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婚約破棄された悪役令嬢、今更もう遅い――冷徹公爵が溺愛して離さない

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/14

「ミレイア・オルテンシア。貴様との婚約は破棄する」


 音楽が止まり、舞踏会場の空気が凍った。

 王太子レオナルトの声だけが、天井の高い広間に響く。


「理由を、伺ってもよろしいですか」


 私は背筋を伸ばしたまま、口元だけで笑ってみせた。

 これが悪役令嬢の仮面。割れたら終わる。


「聖女候補リリアナを虐げた。証言は揃っている。貴様は悪役令嬢だ」


 便利で、便利すぎる言葉。

 胸の奥が熱くなるのを、私は飲み込んだ。


 王太子の隣で、白いドレスの少女が小さく震えていた。

 リリアナの涙が、宝石みたいに頬を転がる。


「わ、わたし……本当は争いたくないんです……」

「怖かった……ミレイア様が、私の腕を掴んで……」


 彼女の腕に赤い痕があるのは私も見た。

 けれど、その形は輪のように均一だ。指の痕じゃない。

 ――魔導具の縁。


 口にした途端、私はもっと悪役にされる。

 庇えば庇うほど噂が濃くなることも、もう学んでいる。


「追放だ」


 王太子は間を置かず続けた。


「今夜のうちに王都を出ろ。侯爵家も連座。情状酌量はない」


 父の顔が青ざめた。

 母はもういない。

 私は静かに息を吐く。ここで終わるのだ。私が守ろうとしたものは、全部。


 ――その瞬間、扉が開いた。


 冷たい夜気が流れ込み、ざわめきが一段沈む。

 現れた男の存在感だけが、温度みたいに場を支配した。


 黒い礼装、銀の髪、氷色の目。

 冷徹公爵アルドリック・ヴァルム。


「その婚約破棄、私が引き取る」


「は?」


 王太子が間の抜けた声を漏らした。


「ミレイア・オルテンシアは私の妻となる。今夜から」

「何を言っている。彼女は犯罪者だ」

「罪状は証言だけか」


 氷色の視線が、リリアナの腕へ落ちた。

 彼女がびくりと肩を跳ねさせる。


「その痕は輪の形だ。指でつくなら、もっと不揃いになる」

「っ……!」


 喉の奥が熱くなる。

 私が言えなかったことを、彼は一息で切り取った。


 王太子が顔を歪める。


「公爵、政に口を出す気か」

「口ではない。契約だ」


 アルドリックは懐から紙を取り出した。

 黒いインクで書かれた契約書。魔力の封蝋が静かに脈打っている。


「この場で婚姻契約を結ぶ。王家の承認は不要、公爵家の裁量だ」

「そんな横暴が許されるか!」

「許される。王家は私の領地を必要としている」


 反論が喉で止まる音がした。

 王太子は必要という言葉に弱い。


 私は契約書へ目を落とす。

 そこには冷たい条件が並んでいた。


 互いに干渉しない。

 情は求めない。

 必要がなくなれば解消できる。


 ――仮の妻。


 けれど、アルドリックは紙の冷たさの上に、淡々と約束を置いた。


「安心しろ。証拠は必ず揃う」

「……え」


 彼は私ではなく、広間全体に聞かせるように言う。


「その痕の鑑定を公爵家で行う。鑑定結果は評議会へ提出する」

「勝手に――」

「勝手ではない。王都の治安維持は名目になる」


 そして、背後の騎士へ短く命じた。


「同型の魔導具の流通を押さえろ。記録魔石があるなら、回収する。今夜中だ」


 私の胸の奥で、硬く結ばれていた糸が少しだけ緩んだ。

 ――証拠は揃う。逃げないでいい。

 そう言われたのは、初めてだった。


「ミレイア」


 アルドリックが私の名を呼ぶ。

 その呼び方が、なぜだか痛いほど丁寧に聞こえた。


「ここに残るな。連れて帰る」

「……私は、追放されるはずです」

「今更もう遅い。追放を決めるのは、空気ではない。手続きと証拠だ」


 今更もう遅い。

 その言葉が、私の中の何かを起動させる。

 ――そうだ。遅いのは、私じゃない。


 王太子が焦ったように声を荒げた。


「衛兵! 公爵を止めろ! その女を――」


 数歩踏み出しかけた衛兵が、ぴたりと止まる。

 アルドリックが視線だけで凍らせた。


「止めるなら止めろ。明日の朝、王家の借款契約を全て破棄してからだ」


 広間のざわめきが、別の種類のざわめきに変わった。

 王家の金。

 誰もが触れたくない核心。


 私は、唇の内側を噛む。

 ――この人は、いつだって契約で世界を動かす。


 私たちは、夜気の中へ踏み出した。


 ◇


 公爵領へ向かう馬車の中。

 揺れが規則正しく、眠りを誘うはずなのに、私は眠れなかった。


「怖いか」


 向かいのアルドリックが、淡々と訊く。

 私は首を横に振りかけて、止めた。


「……怖い、というより。慣れているんです」

「何に」

「誰かが勝手に決めることに」


 言ってしまってから、しまったと思った。

 また被害者ぶりに見えるかもしれない。


 けれどアルドリックは、眉一つ動かさない。


「君が黙る癖は、いつからだ」

「……黙っていれば、傷が浅く済むと思っていました」


 沈黙。

 馬車の揺れだけが答える。


 アルドリックが、低い声で言った。


「浅くなど済まない。君はいつも、深い所まで一人で飲み込む」


 心臓が跳ねた。


「……なぜ、そう思うんですか。公爵様は、私のことをほとんどご存じないはず」

「知っている」


 氷色の目が、迷いなくこちらを向く。


「三か月前。王都の会計局で、君は徹夜で帳簿を直していた」

「……」


 覚えている。

 飢饉対策の輸送費。数字が合わず、誰かが調整しようとしていた夜。


 私は、黙って計算し直した。

 間違いを正し、余剰金の行き先を帳簿に残し、それでも――誰かの面子のために、表向きは頭を下げた。


 あの夜、扉の影に誰かが立っていた気配がした。

 振り返らなかったから、気のせいだと思っていた。


「見て、いたんですか」

「君が『黙って』守ったものを、私は見た」


 胸の奥が熱くなる。

 怒りじゃない。悔しさでもない。

 ――救われるような、痛み。


「だから、今日も君が黙る前に言った。証拠は揃う、と」

「……ありがとうございます」


 私は小さく息を吐く。


「ただし、条件がある」

「条件……?」


 アルドリックが視線を逸らさず言う。


「君は、私に嘘をつくな。私は、君に口を塞がせない」


 胸の奥で、何かがほどけた音がした。


 ◇


 公爵領の屋敷は、噂ほど冷たくはなかった。

 暖炉の火が静かに揺れ、使用人たちは過剰に丁寧でも、露骨に侮るでもない。

 ――公爵の命令が、私を守っている。


 翌日。

 アルドリックは有言実行だった。


「鑑定結果が出た」


 机の上に置かれた書類には、明確な結論が刻まれていた。

 リリアナの痕は、人の指ではなく、特定の魔導具の縁でつけられた可能性が高い。


「同型の魔導具も押さえた。流通経路も追える」

「……本当に、揃うんですね」


 私の声が震えた。

 今まで、何度どうせで諦めてきたのか分からない。


「揃える。君の名誉に関わる」


 淡々と言うのに、言葉の奥が熱い。

 私は視線を落としたまま、呟く。


「……契約のはずなのに」

「契約だからだ。守る条項がある」


 そこで一拍、間が落ちる。


「それに」

「……?」

「君が泣かないのが、気に入らない」


 私は思わず顔を上げた。


「公爵様、それは……干渉です」

「そうだ」


 即答。

 ずるい。

 真面目な顔で、ずるいことを言う。


 ◇


 王都から使者が来たのは、その日の夕方だった。


「公爵閣下。王太子殿下より。ミレイア嬢を引き渡せ、との――」


 丁重な言葉の裏に、命令が透けている。

 アルドリックは椅子に背を預けたまま、視線だけで圧をかける。


「却下だ」

「しかし――」

「王都へ戻るのは、評議会で正式に審議される日だ。それまでは私の管轄だ」


 使者が噛みつくように言う。


「彼女は罪人――」

「罪人なら、なぜ焦る」


 アルドリックの声は静かだった。


「証言しかないなら待てるはずだ。証拠が出るのが困るのか」


 使者が言葉を失う。

 私は胸の奥で、小さく勝ったと思った。

 これが、一つ目の小さな快感。


 使者が去り際、私に向けて吐き捨てる。


「今のうちに泣いて詫びることだ。皆、君を見捨てた」


 私は黙ってやり過ごす癖が、喉まで出かかった。

 けれど。


 アルドリックが、私より先に言った。


「今更もう遅い。泣いて詫びるのは、そちらだ」


 ……二つ目の小さな快感。

 私は、思わず笑ってしまった。


 ◇


 私が動いたのは、夜だった。

 机に積まれた帳簿と契約書を前に、ペン先を走らせる。


「それ、本当に楽しいのか」


 アルドリックが覗き込む。


「楽しい、というより……落ち着くんです。数字は裏切らない」

「人は裏切ると」

「……はい」


 言ってから、苦くなる。

 でも彼は否定しなかった。


「なら、裏切れない形にする。契約で縛る」

「公爵様、怖いです」

「怖がれ。君が怖がるなら、君を怖がらせた者を先に怖がらせる」


 淡々と言うのに、内容が物騒だ。

 私は笑って、視線を帳簿に戻す。


 王都の寄付金。

 救貧院の支出。

 聖堂への献納。


 線が一本、綺麗に繋がる。

 善意の仮面の裏で、金が流れている。


「見つけました」

「言え」


「寄付金が、三度、同じ経路を通って王太子の私庫に戻っています」

「……確定だな」


 アルドリックが、紙を一枚挟む。


「評議会で出す。君の名で」

「私の……?」


 彼が言い切る。


「君が黙っていた分を、取り戻せ。君の声で」


 胸の奥が、熱くなる。

 私は頷いた。


 ◇


 評議会当日。

 王都の空気は、あの舞踏会の続きだった。

 けれど――視線の温度が違う。


「……ミレイア様、でしたか」

「公爵が連れて行ったのに、平然としている……」


 囁きが、私の背中にまとわりつく。

 私は歩く。止まらない。


 評議会の席には、王太子とリリアナがいた。

 リリアナは今日も白いドレスで、悲劇の顔をしている。


「ミレイア。最後に言い残すことがあるなら聞いてやる」


 王太子が、慈悲ぶった声で言う。

 私はその声に、少しだけ笑ってしまった。


「ありがとうございます。言い残すことではなく、返すものがあります」


 議場がざわめく。

 アルドリックが、淡々と書類を置く。


「鑑定結果、同型魔導具、流通経路。以上、証拠一式だ」


 王太子の顔色が変わる。

 リリアナが小さく震え、涙を浮かべる。


「わたし……そんな……。でも、でも……ミレイア様が怖くて……!」


 空気が、また泣きに引きずられかける。


 私は一歩前へ出た。

 ――黙らない。


「リリアナ様。怖かったのは本当でしょう」

「……っ」

「でも、その怖さのために、嘘の痕を借りた。そうですね」


 彼女が息を呑む。


「借りて、返した。証拠が揃えば、返せなくなるから」

「ち、違――」


 私は続ける。

 帳簿を掲げる。


「そして、王太子殿下」

「何だ」

「寄付金の流れが、殿下の私庫へ戻っています」


 ざわめきが、一段大きくなる。

 王太子が机を叩く。


「でたらめだ!」

「でたらめなら、説明できますよね。なぜ同じ経路を三度、同じ額が通ったのか」


 王太子の喉が、詰まる音がした。

 数字は嘘をつかない。


 私は、もう一歩だけ踏み出す。


「便利な言葉ですね。悪役令嬢」

「……」

「私にその役を押し付けて、殿下は何役でしたか。国の金を盗む主役ですか」


 議場が凍る。

 そして――次の瞬間、誰かが笑った。

 乾いた笑いが伝染し、空気が一気に王太子から離れていく。


 手のひら返し。

 でも今度は、私の側だ。


「……ミレイア嬢。説明を続けて」

 議長が言う。


 私は頷く。

 声が震えない。

 ――これが、三つ目の快感。


 結論は早かった。

 証拠が揃い、流れが確定し、鑑定が嘘を暴いた。


 リリアナは聖女候補の資格を剥奪。

 王太子レオナルトは不正送金の追及を受け、監視下に置かれた。

 侯爵家の連座も撤回され、私の追放も、当然のように覆った。


 私の名誉は、戻った。


 ◇


 評議会の帰り道。

 廊下は長く、窓から夕陽が差し込んでいた。


「終わりましたね」


 私が言うと、アルドリックは歩みを止めた。


「終わっていない」

「え?」

「契約の話だ」


 胸が跳ねる。

 あの紙の冷たさが蘇った。


「互いに干渉しない。情は求めない。私は、守られただけ」

「違う」


 彼は短く言う。


「君は私の領地を救った。私は君を救った。それだけなら契約で足りる」

「……」

「だが、今の私は足りない」


 氷色の目が私だけを捉える。

 逃げ道のない温度。


「ミレイア」

「はい」


「君に触れたい。君に笑ってほしい。君の明日を、私のものにしたい」

「公爵様、それ……独占欲です」

「そうだ」


 即答だった。

 私は笑ってしまう。

 こんな真面目な顔で独占欲を肯定する人がいるなんて。


「契約を更新する。情を求める。干渉する」

 アルドリックは続ける。

「君の名誉を守るだけでなく、君の心を守る。嫌なら断っていい」


 断っていい。

 その言葉が、胸の奥の結び目をほどいた。


 私は一歩近づき、彼の手を取る。

 冷たい指先が、今は怖くない。


「嫌じゃ、ありません」

「……」

「でも、公爵様。私も条件があります」

「言え」


 息を吸う。

 今度は逃げない。


「私の声を、もう奪わないでください」

「奪った覚えはない」

「私が黙ると、世界が勝手に決める。だから、公爵様が聞いて」


 アルドリックは少しだけ目を見開き、それから頷いた。


「聞く。何度でも」

「……なら」


 私は、はっきり言う。


「私は、あなたの妻でいたい。契約じゃなくても」


 彼の手が強く握り返してくる。

 その強さが、嬉しかった。


「よし」


 たった一言なのに、世界がひっくり返るほど甘い。


 アルドリックは手を離さないまま、内ポケットから小さな輪を取り出した。

 銀の指輪。派手ではない。

 けれど指に通した瞬間、魔力の温かさが肌に馴染む。


「仮ではない。これは契約の鎖じゃない」

 彼は真面目な顔で言う。

「君が逃げたい日に、逃げられる余白も含めた――私の約束だ」


 指輪を見つめるうち、喉の奥が熱くなった。

 拘束じゃない。尊重だ。


「ずるいです。そんな言い方」

「ずるくても、欲しいものは欲しい」


 夕陽が廊下を赤く染める。

 その赤はもう断罪の色ではない。

 私たちの未来の色だ。


 悪役令嬢なんかじゃない。


 私は、あなたに愛される私だ。


読んでいただき、ありがとうございます。


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