まさか隣国の姫の耳に届くほど美形であったとは。


 親友に対する顔の良さを改めて認識しなくてはと反省するセシルに、ガブリエルは呆れた顔でそんなわけあるかと否定した。


『俺の父親と姫の母親がかつて恋人同士で、でも政略結婚のために泣く泣く別れたから、せめて子ども同士くっつけようって考えているらしい』


 ガブリエルの父親――ラガルド侯爵は、姫君の母親、王妃シャルレーヌに仕える騎士であったらしい。幼馴染でもある二人は、物心ついた頃にはすでに互いを特別に想っており、隣国から縁談の話がなければ、結婚していただろうと言われていた。


 当時ある国で暴君として振る舞っていた王家を打倒する動きがあり、王族の一人が惨たらしく殺されたことでその国の王侯貴族だけでなく、他の国々の高貴な人間もみな恐怖で震え上がった。


 下の階級に対する態度を改めることよりも、王族同士の絆を深め、血を残すことに意識が向いた。

 シャルレーヌ姫が隣国へ嫁いだのもそういった理由であった。国王夫妻や姫の兄妹もみなシャルレーヌと侯爵を憐れんだ。だからせめて――


(元恋人同士であった二人の息子と娘を一緒にさせよう、ってお考えなのかな?)


「――陛下。それはあまりに私や姫に対して失礼な考え方なのではありませんか」


 扉を護衛に開けてもらうと、感情を抑えているようで怒りが隠しきれていないガブリエルの言葉が耳に飛び込んでくる。


「いや、それはそうなんだが……会ってみれば、何か変わるかもしれないだろう?」

「私にはすでに恋人がいます。結婚も考えています。彼女以外、考えられない」


 部屋へ入ってきたセシルを目で追いながら、ガブリエルが照れもせず口にする。


 セシルは照れるよりも、国王の命令に等しいお願いをきっぱり断ろうとするガブリエルの言動にひやりとした。


「若い時の思い込みというのは、ある日、実に呆気なく崩れるものさ」


 国王は困った顔をしながらも、食い下がる。彼はまだ四十前の若々しい男性なのだが、決して相手の気持ちをすんなり受け入れてくれる性格ではない。特に溺愛していた妹のシャルレーヌに関しては。


「ナタリア姫はシャルレーヌに似て、とても美しいそうだ。お前の父親も、舞踏会で着飾った我が妹を見て、よく見惚れていた。だから息子のお前ももしかすると――」


 ああ、それ以上はいけない。


 拳を震わせるガブリエルを見て、セシルはすっと彼の前に割り込み、無礼を承知で国王に微笑んだ。


「国王陛下。遅くなってしまい、申し訳ございません。セシル・フレイ。ただいま参上しました」


 右手を心臓の位置に添えて、頭を垂れる。その際後ろに組んだ左手で、ガブリエルに冷静になれと伝える。


「……セシル。私はお前を呼んだつもりはないよ」

「そうでしたか。では、どこかで行き違いがあったのでしょう」


 セシルはにこっと笑って返しながら、ガブリエルの仕業かと考える。


(ここでわたしたちが愛し合っています! と涙ながらに訴えたところで、かえって逆効果なだけなのに)


 この国王はそういったことを一番嫌う。


 一体何を考えているのか、と探るセシルの肩をガブリエルが軽く叩き、隣に並んだ。ちらりと見上げれば、どうやら冷静さを取り戻したようだ。


「陛下はどうしても私に姫の護衛役を任せたいのですね?」

「その通りだ。私としては、見合いをして大事な姪をそなたに任せたい気持ちがあるのだが、そなたがどうしても嫌だと言うからな。ならばせめて護衛を引き受けてほしいという気持ちで頼んでいる」

「それは私でないといけないのですか」


 薄ら笑いを浮かべているのにガブリエルの灰色がかった青色の目は一切笑っていない。


(ものすごく怒っている……そして相手を懲らしめてやろうっていう顔だ!)


 国王はガブリエルの怒りに気づいているのかいないのか、平然とした様子で頷いてみせる。


「ああ。そなたは我が騎士団の中でも実に優秀だ。そして王族の護衛を担う第三騎士団に所属している。これ以上の適任はいない。だから頼む、ガブリエル」

「……わかりました。陛下がそこまでおっしゃるならば、お引き受けいたします。ですが一つ、こちらの条件を呑んでいただきたい」


 国王はガブリエルの言葉が予期できていたのか、釘を刺す。


「ガブリエル。護衛を引き受ける代わりにセシルとの結婚を許してほしい、という願いならば応じることはできない。それはそなたの父であるラガルド卿に頼みなさい」


(ガブリエルのお父様が結婚をお許しにならないから陛下の力を借りたい、って聡明な陛下ならわかっていらっしゃるはずだけれど……やっぱり姫君と結婚させたいからか)


『セシル嬢。きみをガブリエルと結婚させるわけにはいかない。あの子には、他に守るべき存在がいるからね』


 かつてセシルにそう言ったラガルド侯爵の顔は笑っていたが、どこか危ういものに見えた。


 ガブリエルとそっくりのその顔は、目は、いつも遠くを見ていた。


(それほどまでにシャルレーヌ様はお美しく、気にかけてあげないといけない存在だったのかな)


 いずれにせよ、ラガルド侯爵と国王が認めない以上、自分とガブリエルは結婚できない。さすがのガブリエルもそろそろキレて暴れるのではないかと危惧したセシルだったが――


「ええ、陛下。陛下が私とセシルの結婚を承知しないことは、理解しております。そのことを頼むつもりはございません」

「では条件とは何だい」

「セシルも、姫君の護衛にしてほしい」

「セシルを?」


 国王の意表を突くことができて嬉しいのか、ガブリエルはふっと微笑んだ。作り笑いではなく、心からの笑みである。


「はい。男一人では、何かと不都合ですし、どこへでもついて行く、というのは難しいでしょう? ですから同じ女であるセシルを護衛にすれば、万全です。彼女は数少ない女性騎士の中でも特別優秀ですし、姫とも年が近い。そして、私がもっとも信頼する人間です。セシル・フレイが一緒に姫の護衛に当たってくれるのならば、これ以上ないほど心強い。ですからどうか、この条件を呑んでいただきたい」


 反論する理由もないだろうと言いたげなガブリエルに、国王は言葉を詰まらせる。


「しかし、セシルはお前とは恋人同士だ。職務中、そういう雰囲気になったり、いざという時、姫ではなくセシルを優先する場合も――」

「陛下。それは決してございません。私たちはこの国に、陛下に忠誠を誓った。何があろうと、陛下や陛下が大切になさる姫君の御身をこの身に代えてでもお守りいたします」


 王立騎士団に入る際、入ってからも事あるごとに言い聞かせられたことをセシルが口にすれば、ガブリエルも深く頷く。


「だが、護衛が二人では、あの子も気が休まらない」

「では、護衛ではなく、侍女として仕えればいい」

「え?」

「は?」


 国王だけでなく、セシルも目を丸くした。


 一人、ガブリエルだけが名案だというようにセシルの肩を掴む。


「セシル。明日からお前は騎士ではなく侍女だ。共に姫君の御身を守ろう!」

「は、はぁ~?」


 国王の前だとわかっていても、セシルは素っ頓狂な声を上げずにはいられなかった。


     ◇ ◇ ◇


(まったく、ガブリエルのやつ! 一体何を考えているんだ!)


 なぜ騎士である自分が侍女に扮して護衛しなければならないのか。


(……まぁ、命令なら、従うけれど)


 しかしあの後、呆気にとられた国王を無理やり納得させるかたちで話をまとめたガブリエルは強引にセシルを連れて部屋を出た。そしてすぐに用事があるからとどこかへ行ってしまったので、今セシルは一人で王宮の回廊を歩いている。


 ガブリエルの身勝手さにしばらく腹を立てていたものの、次第に冷静さを取り戻すと、少し不安になってきた。


(まさか本当に侍女役として姫君に仕えることになる、のか?)


 普通は、あちらから連れてきた護衛がいるはずだ。信頼した侍女もいるだろう。


 わざわざこちらで護衛を用意する必要もないが、国王は妹に生き写しだと言われている姪の姫君をたいそう可愛がっている様子なので、手厚いもてなしをするだろうと思われる。


(一番の目的は、ガブリエルと姫君をくっつけさせること、と考えれば……)


 ガブリエルが護衛になるのは恐らく間違いない。


 でも、自分が侍女に割り振られるかというと――


「あっ、いた、セシル様!」


 あれこれと考えを巡らせていたセシルは呼び止められて振り返る。みな王宮で働く女性たちであった。よく差し入れなどもしてくれる顔馴染みが多い。


「皆様。どうしました?」

「聞きましたよ! ガブリエル様と一緒に、隣国の姫君の護衛に当たるのでしょう?」

「侍女として、潜入調査をなさるのですよね?」


(ん?)


「ガブリエル様の愛を王女に奪われないよう、そばで監視して牽制なさるのですよね!」


(んんん?)


 おかしい。ちょっと話がずれているというか、だいぶ違う方向で解釈されている。


 これはきちんと説明しなくては。あと騎士であることも秘密にしておかなければ意味がない。いや、そもそも本当にこんなことが行われるかもまだわからないのだ。


「あの、皆様。今回の話はまだきちんと決まったわけでは――」

「私たち、セシル様の味方ですから!」

「セシル様のお相手は、ガブリエル様以外絶対に考えられませんから!!」

「そのために私たち、セシル様を本物の侍女に仕立て上げますね!!」


 がしっと両手を掴まれ、気づけばキラキラした眼差しで彼女たちに取り囲まれていたセシルは、わけもなく冷や汗を流す。


「あ、あの?」

「心配無用です! セシル様のために、かつて王妃殿下や王太子殿下にマナーをお教えした女史をお呼びしております!」


 いかにもなお堅い風貌のマナー講師が眼鏡のつるをくいっと持ち上げてセシルを値踏みする。レンズの奥の鋭い眼光に、セシルは逃げ出したくなった。


「ええっと、そこまで頑張る必要はないかなーっと思ったり……」

「セシル嬢。王女殿下が我が国にお越しになるまでの二週間あまり。皆様のご期待に添えるよう、みっちりきっちりレッスンに励みましょうね」

「い、いやぁ、わ、わたし、他にもすることがあるので、ちょっと、難しいかなぁ、なんて……あっ、そうだ。実は、この後、警備のことでガブリエルやステファン殿下に相談しようと思っていたことがあるんですよ!」


 セシルはうまいこと言って逃げ出そうとしたが、女性陣に周りをしっかり囲まれており、包囲されていた。


(いつの間に!)


「セシル様。頑張りましょう!」

「これもすべて、ガブリエル様のためです!」

「ぅ、あ……はい」


(な、なんでこうなるの~)


 それからセシルは女史の厳しいお小言を食らいながら、侍女としての行儀作法をみっちり学ばされるのだった。


 そして当日。


 セシルはナディア王女を迎え入れる謁見の間で、久しぶりにガブリエルと対面した。


「――いかがしました。ガブリエル様」


 無言で穴のあくほど見てくるガブリエルに、仕方なくセシルから口を開く。


「そんな高めの声も出せるんだな」

「……」

「いや。お前のそういう格好を初めて見た気がするから、すごく新鮮に感じた」


 フリルやレースをたっぷり使ったお仕着せ姿のセシルを、見栄え重視の騎士服を着たガブリエルがしげしげと眺めてくる。


 セシルは微笑を浮かべていたが、彼の言葉に頬をひくひく引き攣らせた。


「ガブリエル様、どうかお言葉にはお気を付けください。それとその珍獣でも見るような不躾な視線も。あなたは姫君の護衛騎士を任されたのですから」

「髪もいつもより高く結って、毛先がくるんとなっているな。ふーん……」


 こちらの言葉を全く聞いていない能天気な返しに、ぷちんとセシルの何かが切れた。


「いい加減にしろガブリエル! お前がステファン殿下と共謀したお陰で、わたしはここ二週間、毎日地獄のような授業を学ぶ羽目になったんだぞ!」


 後で女性陣に教えてもらった話だが、何でも女史を派遣してセシルに行儀作法を身につけさせるよう思いついたのがガブリエルで、命じたのが王太子であったらしい。


「もう本当に大変だったんだぞ、いや、のよ。少しでも言葉遣いが乱れたら、あの女史の冷ややかな眼差しと、毒のある言葉を聞かされて、周りに助けを求めても、にこにこ微笑まれて頑張ってください! って応援されるだけだし……」


 休憩中も容赦なく、姿が見えなくなっても実は陰でこっそり採点されて後でこってり絞られたのだ。実は今もどこかで監視されているのではないかと、ついきょろきょろと辺りを見渡してしまう。


「それは大変だったな。だが、お前の言動では、逆に向こうに怪しまれることもある。やるからにはばれないよう、完璧に擬態した方が、俺も安心できる」

「擬態って……いえ、もう一々指摘するのはやめます。そもそも、あなたがわたしを姫の侍女役に任せるなど提案しなければ……ええ、こんなことにはならなかったとは、思いませんよ」

「なるほど。遠回しな嫌味の言い方も習得したようだな」


 ちっともこちらの言い方が伝わっていないので、セシルはじと目で睨むと、ガブリエルの脇に肘鉄砲を食らわせた。いてっ、とガブリエルがちっとも痛がっていない様子で笑って謝る。


「悪い。お前にはすごく負担をかけたのは確かだ」

「だったら、こんな面倒なことしないでください」

「お前にそばにいてほしかったんだ」


 それまでの雰囲気から唐突に真剣な表情で伝えられて面食らう。


「陛下は本気だ。そして、俺の父親も。俺は絶対にあの二人の言いなりになるつもりはない」

「ガブリエル……」

「だから、お前にも協力してもらう」


 何も知らない人間からすれば、もっと真摯に、言葉を尽くして頼めと言いたくなるだろう。あまりにも強引で、偉そうだと。


 でも、出会った時から彼と自分の関係はこうだった。悪友になって、家族として欠けた部分を補い、唯一無二の親友になり、相棒になった。男女という性別の違いから恋人同士に発展したといっても、世間一般の恋人同士のような甘さや気遣いはない。それでいいと思っている。その気安さが心地よかったから。


 だからガブリエルにこうして言葉で協力してほしいと言われたこと自体、彼が本気で自分と一緒になりたいことがセシルには伝わってくる。


「わかった。わたしも、お前と一緒になりたい。だから……精いっぱい、侍女の役目を果たします」


 自分も同じ気持ちだと伝えれば、ガブリエルはほっとした様子で笑みを浮かべた。


 そうして姫が到着したことを扉の外で待機していた騎士に伝えられて、ガブリエルと共に姫を迎え入れたのだが――


「はじめまして。ナディアと申します」


 背中まである美しいプラチナブロンドに少し目尻の下がった大きな青い瞳をしたナディアは、とても可憐な女性であった。


 そして彼女は一瞬であったが、確かにガブリエルの存在に目を奪われたように見えた。


 ガブリエルもまた、ほんの僅かであったが、姫の姿を強く目に焼きつけるように強い視線を注いでいた。


「ああ、本当に。二人ともシャルレーヌとアンリにそっくりだ。昔を思い出す」


 国王がわざとらしくも、感激した様子でそう言うと、周りの臣下も同じようなことを口にして、深く頷き合った。


 彼らはガブリエルとセシルが恋人同士であることを知っているはずなのに、セシルの存在など気にも留めていない。


(ああ、何だかあの時と似ている)


 まるで自分だけ除け者のようになった空気に、セシルはガブリエルと出会う前の、実家での出来事を思い出した。


「――なんでお前は女なのっ」


 まだ十歳になる前だった。病気で激しく咳き込んだ母に横になるよう言えば、憎々しげな顔でそう言われた。


 父には母と結婚する前から恋人がいた。母と結婚してからも関係が途絶えることはなく、娘を産ませた。そしてつい数日前、愛人とその娘を屋敷に連れてきて、一緒に暮らし始めた。


 当然母は怒り、父と激しい口論を繰り広げた。そのせいで気が昂っていたせいもあるだろうが、嫡男を産めなかった役立たずと言われたことも大きい。もう子どもを産むには母の身体は病に侵されて、医者からもそう長くないだろうと言われていた。


 愛されない不満や死ぬ恐怖が理性で抑えきれないほど膨らんだ結果、一人娘であるセシルを責める言葉が口から飛び出たのだ。


「お前が男だったら、責められずにすんだのにっ。あの人に似ていれば、もっと気にかけてくれたっ。わたくしのことを馬鹿にせず、あんな女を愛さず、わたくしを見てくれたのに!」


 父をひどい言葉で罵りながらも他の女を愛している父を憎みきれず、未だ愛してくれることを期待している。


 一人で立ち上がる力もなく、床に座り込んで喚く母に、セシルは跪いて、大人にしては小さく見える背中をさすりながら告げた。


「では、これから男になります」


 驚いて顔を上げる母に、セシルは微笑んだ。


 その日からセシルはドレスを着ることをやめ、男の格好をするようになった。


 背中まであった母譲りの美しい金色の髪を鋏でばっさり切れば、乳母やメイドたちに泣いて悲しまれたが、セシルは全く悲しくなかった。


 それよりも、男装した自分を母が目を真ん丸とさせて凝視したことが嬉しかった。


 もっと驚かせて、父や愛人たちのことを考えずに済むよう、木登りや剣を握ったりした。口調も母を敬いながら男のような話し方を意識した。


「あっちへ行って」


 でも、母は自分を視界に入れたくないと告げるように窓の外へ視線を向けて、セシルを見てはくれなかった。


(お母様、外を……遠くを見てる。なら――)


 馬に乗って、遠くからでも母に見てもらおう。


 セシルはそう思って、乗馬を覚えることにした。


 馬に乗るのは別に男性に限ったことではない。お陰で木登りや剣術ほど嫌な顔をされず、使用人の目をかいくぐって遠くまである日行くことができた。


 つい、時間を忘れてしまって隣の領地まで侵入してしまい、その土地の管理を任されているラガルド侯爵家――ガブリエルの家の人間に怪しい人間だと思われて捕まった時の緊張感は今でもよく覚えている。


「とりあえず領主様に報告するか」

「そうだな。ちょうどご子息のサンソン様やガブリエル様がお越しになられていたから、口添えしてもらおう」


 今思えば、きちんと説明すれば、叱られはしても解放してもらえただろう。


 だがまだ子どもだったセシルは本気で罰を受けるかもしれないと怖くなり、また面倒をかけたことで父に怒られ、その結果父が母に文句を言うことを何より回避したかった。


 ゆえに、捕らえた男たちの一瞬の隙を突き、逃げ出した。


 当然彼らは待てと追いかけてくる。彼らの目をうまく誤魔化すためにわざと道から外れた場所に入り、草が生い茂った場所に突っ込んで無理やり抜け出すと、するすると高い木を登って、彼らが必死に自分を探して諦めて他の場所へ行くのをしっかり見届けた。


(……もうそろそろ、いいかな)


 馬を置いてきてしまったので、連れて帰らなければならない。


 しかし男たちにすでに連れて行かれたかもしれない。馬もまた大事な財産であり、ここまでセシルを連れて走ってくれた大事な友である。見捨てることはできなかった。


(たぶん厩舎に連れていかれるだろうから、そこからこっそり連れて帰る? 今はまだ明るいから夜になるまで待って……ああ、でも、ばあやたちが心配するだろうな。大事になって、結局あの男の耳に入ったら終わりだ)


 逃げたのは間違いであったかもしれないと今更ながら後悔するも、セシルはどうしようかと木の上で悩む。その時、どしんと衝撃が走った。


「わ、わわっ」


 とっさに太い幹にしがみつき、下を見る。気の強そうな黒髪の少年が、セシルの登った木を揺すっていた。


「ちょっ、何してるの!?」

「見ればわかるだろ。怪しい人間を落とそうとしているんだ」

「わ、わたしは怪しくないよ!」

「嘘つけ。さっき村人の尋問から逃げ出して、やつらが去るのを見ていただろう」

「それは、つい……って、見ていたのかよ!」


 少年は無視して木を揺らし続ける。普通なら面白がってバランスをとるセシルだが、焦りと下を見て話しているせいか、膝が震えてきた。


「と、とりあえず、っ、揺らすのやめて! 本当に落ちそう!」

「大人しく下りてくるなら揺らすのをやめてやる」


 事情を説明したところでこの少年が本当に許してくれるか、セシルには確信が持てなかった。返事をしなかったことで、やはり下りる気はないと思ったのか、少年はさらに力を込めて木を揺らし、さらに脚蹴りまでしてきた。


「わ、ほんと、も、うひゃあっ」


 とうとう踏ん張りが効かず、セシルは太い枝から足を滑らせた。


 だが途中の枝に運よく引っかかり、枝を掴むことができた。少年の舌打ちが聞こえ、セシルは猛烈に腹が立ってくる。


(なんて生意気なやつ!!)


 自分の父親よりも憎らしいやつに初めて会った気がして、こうなったからには懲らしめてやろうという気持ちになった。


 そうして両手でしっかり枝を掴んで身体を揺らすと、恐れることなく身体を宙へ放ち、少年めがけて飛び降りた。


「おいっ!?」


 さすがの彼も予想外だったのか、仰天した顔を晒す。セシルは企みが成功したのが嬉しくて、笑顔を浮かべて少年に体当たりするかたちで地面へ着地した。


「ははっ。うまくいった! ……あ、笑ってる場合じゃないか、……えっと、大丈夫?」


 少年に覆い被さった状態でいると、下から彼の呻き声が聞こえてくる。


「くっ、大丈夫、じゃねぇっ。お前、いったい何考えて――……」


 しかめっ面をしていた少年は、セシルを見上げて目を見開いた。


 セシルも生意気だと思っていた少年の顔が意外にも整っており、利発そうな雰囲気に目を瞬いた。


「……いつまで乗っかってんだよ」

「あ、ごめん」


 知らず互いに見つめ合っていたことが急に恥ずかしく思われて、セシルはぱっと起き上がった。


「怪我しなかった?」

「してる。重すぎて、死にそうな目に遭った」

「ええ~。そんなに重くないよ」


 失礼なやつだなと思いながら手を差し出せば、彼は素直に掴んできた。


「あんな高さから飛び降りてぶつかってくるなんて、お前、頭おかしいんじゃないか」

「か弱い子どもを振り落とそうと木を揺すってくるきみに言われたくないな」

「ふん。怪しいやつを捕えるのは、ラガルド家の人間として当然のことだ」


 ラガルト家と言われて、セシルはまじまじと彼の全身に目をやった。


 村の子どもにしては身なりのいい格好。品のある顔立ち。小憎らしい自信満々で偉そうな態度。


『ちょうどご子息のサンソン様やガブリエル様がお越しになられていたから――』


「きみ、もしかしてサンソンかガブリエルって名前だったりする?」

「ガブリエル・ラガルド。サンソンは俺の兄の名前だ」


 なんてこった。よりにもよってラガルド侯爵家の息子に捕まってしまうなんて……。


(どうしよう)


 今さら逃げ出す気にはなれなかった。


 ガブリエルに興味を抱いたからかもしれない。同世代の子どもと出会うのは、異母妹の他にはあまりいなかったから。


「お前も、それなりの家の人間だろう? どこの家門だ」


 セシルがそうだと思ったように、ガブリエルも平民の子ではないと察したようだ。


 爵位はガブリエルの方が上である。教えろと言われたら教えるしかないと、セシルは畏まった態度でにこやかに微笑んだ。


「セシル・フレイと申します。ラガルド侯爵のご子息にこんなところでお会いすることができて、とても光栄でございます」


 敬うつもりでそう挨拶したが、今さらだとガブリエルに鼻で笑われる。


「無理するな。さっきまでの態度でいい。ガブリエルと呼べ」

「そう? では、ガブリエル。これからよろしく」


 命じられたので態度を戻しただけだが、ガブリエルはいささか呆れた顔をした。


「よろしくって、お前、今の自分の立場をわかっているのか?」

「それは誤解だ。実は馬に乗って遠乗りしているうちに、うっかりきみの領地まで来てしまって、領民に盗人か何かと勘違いされてしまった。わたしももっと冷静に話せばよかったのだが、つい焦ってしまって逃げ出す真似をして、きみに木から振り落とされる羽目になった。神に誓って、わたしは何も悪いことはしていない。……馬を返してくれると、助かるな」


 正直に事情を打ち明ければ、ますます彼は呆れた表情をして、次いで何か考えるような顔をした。


「フレイ、ということは、隣の領地か。隣とはいえ、子どもが馬に乗って来るにはけっこうな距離があるだろう。……本当にうっかりか?」

「本当だよ。たまに面倒な事を忘れて、何か別のことに思いきり集中したい時があるだろう? わたしにとっては、それが乗馬だったんだ」


 ガブリエルは追及してくるかと思ったが、セシルをじっと見つめたあと、そうだなと同意してくれた。


「そういう時は、確かにあるな」


(……彼にも、何か悩みがあるのかな)


 セシルが母や父のことを忘れたいと思ったように……。


「来いよ。馬を返してほしいんだろう? お前一人だと信じてもらえないだろうから、俺から言ってやる」

「えっ、ほんと? ありがとう!」


 どこか上からな物言いであるが、ガブリエルはセシルの乗ってきた馬を返すことを約束してくれた。その際、村人たちにも説明してくれて、セシルは何とか家へ帰ることができたのだった。と、その前にガブリエルと交わした約束がある。


「ねぇ、今度はきみがわたしの領地に遊びにおいでよ」

「お前、懲りてないだろ」


 セシルは馬上から笑って返す。


「きちんと反省しているよ。またきみと話したいんだ。だめかな?」

「……兄上にきちんと許可を取ってから、会いに行く」


 お前も今度挨拶しろと言われて、セシルは顔を輝かせて頷いた。




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