【ChapterⅡ】Section:16 ブラフマン
彼女は制作した偽造書類をアートマンに渡し、正確な書類の中に違和感なく追加する方法を目の前でレクチャーされ、関連する手法についても学ぶ。
そうしてやることをやり終えると、彼はステラに見えるようにハンドサインを作る。
彼女はそれが開始やGoといった意味を持つハンドサインであることを知っており、つまりこれから例の祝宴が始まることを意味していた。
念のため、アートマンの視界から外れたところで事前にレフを配置した隠れ家に上手くいったことを伝える信号を送り、何事もなかったかのように後をついていく。
部屋から出て、祝宴を行なう部屋へと向かう通路。
数多もの肖像画が並んだそこを、先ほど習ったばかりの身体制御を練習しつつ静かに進む。
肖像画は紫位から白位までの階級の魔術師で、なおかつ素晴らしい功績を持つ人物のものだけが飾られており、肖像画の人物の階級は不規則である。
しかし、それぞれの階級においての会員番号が時折飛びつつも基本的には規則的に並んでおり、階級に関係なく功績を挙げた順に飾られていると考えられる。
わかりやすい証拠に、白位五番のジェフティ──物理学と存在論の分離を為した──、白位十二番のヘルメス──古代神学の証明を行った──、銀位四十九番のメルクリウス──一見無関係に見えるもの同士に強い関連性が存在、あるいは完全に同一であることを発見した──と、後にヘルメス・トリスメギストスとして習合された三人の魔術師は、明らかに古い方から新しい方へ並んでいる。
他にも歴史や神話に名を残すような魔術師たちが時系列順になるように並んでおり、そうした記録を付けられることからもこの宮殿の格式とやらの高さや歴史の長さが窺い知れる。
そんな歴史上にも名を残している魔術師からそうでない魔術師まで、まるで将来有望な若手に期待しているかのように数多くの肖像画に見守られる中、プランク時間の精度で脚を動かしていく。
肉体から発せられる振動を隠蔽することが主目的でこそあったが、彼女が思ったよりこの方法は優れていた。
これは物理現象の面から心理を隠蔽するだけではなく、彼女のようにすべての運動を意識的に行っているものにとって、二足歩行のロボットがあらゆる状況下でも問題なく歩けるようなプログラムを組むのとある程度似ている。
ある程度と表現したのは、事前準備さえ完了させていればいいロボットとは異なり、意識的に関数を反復して呼び出ししなければならない点だ。
いわば電卓のようなものであり、答え自体は即座に弾き出されるのだが、計算式が自動で入力されるロボットとは異なり自力で計算式を打ち込まなければならないようなものだ。
つまり、彼女にとっては程よい頭の体操になるわけである。
「ああ、そうだ。ステラ」
「どうしたの?」
「中等段階を学ぶにあたって一つアドバイスだ。世界各地の秘教の概念、まぁつまり言語化が難しく、抽象的に説明される概念について学んでおくといいよ」
「どうして?」
「薄々気が付いていると思うが、初等段階は既存の学問の延長線上、中等段階はその魔法的応用に次ぐ応用、そして高等段階でそれらを実際に体感して処理できるようになる必要がある」
「いろんな秘教は元の宗教の教義の応用なのが基本だから、わかりやすい例になるからってこと?」
「そういうことだ。もちろん、最も注意しなければならないのは高等段階でのやり方ではあるけれども、だからといって中等段階を疎かにしていいわけではないからね。基礎を疎かにしては行けないのと一緒で、実際に自らの身で体験する前準備さ」
つまり、中等段階では初等段階で行った内容の更なる応用や踏み込みが多くなるのか、と理解しつつ、では高等段階では具体的にどのような学び方をするのだろう、と考えたところで、彼はそれを詳細に読み取ったらしく、再び口を開く。
「そうだね、なら一つ例を出そう。一般の人々は日常会話、娯楽、学問、あらゆる面で無限の理論に触れることがある」
「うん、インターネットとかを見ているだけでもわかるよ」
「しかし、無限という概念について、どれだけ存在論や集合論を学んで理解したとしても、実際の無限の値──最小の可算無限ですら数え上げることはできない。より複雑な、巨大な概念になるにつれて、そういうのは飛躍的に難しくなっていくんだ」
「つまり、少しでも体験に耐えられるようにせめて理論だけでも正確に把握しておけってことだよね」
「ああ、そうだとも。高等段階に上がったばかりの魔術師は連続体濃度ですら耐えられないケースが非常に多い。なんせ可算無限と比較しても連続体濃度はあらゆる意味で別物だ。何の問題もなく証明できる可算無限ですら普通の人間では処理能力が完全に足りないというのに、すべてが問題なく証明できるもので構成されている普段僕らが暮らしている世界とは全く別の、証明も反証できないものに耐えられるか、という話さ」
そこで一度話を切ると、彼は祝宴を行なうホールまでの距離があとどれくらい残っているかを確認した。
ステラの目から見てもこの話が問題なく完遂できるであろう程度にはまだホールは遠く、アートマンもやはりそのように判断したのか、再び話を再開した。
「正直、あまり理解できていないようだ。超限基数の多くの実体を処理できる君が相手だと却って説明が難しいね。一般に対して説明するんだったらテッセラクトを例に出せばいいだけなのだが……ふむ。ならパターン化されたもので考えてみるといい。自分自身と他の誰か、異なるそれらが同一の魂になる。更に進めば、魂に付属している”人間の魂“としての性質と、人間の魂に付属した情報の区別がなくなり、最後には肉体と魂すら統合される。要はP≠¬PをP=¬Pに変換する工程。これをいろんなものに当てはめてみるといい」
相反する命題同士が同一である、すなわち恒偽式である状態を真として扱うという状態をあらゆる対立物に当てはめることで、ようやくステラは正しく理論の実体の乖離の大きさの原理を理解した。
「あー、そういうこと?」
「そういうことさ。そして、理論と実体の乖離の大きさは指数関数的に表現することができる。すべての、考えられる実体と考えられない実体は全部実在しているから、高等段階を学ぶ最中で必ず乖離が大きい実体を体験する必要性がある。僕らみたいな、代々魔術師をやっている家系だと小さい頃から体感の訓練を行うから、必然的に高位の魔術師になりやすいというちょっとした流れもあるね」
「それで、魔術を使うときは概念をより深く理解していればしているほど、効率が上がって、魔素の消費量も下がって、コストパフォーマンスが高くなるってことかぁ」
「そういうことさ。と、もうすぐ着くよ。次の左手の扉だ」
その言葉に反応して視線の位置を上に上げると、その先には待っていたのであろうアンジェリカが居た。
アートマンの声が聞こえたのか、彼女もこちらに気が付いたようで、こちらに向けて軽く手を振る。
釣られてステラも手を振り返す中で、扉の前に彼女らが立つのと同時に、アートマンがアンジェリカの額を軽く指で押す。
驚いたように軽く仰け反る彼女に対して、彼は言葉をかける。
「部屋の奥の方にいると言っていなかったかい?」
「特に目印もなかったものだから、この子が迷ってもいいように目印として立っていたのだけれど……」
「エントランスの案内図にここのことも載っているから気にする必要はないと思うんだけど」
「──あ」
うっかりしていた、というのが何もせずとも読み取れるくらいには彼女の心情は表情に出ており、軽く呆れたようなため息をアートマンも漏らす。
ため息の余韻が終わると、彼はあからさまに音を立てながら扉を開けた。
扉の先には豪華絢爛と評するにふさわしい、近代ヨーロッパを想起させる三階層分に跨る吹き抜けであり、それぞれの階を繋ぐ階段も存在する。
色が深い針葉樹の木材からなるモールディングと暗い黄金に輝く金属質の手摺、大広間のすべてを照らす純金のシャンデリアによって輪郭が形作られたその空間には、中央に走るレッドカーペットと、その先にある祭壇があり、その両側には料理台と参加者が食事を摂るための用いるためのテーブルと椅子が必要分綺麗にセッティングされていた。
用意された料理は西洋料理がほとんどで、香辛料を大量に使うような、味や匂いが強すぎるものは極わずかである。
参加者はステラたちを除くと二十二人、服装や立ち振る舞いから察するに全員がかなり高位の──少なくとも上院でもかなりの政治的権力を持つ魔術師であり、その中から更になんとなく存在するグループごとで分けて考えると、一グループに四人、その中でも一人が目立っており、グループの中でのリーダー的立ち位置に見える。
更には、そのリーダー的立ち位置の魔術師は全員首飾りを着用しており、純度百パーセントの黄金でできた装飾品には魔術的なものだと推測できる文字の彫刻が施されている。
その首飾りを身に付けているのはアートマンも含まれており、彼を含む黄金の首飾りを所有する人物以外は皆何かしらの白を強調した装飾品を身にまとっている。
この情報を基にしてこの場にいる人間の立場を正確に表すならこうだろう。元老一人に対して三人の白位の魔術師が付き添いとして参加しており、アートマンとその付き添い──彼の付き添いの魔術師はおそらくここにはいないのだが、一応祝われる側であるステラを除けばアンジェリカが付き添いということになるのだろうか──を除くと、四人の元老とその補佐として計十八人の上院の魔術師が居ることになる。
微妙に元老側に人数のブレがあるのは、何かしらの理由で遅れていたり、欠席して代理をよこしたりしているのだろう。補佐側は合致しているはずである。
「さぁ、よく集まってくれたね、みんな──ん?ゴスジール卿は仕事があるからいいとして、ユゴス卿は?今回も欠席なのかい?特に強く出席するよう直接言い聞かせたはずなんだけども」
金位の魔術師の人数を見て疑問に思ったのか、アートマンは元老の一人に声を掛ける。
「ああ、陛下。それが、ユゴス卿は今回も代理を派遣するばかりで、彼……まぁ、彼自身はどこかに雲隠れしたままです。本気でユゴス卿を見つけるのなら、実力の問題で陛下かゴスジール卿にしか捕まえられないかと……」
「まぁ、ユゴス卿のサボり癖は理解しているつもりだから、僕は大丈夫だ。全く、せめてゴスジール卿のように理由を付け加えた上での欠席の連絡くらいは欲しいんだけどね。あ、あと便宜上ユゴス卿のことは彼で問題ない。ほら、キリスト教の神も実際には性別という制限を持たないものでありながら、男性的に描写されるだろう。それと一緒さ」
ゴスジール卿はまだわかる。先ほどアートマンが連絡を行った際もまさに仕事中であることがよくわかった。
しかしユゴス卿とやら、彼はサボりらしい。研究に没頭しているのか何なのか、政治的な力を持っているのならばそれ相応の振る舞いをしなければならないと思っていたのだが、察するに何度も無断欠席できるくらいには柔軟性の高い地位らしい。
というか、話を聞く限り、ユゴス卿には性別というものが存在しないのか?
魂の性別が肉体の性別と異なる、という線も考えたのだが、便宜上と言っていたり、類似として出した対象があまりにも大袈裟だったりするので、何かしらの魔術で自分自身を改造したのか、人間じゃないかなのだろう。
もし後者だとしたら、個人的には会ってみたい気持ちがある。これまで魔術師は人間しか会ったことがないので、新しい刺激になるだろう。
「それでは、今回ももはや通例となった通りユゴス卿は不参加で、ゴスジール卿は間に合えば参加するということで、このメンバーで祝宴を始めよう」
彼はどこからともなく取り出したワインで満たされた黄金の杯を掲げながら、宴の開始を宣言した。
「今期において唯一階級の上昇を達成した若き魔術師の名は、ステラ。ステラ・ヴェルト・アーノルト。未来あるあらたな可能性の原石に、皆拍手を」
アートマンの隣に立ちながら、演劇の如く大袈裟に振舞う彼の呼びかけに応じて拍手をする参加者たちを無感動にステラは眺める。
無感動になってしまったのは、自身の名前に含まれていたWの文字。一つの文字に省略されたそれの意味をようやく知ったから、という面もあったが、知らない人に祝われても反応に困るという何とも言えない要素が原因の大部分を占めていた。
拍手が鳴り止まない中でアートマンがポーズを止めると、それに従って彼らも拍手をしていた手を止めた。
「そして特例ではあるが、魔術協会に所属した新入りの魔術師として、彼女には洗礼名を持つ権利が与えられる」
洗礼名。
魔術協会において、元は魔術の運用の効率を少しでも上げるための手段として、特定の魔術との親和性を上げるための手段として用いられていたそれ。
ある意味では、彼女は最初からそれを持っていたのかもしれない。
自身のミドルネームであるヴェルトすら知らなかったとき。何故か彼女が認識していた自身の、個体としての名称。
ファーストネームのステラ。
ファミリーネームのアーノルト。
そのミドルネームは、彼女が認識していなかった彼女自身の他のミドルネームと完全に親和性があり、どちらが先なのか。
「とはいえ、知っての通りあくまで洗礼名を持てる権利であり、本人が不要であるというのならばもちろん洗礼名がなくとも構わない」
せっかくだから、ここは決定論的に考えよう。
彼女は最初に、世界の名を与えられた。
その世界の名の後に、万象の名が与えられ、二つの名は糸で結ばれた。
真っすぐでも、歪んでいても、辿れば必ず繋がる運命の糸。
多分、時空を越えた自身の潜在的な認識力は、この名前という糸の一区画における終点を、最初から認識していたのだろう。
「さて、洗礼名については三つの決定に分かれる。一つは、洗礼名を持たないこと。もう一つは、自分で洗礼名を決めて、それを名乗ること。最後の一つは、協会に洗礼名を決めてもらって、それを名乗ること。さぁ、どれにしたい」
「──ブラフマン」
「……?」
「私の名前。うん、そう、私の名前」
そうやってステラという概念に付けられた真の名称を、彼女は鮮明に言葉として認識した。
「ステラ・ブラフマン・ヴェルト・アーノルト」
「──なるほど、二つ目、ブラフマンか。それでいいのかい?」
「これのどこに問題があるの?」
「いや、ないとも、僕の娘。ステラ・ブラフマン・ヴェルト・アーノルトよ。君の名前は、僕たちの中に深く、深く刻まれるだろう」




