■36 シトリン / 妖魔王、うっかりシトリンを破壊してしまう
零たちは、まだ薄明るい宿の前で身支度を整えていた。朝もやに霞む街並みが広がる中、空気は清らかで、それでいてどこか張り詰めた緊張が漂っている。
「シトリンって知ってるよね?」零がふいに口を開くと、麻美は驚きながらも好奇心を引かれるように微笑んだ。「黄色い宝石よね?」
零は微笑み返すと、ゆっくりと語り始めた。「昔ある商人がいて、そいつはなけなしの金で手に入れたシトリンを肌身離さず持ち歩いていたらしい。まわりからは『ただの石に何の価値があるんだ』と馬鹿にされながらもな、彼だけはその石を信じていて、『この石は俺に力をくれる』って、誰よりも強く願ってたんだ。」
「その商人、どんな人だったの?」麻美が興味深そうに尋ねる。
「貧乏だけど妙に気概があって、誰にも屈しない意志の持ち主だったらしい。その日も、彼はシトリンを握りしめて市場に出たんだ。周りの商人たちは、そんな彼を見下してたんだろうな。でも彼は、誰がどう見ようが気にせず、まるでシトリンそのものが心の支えであるかのように堂々と立っていた。」
零がその情景を描くたび、麻美の目にはまるでその市場のざわめきと、商人の強い眼差しが浮かんでくるようだった。
「それで?」麻美は続きを促すように零の言葉を待つ。
「その時、シトリンがぼうっと暖かく光りだしたんだとさ。周囲の人々がその輝きに気づき、自然と足を止めて注目し始めたんだ。その瞬間、彼は手を高く掲げて叫んだんだ。『この石が、俺の行くべき道を照らしてくれる!』ってさ。」
麻美は思わず息を飲んだ。「彼はその場で何かを掴んだのね…」
「そうだ。彼がその日売った商品は、それまでの倍以上だったらしい。それだけじゃなく、彼の信念が市場の人々に伝わって、あちこちで噂になったんだ。彼がシトリンを信じ続けるたびに、彼の運命も不思議と好転していったらしい。」
零の声には、かすかな誇りと希望がこもっていた。彼自身もまた、未来の何かを信じようと心に決めているかのようだった。
「…つまり、ただの石じゃないんだな。シトリンは持ち主の心を鏡のように映し、その心が強ければ強いほど、その力も増すってことか。」麻美は呟き、遠くを見つめるように思いを馳せた。
「そうかもな。でも、商人にとって本当に大切だったのは、石そのものじゃない。彼がどんな状況でも決して折れなかった、その強い心そのものだったんだろうな。」零は、まるで自分に言い聞かせるようにそう言い、静かな夜空を見上げた。
彼らの間に沈黙が落ち、そして再び町を出る準備が整った。
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夜の静寂が玉座の間を支配する中、妖魔王リヴォールは重厚な椅子にもたれ、深い眠りに落ちていた。だが、その眠りは決して穏やかなものではなかった。彼の意識は夢の底へと深く沈み、暗い記憶の断片が次々と浮かび上がる。
彼の夢は、神だった頃の遥かなる記憶――その時代に再び巻き戻されていた。純白の光に包まれ、壮絶な力を全身に漲らせていた頃、彼はこの世に潜む魔を容赦なく滅していた。黒き影に挑むたび、その存在を塵に帰し、眩い光の波が辺りを浄化していく。その力は途方もなく、彼の意思に応じてすべてを無に帰すことすら造作もなかった。
暗闇の中に渦巻く影たちが一斉に迫り来る。リヴォールの眼前には、今にも彼を飲み込もうとする無数の魔がうごめいていた。夢の中で、その強烈な威圧に応じるように、かつての神としての力が湧き上がり、全身を覆っていくのを感じた。その瞬間、彼の意識は渦巻く魔を払うため、再び絶対的な力を解放してしまっていた。
――その激しい閃光とともに、リヴォールは眠りから覚めた。
はっと目を開いた彼は、すぐ傍らに置いてあったシトリンの存在に気づく。だが、その表面には深いひびが入り、かすかな揺らぎとともに、砕け散る瞬間が目前に迫っていた。リヴォールは何が起こったのか一瞬理解できず、ただその崩れゆく様子を見つめるしかなかった。
やがて、シトリンは音もなく細かい破片となり、彼の手の中から崩れ落ちていった。わずかに残った光の残り香が虚空へと消え去ると、リヴォールはその場に立ち尽くしていた。
「…あれは、夢ではなかったのか…」
リヴォールは、かつて自らの力で滅した無数の魔の姿を夢の中で追い払い、その余韻がまだ指先に残っているのを感じた。だが、その力は既に身近にあったシトリンをも巻き込んでしまっていたのだ。
彼の目の前に広がるのは、粉々に砕け散り、失われたシトリンの残骸
新たな指揮者を生み出すために計画を託した重要な宝石であったそのかけらが、いまや無数の細かな破片となって、足元に散らばっている。
リヴォールの心には深い後悔が広がり、同時に、もう一度地球からシトリンを奪わねばならぬことへの苦々しい決意が胸中を重く占めた。
読者への暗号→【ぎ】