第1話「目覚め、名もなき生」
暗い。
冷たい。
痛い。……はずだった。
目を開けた気がした。だが、何も見えなかった。
暗闇が、目の前どころか頭の奥まで染み込んでくるような感覚。
(……ここは、どこだ?)
何も見えない。何も聞こえない。
それでも、俺は確かに“在る”という実感を持っていた。
浮かんでは消える思考。
散り散りになった記憶の断片。
かつて誰かだったはずの“俺”は、今、何者かとして、ここに存在している。
──いや、待て。身体が、ない。
腕もない。足もない。
視覚も聴覚も曖昧なまま、ただぬるりとした“何か”として、俺は生まれ落ちた。
それはスライムのようだった。
粘液質の柔らかな肉体。一定の形すら持たず、ただ地面を這うように存在している。
だが、それでも“思考”は残っていた。
(……転生?)
その言葉が浮かんだ瞬間、脳内──いや、魂に直接響くように情報が流れ込んできた。
【種族:無名スライム】
【魂構造:外来個体認証】
【現地転生因子:確認済】
【竜核断片:未定義・高リスク要素として封印中】
情報の奔流。まるでOSが起動するように、理解が押しつけられてくる。
ここは異世界。俺は死んで、再構成された魂としてこの世界に“転生”した。
だが、選ばれたのは人間でも、英雄でもない。
スライム──最底辺の魔物。
しかも、通常とは異なる“異常個体”。
(……ふざけんな。何で俺が、こんな……)
怒りが浮かぶ。だが感情を発散する術もない。
怒鳴る口も、叩き壊す腕も、俺にはない。
ただ、静かに怒りを飲み込み、存在し続けるしかない。
──時間の感覚が曖昧だった。
どれだけ経ったのかはわからない。
だが、少しずつ、俺は“感覚”を手に入れていった。
岩の冷たさ。水の湿り気。魔力の流れ。
音すら持たぬ空間で、俺の“意識”は鋭く研ぎ澄まされていく。
ここはダンジョンのようだった。
広がる洞窟。湿った空気。生臭い腐臭。
誰かの、あるいは“何か”の足音が、時折遠くで響いていた。
(この世界には、俺以外にも……“生き物”がいる)
そのときだった。
ぬるりとした身体の端が、何かに触れた。
──肉の匂い。血の臭い。腐敗と生の入り混じった、嫌な感覚。
視覚のない俺にも、それが死骸だとわかった。
魔物《迷い子ラット》の死体だった。
ネズミのような魔物。小さく、だが獰猛で、洞窟内ではよく見られる低級種。
(喰え、というのか?)
どこかから指令のように、本能が告げていた。
生き延びるには、喰らえ。
力を得たければ、取り込め。
それが、この世界における“魔物”の生き方だった。
(……俺は、そんなふうに生きるのか?)
葛藤があった。
嫌悪も、恐怖もあった。
だが、それを超えて、俺の中にはどうしようもない飢えがあった。
空腹とは少し違う。
まるで魂が“欠けている”ような渇き。
それを埋めるには、喰うしかない──そう感じていた。
(……仕方ない、よな)
誰に言い訳するでもなく、そう呟いた“気”がした。
そして俺は、死体に粘体を伸ばした。
ぐちゅり。
内臓を潰す音が響く。
喰らう。
喰らう。
喰らって、生きる。
【スキル《捕食》発動】
【《迷い子ラット》を捕食しました】
【特性:《暗視(微)》を獲得】
【進化値:+1.0%】
脳が焼けるような感覚と共に、何かが身体に染み込んでくる。
(力……?)
見えなかったものが、わずかに“見える”ようになる。
気配が、濃淡を持って感じられるようになる。
まるで、世界が一段階“開いた”ような感覚。
これは進化──“変化”だ。
【進化補正が閾値に到達】
【進化可能──選択肢開示】
選択肢が浮かぶ。脳内、または魂に。
●《暗黒粘体スライム》──夜間視覚・探知能力強化
●《腐食性ゲルスライム》──捕食性能強化・腐食液生成
●《変性竜核スライム(芽)》──竜核因子による高リスク進化
一目で理解した。
最後の選択肢は、“普通”じゃない。
竜核──未知の、何かが眠っている。
強大な力かもしれない。あるいは、破滅かもしれない。
(だが……)
この身体に生まれた時点で、俺に“普通”を選ぶ資格などない。
(やるなら……振り切れ)
【進化選択:《変性竜核スライム(芽)》】
【進化開始──魂構造を再定義中……】
猛烈な熱。
意識が引き裂かれる。
この粘体の身体で感じるには強すぎる痛み。
存在そのものが分解され、再構成されるような異常感覚。
【進化完了】
【変性竜核スライム(芽)へ進化】
【新スキル:《竜核共鳴》《擬似声帯生成》を獲得】
【竜核共鳴率:16%】
中心に、“核”のようなものが宿った。
それが、俺の本体だと本能が理解していた。
同時に、そこに“狂気”のような何かが宿っているのも、感じ取っていた。
「──っ、しゃべれ……る?」
空気が震える。声が出た。
粘体のどこかが微細に振動し、人の言葉を生み出していた。
言葉。
それは、人間だった頃の名残。
(まだ……俺は、“俺”か?)
それがいつまで保てるかわからない。
進化を重ねれば、いずれ理性も喰われるかもしれない。
人である“記憶”さえ消える日が来るかもしれない。
──だが、それでも、今はまだ。
俺は“俺”だった。
そして──遠くで、足音がした。
カツ、カツ、と軽い靴音。
人のものだ。それも、かなり小さな個体。
子供? 少女? こんな場所に?
警戒心が膨らむ。
この姿を見れば、間違いなく“魔物”として認識される。
友好など期待できない。
生き残るには、殺すしかない。
あるいは──それでも、“何か”を信じてみるか?
迷いのまま、俺は洞窟の陰に身を潜めた。
初めての“出会い”が、もうすぐそこに迫っていた。