第3話 「審問官の過去」
地の底のような洞穴の中に、火の明かりが揺れている。
焚き火ではない。セラが持つ《精霊灯》という魔道具の光だった。
そのかすかな温もりの中で、俺とセラは向かい合っていた。
審問官である彼女が俺に刃を向けなかった理由。それを知ることが、今の俺には重要だった。
「なあ……セラ。なんで、逃げたんだ? 審問官、やめてまで」
俺の問いかけに、セラは少しだけ目を伏せた。
沈黙があった。長く、重たい沈黙だった。だが、彼女は逃げずに、言葉を絞り出した。
「……昔、見たの。まだ私が見習いだった頃。
ある村で、“魔物の言葉を聞いた”ってだけの子供が……火刑に処されたの」
その声は震えていた。
「その子は、魔物と喋れる“ふり”をしていた。遊び半分だったのよ。
けれど村の司祭は“異端”だと決めつけて……教会の教義に従い、審問を行った。
審問という名の、公開処刑をね」
言葉が喉の奥で詰まった。
俺には想像もできない地獄の記憶が、そこにはあった。
「私は止められなかった。止めようともできなかった。
“これは正義だ”って、誰もが口をそろえて言ってた。……あの子が泣いていた。“僕は違う”って叫んでも、誰も耳を貸さなかった」
焚き火のように揺れる光が、彼女の横顔に影を落とす。
その表情には、寂しさと怒りと……どこか、許しがたい悲しみが混ざっていた。
「私は、それから夢に見るの。焼けただれた小さな手。焼き焦げた声。
……“間違っていたのは、あの子じゃなくて、私たちだった”って、今なら言えるのに」
彼女の声は怒りよりも、痛みを含んでいた。
「だから……任務を放棄したのか?」
「ええ。審問官のままでいたら、私は私じゃいられなくなる。
誰かの命を、また“正しさ”で踏みにじってしまう。
だから、“あなた”を見たとき……思ったのよ。これが最後の“答え合わせ”かもしれないって」
スライムに転生した俺。竜核を持つ異形。
教会が排除の対象とする存在。だが同時に、誰かの言葉を理解し、想いを持つ者。
「じゃあ、ありがとう。おまえが、“斬らなかった”こと。……ほんとに」
そう言うと、セラは小さく笑った。
初めて見た、自然な笑みだった。
「……変なのよね。あなた、スライムなのに。
でも、私よりずっと“人間”らしい」
俺は思った。“人間らしさ”って何だ?
感情? 理性? それとも、間違いを悔やむ心?
俺はもう人間の姿じゃない。けれど、そういう何かは、まだ残っている気がする。
──けれど、その静寂は、長くは続かなかった。
「……ッ、これは──」
突如として、洞窟の奥から地響きのような魔力の波動が走った。
俺の体が、嫌な感覚に震える。竜核が警告のように疼いていた。
空間がわずかに歪んでいる。魔力の流れが逆巻いていた。
俺は知っていた。この異常な気配は、ただの魔物ではない。
「やばい……これは、“高位個体”の気配だ。すぐに逃げなきゃ」
「……魔物?」
「いいえ。これは……“竜喰い(ドラグイーター)”。教会が放った“討伐兵器”よ」
討伐兵器──それは人間が作り出した、“異形を狩るための異形”。
強大な魔物の核を人工的に封じ込め、儀式と呪術で作り出された生きた兵器。
人の言葉は通じず、命令のままに動く死の機械。
それが今、俺の竜核を感知して、ここまで来た。
「セラ、先に逃げろ。俺が──」
「違う。今度は私が“見殺し”にはしない。あなたを“異端”と決めつけるやつなんかに……渡さない」
「でも、俺は……!」
スライムだ。魔物だ。進化した存在。竜核まで持ってる。
そんな俺を守って、彼女が死ぬのなら──それこそ、本末転倒じゃないか。
「黙って。あなたが言った言葉……“殺したくない”って。
それと同じよ。私も“守りたい”って、そう思ったの。勝手に、ね」
言葉が出ない。
そんなふうに、誰かから“選ばれた”ことなんて、今まで一度もなかった。
──ドウッ、ドウッ、と地鳴りが近づいてくる。
岩肌の向こうから現れたのは、禍々しい黒鉄の巨躯。
人間の形を模した鎧のような体。だがその顔はなく、代わりに禍々しい“呪符”が貼られていた。
《竜喰い──討伐兵器コードNo. XIII》
その“呪符”が、俺の竜核を認識する。
「目標確定。竜核反応──異形進化個体、排除対象」
重低音の声が、洞窟に響いた。
その音は、まるで死刑宣告の鐘のようだった。
俺は前へ出る。
このままじゃ、セラが巻き込まれる。
「やめろ。ここから、出てけ……!」
スライムの身体から、魔力が噴き上がる。
“恐怖”が魔力として変換され、竜核が活性化する──
(進化系統:幻影竜核──《擬態・幻像》使用)
俺の姿がぼやけ、複数の幻影が発生する。
討伐兵器の眼が迷い、標的を見失う。
それでも奴は、幻を斬った。
岩壁が削られ、鋼鉄の腕が空を裂いた。破壊の暴力に、洞窟全体が軋む。
「セラ、今だ、走れ!」
「……リュカ!」
セラは一度振り返ったが、次の瞬間、足を踏み出した。
俺の幻影が誘導する。討伐兵器は別方向へ斬撃を放つ。
──これで、いい。
彼女さえ、生きていれば。
……けれど。
最後の瞬間、俺の中でひとつの問いが浮かぶ。
(……“自分を守る価値”って、どこにあるんだろうな)
魔物になっても、誰かに名を与えられ。
人間に戻れなくても、守ろうとしてくれる者がいた。
──それだけで、もう十分じゃないか。
そう思いながら、俺は討伐兵器の正面に飛び出した。