第2話「邂逅と選択」
薄暗い洞窟に、乾いた靴音が響く。
「……また、迷ったかしら」
少女の声だった。
年の頃は十代後半か、それより少し下か。
落ち着いた声色だが、どこか疲れを滲ませていた。
俺は、洞窟の岩陰に潜みながらその姿を観察していた。
透明に近い粘体の身体を岩の凹みに沿わせ、気配を殺す。
(……人間だ)
それは間違いなかった。
スレンダーな身体に黒いローブ。金属の装飾が袖にあしらわれ、胸元には紋章が刻まれている。
その装飾の形は──剣と鱗。
この世界の〈異端審問官〉に属する教団騎士団の紋だった。
(審問官……か)
俺は脳裏に浮かんだ情報を整理する。
この世界では、人間たちは“異形”を恐れ、狩る。
とくに教団は、異形存在──特に竜種や、それに連なるモノへの忌避と敵意が強い。
その彼女の眼前に、俺はいる。
進化種《変性竜核スライム》。
竜核を内包する異常個体。
彼女の目には、即座に「敵」と映るはずだ。
(だが……まだ気づいていない)
身体を緊張させたまま、俺は彼女の行動を見守る。
少女は、洞窟の奥を見つめながら、静かに剣を抜いた。
細身の剣。審問官にしては軽装すぎる武装だが、彼女の動きに無駄はなかった。
「……瘴気が濃い。何かが進化した痕跡……?」
小さく呟く声。だが、耳がなくても聞き取れた。
俺のスライムとしての感覚は、人間だったころよりも鋭くなっている。
(やはり、気づいてる)
俺の存在には、まだ気づいていない。
だが、“何かがいる”という本能的な違和感には、彼女も勘づいている。
動けば、即座に気取られる。
殺されるか、逃げ出すか。
どちらにせよ、平穏な出会いなど望めない。
(逃げるか……?)
「……また、進化失敗個体じゃないでしょうね。爆発なんて、勘弁して」
(進化失敗……? 過去にも、同じような個体が?)
その瞬間、俺の中にもう一つの選択肢が浮かぶ。
(──話す、か)
今の俺は、人語を発するスキルを持っている。
《擬似声帯生成》──進化の代償に得た、わずかな“人間性の再現”。
使えば、“対話”が可能になる。
だが、同時に“魔物の喋る声”など、審問官にとっては即ち“異端の証”。
話せば、殺される。
(……それでも、やるのか?)
俺は、自分に問いかけた。
このまま逃げ延びて、また孤独に潜むか。
それとも、今この場で、命を懸けてでも“自分”を証明するか。
──答えは、すぐに出た。
俺は、粘体の一部を震わせ、音を作った。
「……ま……て……」
少女が、動きを止めた。
明確な敵意。
剣が、一瞬で構えられる。
「誰……だ?」
「……まもの、だ」
沈黙が落ちる。
少女は、剣を構えたまま、じりじりとこちらをうかがっていた。
まるで、今にも斬りかかる寸前の獣のように。
「……魔物が、言葉を?」
「……まれ、に……ある。知ってる、はず」
「知ってるわ。だが……それが、“理性”を持つという証明にはならない」
俺は、声の震えを抑えながら、さらに言葉を続けた。
「……おれ、にんげん、だった」
「……!」
彼女の目が、わずかに揺れる。
「それは……どういう……」
「しんだ。きおく……あいまい。でも、わかる。おれ……“ヒト”だった」
セラと名乗った彼女は沈黙した。
しばしの後、ぼそりと呟いた。
「この世界では……まれに、魂が“ずれて”転生することがあると記録されているわ。
けれど、それが魔物になるなんて──とても、正規の教義では認められない」
教義。
それはこの世界の人間社会を束ねる〈大聖教会〉の思想体系。
彼らは“神意に従わぬ存在”を異端とし、魔物を“堕落した魂”と定義している。
異形。
竜種。
魔核を持つ者。
そして……進化する魔物。
そうした存在は、全て“人としての資格を失った”とされ、討伐対象となる。
「……あなたのような個体は、正式には“竜核異形体”と分類される。
竜に連なる魂を持つ異形、つまり“神敵”……」
(神敵──この世界における、最大の侮蔑)
俺の中にある“竜核”が、彼女の言葉に反応するように微かに震えた。
「……それでも、おれ、ころしたくない。おまえも」
少女の目が細められる。
その瞳には、憎悪でもなく、疑念でもなく──試すような色が浮かんでいた。
「……じゃあ、証明して。あなたが“ただの魔物”じゃないってことを」
「どうやって……?」
「そうね──じゃあ、“名前”を教えて。あなた自身が、それを選んで」
名前。
俺は一瞬、思考を止めた。
人間だったころの名前──思い出せない。
記憶は曖昧で、まるで霧に包まれている。
けれど、何か。自分だけの、証となるもの。
──思い浮かんだのは、かつての夢の中で繰り返し見た“龍”の姿。
全てを焼き払い、空を翔ける存在。
それに憧れていた、気がする。
「……リュカ。……おれの、なまえ」
少女は、じっと俺を見た。
数秒、数十秒──永遠にも感じる沈黙ののち、彼女はようやく剣を納めた。
「……セラ。私はセラ=ユリアン。異端審問官……だけど、今は任務放棄中」
「にんむ、ほうき……?」
「ええ。逃げてきたのよ、こんな地の底まで。
教義も、命令も、私にはもう……意味をなさない」
彼女の声には、自嘲のような苦味が混じっていた。
「……じゃあ、“リュカ”。私に同行して。しばらく、様子を見させて」
「……いい。おれも、しりたい。この世界。おれ、じしん」
小さな、奇妙な同盟が、そこに生まれた。
異形のスライムと、異端を狩る審問官。
交わるはずのない存在が、出会ったその夜。
運命の歯車は、静かに動き出した。