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1話


 ある寒い冬の日の日曜だった。


 彼女は一人、いつものピンクのコートに去年のボーナスで買ったブランドの帽子をかぶり、電車に乗って街へ買い物に出かけていた。

 

 一人で出かけるのは特別な事では無い。夫婦でありながら、むしろ外出は別々なことが多い。


 柴田は近所の古本屋へ、圭子は街へ買い物。そんな何時もの休日の過ごし方に彼女は、何の疑問も抱いてはいなかった。


 街に着き、電車を降りた圭子が何気に空を見上げた。するとその寒い札幌の冬の日の空は、一面を薄い鉛色の雲がどんよりと覆ってた。彼女には、そこからいずれ落ちてくる雪が白いとはとても思えなかった。


 そしてその空一面を厚く覆った薄い鉛色の雲の切れ間からは、時折力ない光がキラキラと圭子に向かって差し込んで来る。


 札幌の季節はもうすでに冬なのだ。しかしまだ雪は全くない。


 最近は、なんだか季節がずれ込んでしまったかの様に、冬の到来がいやに遅く感じられた。



  しかし必ず雪は降る。しばれる冬がわれわれを待ち受けている。



 圭子は買い物を手早く済ませると何時もの喫茶店で、コーヒーを飲むことにした。そこの喫茶店のコーヒーは、非常においしいと評判らしい。


 しかし圭子にはその喫茶店のコーヒーの味がまったく理解できなかった。でもやっぱり彼女はその喫茶店に行ってしまう。コーヒーの美味しい喫茶店に行ってしまう。



   なぜなのか・・・・。



 店に入って店内を見渡すと、理解できないが柔らかな印象が彼女の目に映った。


 それは彼女の目にはまるで全く知らない未知の世界、古典的なヨーロッパの芸術の様に映った。


 店内に流れる穏やかな音楽も、曲名は分からなかったが彼女の胸には心地よかった。


 そして店内のその芸術的な様相が彼女には自分にフイットする様な気がしていた。(あくまでも気がしていただけである)


 彼女にとって、柴田と一緒に暮らす野暮な3dK、家賃55000円の部屋よりずっと居心地が良かった。


 圭子はいつも外の景色が見える一番後ろの席に、壁に向かい横に荷物を置いて、ゆったりと座った。


 するといつもの店員が、後ろから彼女のテーブルに素早く近づいてきた。


 目つきの悪い、いつもの中年の女性店員だ。


 年齢に合わない短いスカートをはいているが、これもいつもと同じだった。


 圭子がブレンドコーヒーを注文しようとすると、「本日のおすすめはブラジルです」と彼女が言った。

 

 一瞬迷ったが、圭子はやはり飲みなれたブレンドを注文した。(本当はどっちでも同じだと思ったのだ)



 ゆっくりと足を組みなおし、彼女は奥の壁にかかっている絵を何気に見た。


 フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」


 彼女はその絵の名前も、誰の描いた絵かも知らなかった。


 絵を見つめても彼女は何も思わなかった。



 しばらく待つと、目つきの悪い女店員がゆっくりとコーヒーを運んできた。


 彼女は「お砂糖はご自由にお使いください」ニコリともせずにそう言って、無造作にコーヒーをテーブルに置いていった。

 

 壁にかけられた絵を見つめながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。


 ただ苦く感じたが、これがおいしいコーヒーだと言い聞かせるように飲んだ。


 彼女はコーヒーカップを置くと、右手の肘をテーブルにつき、掌に顎を乗せ、大きくため息をついた。


 何となく窓の外を見つめると、茶色く枯れてかすれた様な色の寒そうな北風に道行く人が揺れていた。


 それを眺めながら桂子は柴田の事を考えかけた。


「何をしているのだろうか」


 桂子は少し気になったがやっぱり考えないことにした。


「おそらく彼も、自分の事を考えてはいない」


 彼女はそう思った。



 道路には家族ずれが歩いていた。


 時計をみると3時を過ぎている。


 まだ大丈夫だろう。


 何となくそう思いつつ、外の並木を見つめて冷めかけたコーヒーを飲んだ。


 やはりコーヒーは苦かった。



 しばらくすると、はでな帽子をかぶり、この寒い季節に合わない赤く短いスカートをはいて女が歩いてきた。


 よくみると見慣れた顔、同じ会社の美千代だ。


 圭子が何げなく美千代に向かって手を振ると、素早く彼女が店に入ってきた。


 別に美千代に用があったわけではない。


 美千代は店に入ってくると、圭子の向かいに腰を掛け、圭子に挑戦するように細く長い足を組んでみせた。


 その足を見た男はドキッとするに違いない。


 しかしこの季節にその短いスカート、寒くはないのかと圭子は不安に思ったが黙っていた。


 彼女は思わず手を振ってしまったことを後悔した。


 圭子は、冷めたコーヒーを口に運びながら、


「一人なの?」


彼女はぼんやりと聞いた。


「主人が子供を連れて買い物に行ってくれたから、久々にフリーの身なの。圭子も一人なの?」


 美千代は、そういうと、近づいてきた目つきの悪い女店員を追い払うように、手を振りコーヒーを注文した。


 美千代はブラジルを注文した。


 圭子はカップをテーブルに置き、少し間を置いてから少し寂し気に答えた。


「うちは休みの日は、だいたい別々」


 彼女は何となく美千代が羨ましく感じた。 


「いいわね、そのうち子供ができるとそうともいかなくなるわ」


 独り言のように美千代が言った。


 圭子は美千代のその子供という言葉を聞いてどきりとした。


 彼女自身、子供という言葉に、こんなに敏感に反応した自分に少し驚いた。


「そんなものかしら。お宅は結婚して何年目で子供ができたの?」


 圭子は、その自分の気持を美千代に見破られないように、何食わぬ顔で訊ねた。


「いいえ、うちは子供ができたから結婚したの。できなかったら別れているところだったかもしれない。主人に逃げられないように子供を作ったってわけ。圭子は結婚しても仕事を続けているけど、子供ができたらどうするの?」


 美千代は言った。


「わからないわ」


 圭子は、実際考えてみたこともなかったし、彼と真剣に子供について話したことも無かった。


 美千代はそんな彼女の気持ちを素知らぬ顔で、運ばれてきたコーヒーカップに口をつけて突然驚いた。


「あら、おいしい。このコーヒーおいしいわ」


 美千代が言った。


「へー、あなたコーヒーの味判るの。ここのコーヒーおいしいって評判なのよ」


 コーヒーカップを見つめながら驚いている美千代に向かって圭子が言った。


「すごくコクを感じる。深みがあってすごくおいしいわ。圭子は感じない?」


「あなたのように、一口飲んで驚きはしなかったわ」


圭子は少し悔しそうに美千代をみつめ、そして話題を変えようとわざと聞いた。


「ずいぶんと若作りなかっこうしているけれど、どこに行くの?」


 美千代は三十台半ばだったはずである。


「街に買い物に行こうとしていたの。給料も出たじゃない」


美千代は妖し気に答えた。


その格好で本当に買い物なのだろうか、圭子は疑った。


「あら、邪魔しちゃったかしら」


 圭子は別に気にも留めずに言った。


「いいわ、あたしが自分で入ってきたんだから」


 美千代が答えると、店内に静かにビートルズのイエスタデイが流れ始めた。


「あら、サイモンとガーファンクルね」


 美千代が言った。


 圭子は黙っていた。


 美千代が何か話していたが、圭子は彼女の顔を何げなく見つつ曲を聴いていた。


 彼女は美千代の話を全く聞いていなかった。


 彼女の話が途切れ、我に返った圭子が彼女に聞いた。


「あなた、喫茶店はよく利用するの?」


「だから子供ができるとそれどころじゃないの」


 彼女は諦めた様に言うと、壁に掛かっている絵を見つめ「素敵」一言いった。


 そして少し冷めたコクがあって、深みの感じるコーヒーを一気に飲み干し、店を出ていった。


 圭子は、コーヒーを飲みながら「子供」という言葉を聞いて、ショックを感じた自分に思いを巡らしていた。


「子供のことは、今まで自分も考えたことはなかった。柴田と二人で真剣に話し合ったこともなかった」


 圭子は店を出るとタクシーを止めた。


 行き先を告げるとひげ面の運転手は少し嫌な顔をしたが、圭子は特に気にもしなかった。


 タクシーを降りてマンションへ向かおうとすると、保育園の子供たちが色のついた、ちっちゃな帽子をかぶり、列を作って真っ直ぐに歩いている。


 どの子もかわいい。


 彼女は思わず「あの中から‶イッピキ〟さらって行きたい」ふとそんな事を思った。



                             つづく 

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