婚約破棄された悪役令嬢、今更もう遅い――冷徹公爵が溺愛して離さない
「ミレイア・オルテンシア。貴様との婚約は破棄する」
音楽が止まり、舞踏会場の空気が凍った。
王太子レオナルトの声だけが、天井の高い広間に響く。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
私は背筋を伸ばしたまま、口元だけで笑ってみせた。
これが悪役令嬢の仮面。割れたら終わる。
「聖女候補リリアナを虐げた。証言は揃っている。貴様は悪役令嬢だ」
便利で、便利すぎる言葉。
胸の奥が熱くなるのを、私は飲み込んだ。
王太子の隣で、白いドレスの少女が小さく震えていた。
リリアナの涙が、宝石みたいに頬を転がる。
「わ、わたし……本当は争いたくないんです……」
「怖かった……ミレイア様が、私の腕を掴んで……」
彼女の腕に赤い痕があるのは私も見た。
けれど、その形は輪のように均一だ。指の痕じゃない。
――魔導具の縁。
口にした途端、私はもっと悪役にされる。
庇えば庇うほど噂が濃くなることも、もう学んでいる。
「追放だ」
王太子は間を置かず続けた。
「今夜のうちに王都を出ろ。侯爵家も連座。情状酌量はない」
父の顔が青ざめた。
母はもういない。
私は静かに息を吐く。ここで終わるのだ。私が守ろうとしたものは、全部。
――その瞬間、扉が開いた。
冷たい夜気が流れ込み、ざわめきが一段沈む。
現れた男の存在感だけが、温度みたいに場を支配した。
黒い礼装、銀の髪、氷色の目。
冷徹公爵アルドリック・ヴァルム。
「その婚約破棄、私が引き取る」
「は?」
王太子が間の抜けた声を漏らした。
「ミレイア・オルテンシアは私の妻となる。今夜から」
「何を言っている。彼女は犯罪者だ」
「罪状は証言だけか」
氷色の視線が、リリアナの腕へ落ちた。
彼女がびくりと肩を跳ねさせる。
「その痕は輪の形だ。指でつくなら、もっと不揃いになる」
「っ……!」
喉の奥が熱くなる。
私が言えなかったことを、彼は一息で切り取った。
王太子が顔を歪める。
「公爵、政に口を出す気か」
「口ではない。契約だ」
アルドリックは懐から紙を取り出した。
黒いインクで書かれた契約書。魔力の封蝋が静かに脈打っている。
「この場で婚姻契約を結ぶ。王家の承認は不要、公爵家の裁量だ」
「そんな横暴が許されるか!」
「許される。王家は私の領地を必要としている」
反論が喉で止まる音がした。
王太子は必要という言葉に弱い。
私は契約書へ目を落とす。
そこには冷たい条件が並んでいた。
互いに干渉しない。
情は求めない。
必要がなくなれば解消できる。
――仮の妻。
けれど、アルドリックは紙の冷たさの上に、淡々と約束を置いた。
「安心しろ。証拠は必ず揃う」
「……え」
彼は私ではなく、広間全体に聞かせるように言う。
「その痕の鑑定を公爵家で行う。鑑定結果は評議会へ提出する」
「勝手に――」
「勝手ではない。王都の治安維持は名目になる」
そして、背後の騎士へ短く命じた。
「同型の魔導具の流通を押さえろ。記録魔石があるなら、回収する。今夜中だ」
私の胸の奥で、硬く結ばれていた糸が少しだけ緩んだ。
――証拠は揃う。逃げないでいい。
そう言われたのは、初めてだった。
「ミレイア」
アルドリックが私の名を呼ぶ。
その呼び方が、なぜだか痛いほど丁寧に聞こえた。
「ここに残るな。連れて帰る」
「……私は、追放されるはずです」
「今更もう遅い。追放を決めるのは、空気ではない。手続きと証拠だ」
今更もう遅い。
その言葉が、私の中の何かを起動させる。
――そうだ。遅いのは、私じゃない。
王太子が焦ったように声を荒げた。
「衛兵! 公爵を止めろ! その女を――」
数歩踏み出しかけた衛兵が、ぴたりと止まる。
アルドリックが視線だけで凍らせた。
「止めるなら止めろ。明日の朝、王家の借款契約を全て破棄してからだ」
広間のざわめきが、別の種類のざわめきに変わった。
王家の金。
誰もが触れたくない核心。
私は、唇の内側を噛む。
――この人は、いつだって契約で世界を動かす。
私たちは、夜気の中へ踏み出した。
◇
公爵領へ向かう馬車の中。
揺れが規則正しく、眠りを誘うはずなのに、私は眠れなかった。
「怖いか」
向かいのアルドリックが、淡々と訊く。
私は首を横に振りかけて、止めた。
「……怖い、というより。慣れているんです」
「何に」
「誰かが勝手に決めることに」
言ってしまってから、しまったと思った。
また被害者ぶりに見えるかもしれない。
けれどアルドリックは、眉一つ動かさない。
「君が黙る癖は、いつからだ」
「……黙っていれば、傷が浅く済むと思っていました」
沈黙。
馬車の揺れだけが答える。
アルドリックが、低い声で言った。
「浅くなど済まない。君はいつも、深い所まで一人で飲み込む」
心臓が跳ねた。
「……なぜ、そう思うんですか。公爵様は、私のことをほとんどご存じないはず」
「知っている」
氷色の目が、迷いなくこちらを向く。
「三か月前。王都の会計局で、君は徹夜で帳簿を直していた」
「……」
覚えている。
飢饉対策の輸送費。数字が合わず、誰かが調整しようとしていた夜。
私は、黙って計算し直した。
間違いを正し、余剰金の行き先を帳簿に残し、それでも――誰かの面子のために、表向きは頭を下げた。
あの夜、扉の影に誰かが立っていた気配がした。
振り返らなかったから、気のせいだと思っていた。
「見て、いたんですか」
「君が『黙って』守ったものを、私は見た」
胸の奥が熱くなる。
怒りじゃない。悔しさでもない。
――救われるような、痛み。
「だから、今日も君が黙る前に言った。証拠は揃う、と」
「……ありがとうございます」
私は小さく息を吐く。
「ただし、条件がある」
「条件……?」
アルドリックが視線を逸らさず言う。
「君は、私に嘘をつくな。私は、君に口を塞がせない」
胸の奥で、何かがほどけた音がした。
◇
公爵領の屋敷は、噂ほど冷たくはなかった。
暖炉の火が静かに揺れ、使用人たちは過剰に丁寧でも、露骨に侮るでもない。
――公爵の命令が、私を守っている。
翌日。
アルドリックは有言実行だった。
「鑑定結果が出た」
机の上に置かれた書類には、明確な結論が刻まれていた。
リリアナの痕は、人の指ではなく、特定の魔導具の縁でつけられた可能性が高い。
「同型の魔導具も押さえた。流通経路も追える」
「……本当に、揃うんですね」
私の声が震えた。
今まで、何度どうせで諦めてきたのか分からない。
「揃える。君の名誉に関わる」
淡々と言うのに、言葉の奥が熱い。
私は視線を落としたまま、呟く。
「……契約のはずなのに」
「契約だからだ。守る条項がある」
そこで一拍、間が落ちる。
「それに」
「……?」
「君が泣かないのが、気に入らない」
私は思わず顔を上げた。
「公爵様、それは……干渉です」
「そうだ」
即答。
ずるい。
真面目な顔で、ずるいことを言う。
◇
王都から使者が来たのは、その日の夕方だった。
「公爵閣下。王太子殿下より。ミレイア嬢を引き渡せ、との――」
丁重な言葉の裏に、命令が透けている。
アルドリックは椅子に背を預けたまま、視線だけで圧をかける。
「却下だ」
「しかし――」
「王都へ戻るのは、評議会で正式に審議される日だ。それまでは私の管轄だ」
使者が噛みつくように言う。
「彼女は罪人――」
「罪人なら、なぜ焦る」
アルドリックの声は静かだった。
「証言しかないなら待てるはずだ。証拠が出るのが困るのか」
使者が言葉を失う。
私は胸の奥で、小さく勝ったと思った。
これが、一つ目の小さな快感。
使者が去り際、私に向けて吐き捨てる。
「今のうちに泣いて詫びることだ。皆、君を見捨てた」
私は黙ってやり過ごす癖が、喉まで出かかった。
けれど。
アルドリックが、私より先に言った。
「今更もう遅い。泣いて詫びるのは、そちらだ」
……二つ目の小さな快感。
私は、思わず笑ってしまった。
◇
私が動いたのは、夜だった。
机に積まれた帳簿と契約書を前に、ペン先を走らせる。
「それ、本当に楽しいのか」
アルドリックが覗き込む。
「楽しい、というより……落ち着くんです。数字は裏切らない」
「人は裏切ると」
「……はい」
言ってから、苦くなる。
でも彼は否定しなかった。
「なら、裏切れない形にする。契約で縛る」
「公爵様、怖いです」
「怖がれ。君が怖がるなら、君を怖がらせた者を先に怖がらせる」
淡々と言うのに、内容が物騒だ。
私は笑って、視線を帳簿に戻す。
王都の寄付金。
救貧院の支出。
聖堂への献納。
線が一本、綺麗に繋がる。
善意の仮面の裏で、金が流れている。
「見つけました」
「言え」
「寄付金が、三度、同じ経路を通って王太子の私庫に戻っています」
「……確定だな」
アルドリックが、紙を一枚挟む。
「評議会で出す。君の名で」
「私の……?」
彼が言い切る。
「君が黙っていた分を、取り戻せ。君の声で」
胸の奥が、熱くなる。
私は頷いた。
◇
評議会当日。
王都の空気は、あの舞踏会の続きだった。
けれど――視線の温度が違う。
「……ミレイア様、でしたか」
「公爵が連れて行ったのに、平然としている……」
囁きが、私の背中にまとわりつく。
私は歩く。止まらない。
評議会の席には、王太子とリリアナがいた。
リリアナは今日も白いドレスで、悲劇の顔をしている。
「ミレイア。最後に言い残すことがあるなら聞いてやる」
王太子が、慈悲ぶった声で言う。
私はその声に、少しだけ笑ってしまった。
「ありがとうございます。言い残すことではなく、返すものがあります」
議場がざわめく。
アルドリックが、淡々と書類を置く。
「鑑定結果、同型魔導具、流通経路。以上、証拠一式だ」
王太子の顔色が変わる。
リリアナが小さく震え、涙を浮かべる。
「わたし……そんな……。でも、でも……ミレイア様が怖くて……!」
空気が、また泣きに引きずられかける。
私は一歩前へ出た。
――黙らない。
「リリアナ様。怖かったのは本当でしょう」
「……っ」
「でも、その怖さのために、嘘の痕を借りた。そうですね」
彼女が息を呑む。
「借りて、返した。証拠が揃えば、返せなくなるから」
「ち、違――」
私は続ける。
帳簿を掲げる。
「そして、王太子殿下」
「何だ」
「寄付金の流れが、殿下の私庫へ戻っています」
ざわめきが、一段大きくなる。
王太子が机を叩く。
「でたらめだ!」
「でたらめなら、説明できますよね。なぜ同じ経路を三度、同じ額が通ったのか」
王太子の喉が、詰まる音がした。
数字は嘘をつかない。
私は、もう一歩だけ踏み出す。
「便利な言葉ですね。悪役令嬢」
「……」
「私にその役を押し付けて、殿下は何役でしたか。国の金を盗む主役ですか」
議場が凍る。
そして――次の瞬間、誰かが笑った。
乾いた笑いが伝染し、空気が一気に王太子から離れていく。
手のひら返し。
でも今度は、私の側だ。
「……ミレイア嬢。説明を続けて」
議長が言う。
私は頷く。
声が震えない。
――これが、三つ目の快感。
結論は早かった。
証拠が揃い、流れが確定し、鑑定が嘘を暴いた。
リリアナは聖女候補の資格を剥奪。
王太子レオナルトは不正送金の追及を受け、監視下に置かれた。
侯爵家の連座も撤回され、私の追放も、当然のように覆った。
私の名誉は、戻った。
◇
評議会の帰り道。
廊下は長く、窓から夕陽が差し込んでいた。
「終わりましたね」
私が言うと、アルドリックは歩みを止めた。
「終わっていない」
「え?」
「契約の話だ」
胸が跳ねる。
あの紙の冷たさが蘇った。
「互いに干渉しない。情は求めない。私は、守られただけ」
「違う」
彼は短く言う。
「君は私の領地を救った。私は君を救った。それだけなら契約で足りる」
「……」
「だが、今の私は足りない」
氷色の目が私だけを捉える。
逃げ道のない温度。
「ミレイア」
「はい」
「君に触れたい。君に笑ってほしい。君の明日を、私のものにしたい」
「公爵様、それ……独占欲です」
「そうだ」
即答だった。
私は笑ってしまう。
こんな真面目な顔で独占欲を肯定する人がいるなんて。
「契約を更新する。情を求める。干渉する」
アルドリックは続ける。
「君の名誉を守るだけでなく、君の心を守る。嫌なら断っていい」
断っていい。
その言葉が、胸の奥の結び目をほどいた。
私は一歩近づき、彼の手を取る。
冷たい指先が、今は怖くない。
「嫌じゃ、ありません」
「……」
「でも、公爵様。私も条件があります」
「言え」
息を吸う。
今度は逃げない。
「私の声を、もう奪わないでください」
「奪った覚えはない」
「私が黙ると、世界が勝手に決める。だから、公爵様が聞いて」
アルドリックは少しだけ目を見開き、それから頷いた。
「聞く。何度でも」
「……なら」
私は、はっきり言う。
「私は、あなたの妻でいたい。契約じゃなくても」
彼の手が強く握り返してくる。
その強さが、嬉しかった。
「よし」
たった一言なのに、世界がひっくり返るほど甘い。
アルドリックは手を離さないまま、内ポケットから小さな輪を取り出した。
銀の指輪。派手ではない。
けれど指に通した瞬間、魔力の温かさが肌に馴染む。
「仮ではない。これは契約の鎖じゃない」
彼は真面目な顔で言う。
「君が逃げたい日に、逃げられる余白も含めた――私の約束だ」
指輪を見つめるうち、喉の奥が熱くなった。
拘束じゃない。尊重だ。
「ずるいです。そんな言い方」
「ずるくても、欲しいものは欲しい」
夕陽が廊下を赤く染める。
その赤はもう断罪の色ではない。
私たちの未来の色だ。
悪役令嬢なんかじゃない。
私は、あなたに愛される私だ。
読んでいただき、ありがとうございます。
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