■170
三人はしばしの間、谷の静けさに浸りながらも、次に待ち受ける試練に向けて心を整え始めた。空気は澄み、雷鳴の音は遠く消え去り、まるで嵐の後の凪のような穏やかさが漂っていたが、その静寂の中には、どこか不安な予感が隠れているようにも感じられた。麻美は軽く目を閉じ、深呼吸をしてその場の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「次はどんな敵が待っているのかしら…」彼女は零に視線を送りながら、小さな声で呟いた。
零は魔石を握りしめたまま、力強く頷いた。「どんな敵だろうと、この魔石があればきっと勝てる。俺たちはこれまでに強くなった…何が来ても立ち向かえるはずだ」
しかし、その言葉の裏には、わずかな不安も隠されていた。巨神との戦いで得た力は確かに大きなものだったが、それでも次なる敵がどれほど強大なのかはまだわからない。魔石の力に頼るだけでは、全ての試練を乗り越えられないかもしれないという予感が、零の心にかすかに残っていた。
守田は拳を強く握りしめたまま、空間を見つめていた。「確かに、魔石の力で俺たちは次のステージに進むことができる。でも、油断は禁物だ。次は一筋縄ではいかない相手かもしれない。戦いの中で得た教訓を無駄にしないよう、常に準備を怠るな」
その瞬間、三人の背後で微かな風の音がした。零はすぐに振り返り、鋭い目でその方向を見据えた。「…誰かいるのか?」声を潜めて問いかけるも、返事はなかった。
麻美も警戒心を強め、すぐに風の魔法を発動できるよう準備を整えた。「何か…近づいている気配があるわ」
その時、遠くから黒い影が現れた。影はゆっくりと近づいてくるが、姿がはっきりと見える距離に到達するまでには時間がかかった。ようやくその姿が明らかになると、それは巨大な四足歩行の獣であり、鋭い牙を持った魔物だった。だが、それだけではない。獣の背中には一人の騎士が乗っていた。
「新たな敵か…?」守田が低く呟いた。
その騎士は全身に黒い鎧をまとい、まるで闇そのものが形を成したかのような不気味さを漂わせていた。鎧の表面には奇妙な文様が刻まれ、そこから赤黒い光がわずかに漏れ出ている。騎士の瞳は冷たく、無表情のまま三人をじっと見つめていた。
「誰だ…お前は何者だ!」零が剣を抜き、声を張り上げて問いただした。
騎士はしばらくの間、沈黙を保ったまま三人を観察していたが、やがて静かに口を開いた。「お前たちがこの谷を越え、巨神を倒した冒険者たちか…」その声は低く、まるで地の底から響くような音だった。
「何者だ!俺たちに何を望んでいる!」守田も拳を構え、いつでも戦闘に入れるように身構えた。
騎士は冷ややかに微笑み、「望むことは一つだ。お前たちの持つその魔石…それが我々の手に渡らなければならない」と淡々と言い放った。
零は目を見開き、その手に握った魔石を強く握り直した。「そんなことはさせない…!この魔石は、俺たちが勝ち取ったものだ。誰にも渡すつもりはない!」
その言葉に、騎士は薄笑いを浮かべ、「そうか…ならば力ずくで奪うしかないな」と冷たい声で応じた。彼が手にした黒い剣が鈍い光を放ち、次の瞬間、獣に乗ったままの騎士が一気に三人に向かって突進してきた。
「来るぞ!」零は剣を構え、迫り来る敵に備えた。麻美はすぐに風の魔法を発動し、守田もまた強化の力を拳に込めた。
騎士の剣が放たれたその瞬間、零は全力でそれを受け止めたが、衝撃は予想以上に強烈だった。彼の足元が地面に沈み込み、体中に響く痛みが走る。だが、零は決して倒れず、その剣に対抗するべく力を振り絞った。
「守さん、麻美!奴を囲んで攻撃するんだ…このままじゃ持たない!」零は叫びながらも、騎士の剣を必死に押し返していた。
麻美はすぐに風を巻き起こし、騎士の動きを封じようとした。強力な突風が騎士を取り囲み、その獣を揺さぶったが、騎士はまるでその風をものともせず、再び剣を振り下ろしてきた。
守田もその隙を狙い、拳を突き出し騎士の胸元に一撃を加えようとしたが、騎士はその動きをすばやく見抜き、黒い剣でその攻撃を受け止めた。鋼と鋼が激しくぶつかり合い、火花が散った。
「こいつ…強すぎる!」守田は歯を食いしばりながらも、全力で拳を打ち込むが、騎士はまるで余裕を見せるかのようにその攻撃を避け、反撃を繰り出してきた。
零、麻美、守田の三人は、再び手に汗握る激闘へと巻き込まれていた。