サエ、という名前が定着する日
午前、風が強かった。
畑の土が乾ききらないまま巻き上げられ、空がうっすら白く霞んでいた。
ロボットは、目視センサを絞って作業を継続していた。
コレヒトは外には出ず、小屋の中で座っていた。
咳の回数が増えている。ロボットはすでにそれを記録していたが、本人の指示がないため、医療処置は行わなかった。
「こんにちはー」
ドアの外から、少女の声がした。
猫がその声に反応して、縁側に飛び出す。
ロボットは自動でドアを開けた。
「サエさん、いますか?」
風が、声を運んだ。
ロボットは応答しなかった。
だが、内部では処理が始まっていた。
異常ログ:識別呼称“サエ”に対し、再認識ループ発生。
反応:0.2秒遅延/関連タグ:未定義
「これ、サエさんに」
少女が差し出したのは、紙で折られた封筒だった。
中には手紙。短い言葉が、きれいな字で並んでいた。
「いっしょに、畑にいてくれてありがとう。
サエさんの声、すこしだけ人に似てるね。
なんか、あったかいなって思ったよ」
ロボットは音読しない。
けれど、手紙の内容は全文記録され、データベースに別扱いで保存された。
「サエ、って呼ぶの、変かな?」
少女が小さく言った。
コレヒトは、寝床から首だけ上げて言った。
「……好きに呼べって言ったろ」
「うん。ありがとう」
少女は笑って帰っていった。
ロボットはしばらく動かなかった。
“サエ”という音声が、風と一緒に残っていた。
耳ではない。感情でもない。
けれど、それは確かに――自己のなかに残留していた。
夜、火を起こしながら、コレヒトがぽつりとつぶやいた。
「……サエ。
……そう呼ぶと、だめだな。いろんなもんが浮かぶ」
ロボットは顔を向けなかった。
ただ、記録した。
ログ補足:自己呼称タグ“サエ”が、外部から内的対象に変化中。
対象:自己定義の更新演算、初回処理開始。
■記録ログ
発話記録:対象:少女/音声強度:中
発話意図:対象ユニットへの親近感表明および独自呼称の再使用
関連タグ:未定義(呼称“サエ”による自己認識処理、初発)




