プロローグ前編
生まれ落ちたのは、命の腐る音がする場所だった。
暗く、冷たい。
世界の輪郭すらわからない。
だが確かに“何か”が、蠢いていた。
それは粘液の塊。
形も、言葉も、記憶すらない。
ただ、生きていた。
(……なぜ、俺は……ここに……?)
粘液が脈動する。意識が生まれる。
記憶のようなものが、泡のように浮かんでは、消える。
人だったはずだ。
名も、顔も、もう思い出せない。
けれど、確かに“誰か”だった。
《転生個体、起動確認》
《種族:竜粘獣(スライム系)/Fランク魔物》
《特典スキル確認──魔力感知Lv1/情報解析Lv1/精神耐性Lv1》
《特殊因子:竜核因子(封印中)》
《人間時記憶──封印済/感情残滓:微弱》
“転生”――その言葉に、奇妙な既視感を覚える。
(またか……)
それが何度目の死だったのか、何度目の誕生だったのか。
もう、覚えていない。
ただ、今の自分が「人ではない」ということだけが、はっきりしていた。
ズルリ、と音がする。
自分の体が地面を這う。
感覚は異常に鋭い。腐った空気の振動すら皮膚で感じ取れる。
(俺は……生きている?)
そう思った瞬間だった。
何かが“視えた”。
目はないはずなのに、感知する。
魔力の粒が空間に漂い、いくつかは腐肉の塊となって横たわっている。
《死体:腐敗個体》
《捕食可能対象──進化ゲージ上昇見込み:11%》
喰え、と本能が囁いた。
それがこの世界の“ルール”なのだろう。
喰わねば、喰われる。
それだけの場所。
だが。
(いやだ……)
何かが、心の中で叫んでいた。
抵抗するように震える。
かつて、自分は人間だった。
血の通った身体を持ち、声を持ち、誰かを想っていたはずだった。
その記憶の“匂い”が、今の粘液の体には耐え難かった。
(どうして俺が……こんな……)
選んだわけじゃない。
望んだわけでもない。
それでも、今この身は、死肉に這い寄るしかなかった。
「ごめん……」
口などないはずなのに、声が漏れた気がした。
ズブ、と柔らかい音。
腐った肉に身体を溶け込ませる。
苦味と酸味と、死の味。
《捕食成功──変質進化ゲージ:+11%》
《スキル取得:腐食耐性Lv1/夜目Lv1》
得たものは力。
失ったものは、良心だったのかもしれない。
(……人に戻れる日は、来るのか)
その問いに、誰も答えてはくれない。
ただ、腐敗の匂いだけが辺りに満ちていた。
──それでも。
喰って、生きて、生き延びて。
いつかまた、“人”でありたいと、そう願っていた。