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【ChapterⅡ】Section:13 焦り

 いくつか隠れ家に仕掛けるトラップの構想はしていたが、霊子隧道が魅せた数学的領域という大きなインスピレーションを獲得したステラは、元々練っていたトラップの大部分を破棄し、数学的領域内の数学的構造物を元としたトラップを新たに考え上げ、実際に適応した。

 まず先に、実際に彼が潜む場所を切り離し、この次元における通常の構造と隔離させ、後付けてその二つを連結する通路とそのトラップを創り出した。

 連結路内には七つのトラップを仕掛け、元々考えていたものはその中で一つしかなかった。その唯一事前準備の中から採用されたトラップというのは、量子の樹と呼ばれる量子力学の解釈から発展した宇宙モデルである。すべての量子力学の解釈の統一として作成された形而上の樹木の種を植え、膨大な数の枝の中から事前知識もなしに唯一正しい枝を選ばなければならないという、それを罠として流用するというステラ自身にとってすら寒気がするような悪辣なものを配置した。

 後に数学的領域から考え出した六つの罠は、再帰性永劫回帰、心霊主義的及び情報的エントロピーに対しての超自然ダイソン天殻、反復式虚無主義的類感否定論法、等式多元論化とそれに対するオッカムの剃刀の反論、クラウンパスの汚染、そしてすべてを虚無へ還す形而上学的ブラックホール。一つの物理学的な罠と、六つの数学的あるいは哲学的──実際にはどちらも同一のものだが──な罠はよほどの精鋭でも投入されない限りは突破されないだろう。

 しかしそれは逆にいえば精鋭を動かされれば侵入されるのと同義であり、彼の重要性がどれだけなのか不明である以上、侵入の可能性がどれだけあるのか測定することはできない。もし彼の存在が非常に重要であった場合は、既に精鋭がレフの痕跡を探し、いずれ図書館内に逃げ込んでいることを特定するだろう。

 そうするとせっかく口頭での契約を魔術で結んだ際に隙をついて、ステラへの忠誠心のようなものを埋め込んだ意味がなくなってしまう。

 その為、トラップが問題なく稼働し、老師を守護しているのを確認すると即座に元の次元に戻り伝手を通して彼の罪を帳消しにするために動き出した。一応脱獄してヘルメス図書館にまで逃げられているということは、仮説推論的に考えると刑務所や牢屋のような所のセキュリティは困難なものではなく、つまりそのような所に入れられるならば権力を用いてなかったことにできる程度の罪であろう。


 本来ならば直接三次元空間へ跳躍するのが一番低リスクなのだが、それでは時間が掛かるため仕方なく再び霊子隧道を開き、今度は三次元空間を目的地に設定する。霊子世界を探索し尽くしたいという信じられないほど強烈な衝動が襲い掛かってくることを覚悟して、先に進む。

 今度は上昇ではなく下降であるからして、必要とする時間自体は高次元への移動と比較して圧倒的に短い。比喩で表すとするのならば、おそらく光と無限程の巨大な隔壁がそこにはあるのだろう。もちろん前者が高次元への移動で、後者が低次元への移動を示している。実際には線が無限に存在していても、そもそも奥行きの概念自体がないのでそれは零に等しく、光と無限よりも大きな差が存在しているのだが、この際そのようなことを気にするのはナンセンスであろう。

 霊子世界への衝動をわざわざ耐えなければならないとする理由はある。それは、数学的領域自体を普通の人間では推し量ることができないからである。人間は数式を用いて間接的に無限を理解することはできるが、それはあくまで表面上のものでしかなく、その大きさを正しく理解することは不可能といっても過言ではない。物理的領域ですら観測可能な宇宙の外側は無限に広がっているとされ、それを観測することはできないというのに、理論上ですら物理的領域を遥かに凌駕するそれを明確に観測しようというのならば、如何にステラが超人的な脳味噌を保有しているとしても、宇宙的恐怖的なものに直面したかのような適応能力の限界を超えた狂気を齎すだろう。

 しかし、一種の麻薬のような依存性をも持つそれを一度視てしまったからには、現段階のステラは霊子隧道を開いていない場合など、気軽に手に入らない状況であれば辛うじて耐えることができるが、絶賛霊子隧道を開いているような今の状況だと、後一歩で墜ちるところまで墜ち続けることとなるだろう。

 それでも彼女は進まなければならなかった。ステラにとって、あの老人は自身の人生のターニングポイントであると直感していたからである。すべてが生まれ変わる、マルセイユ版タロットの審判のように。彼女の永劫たる遥かなる未来のために、そこに収縮している運命をつかまなければならない。霊子領域以上の強迫観念を与えるその正真正銘の形而上学的な感覚に、ステラは操られていた。


「……」


 身体中に汗が滝のごとく流れ出る程の緊張状態。彼女はこれは試練であり、今日起こった先ほどまでの物語はすべてこの試練のための下準備でしかないと自身に強く言い聞かせる。

 悪魔のようにステラの精神に入り込み、欲望の形に渦巻く例えようのない意識は限られた時間を有効に活用して彼女を無限に蝕み続ける。

 幸いなことに悪魔はマルチタスクが苦手、というよりできないようで、対処法自体は存在した。それは、意識を幾重にも分割することである。悪魔ができるのは一つの意識への侵略だけであり、複数の意識を持っているのならば鼬ごっことなって最終的には逃げ切れるだろう。

 無論意識を切り分ければその分悪魔の進行速度が増加するだけであり、分割した意識をそれぞれ単一の意識と同等にまで高める必要性があった。単なる分割であればマルチタスクの延長線上でしかないが、複数の純粋な状態の意識の同時運用となると話は大きく変わってくる。元来、人間の魂は一つの意識しか受け入れることはできない。複数の意識を入れようとするのならば、器から零れ落ち、入れられないか、あるいは意識の主要な部位が抜け、容量だけを虫食いにする廃人の意識となるか。

 それを実現するために、ステラはある種禁断とも呼ばれる方法を取った。それは、魔術による魂の改造。未知の角度からやってくる耐えられない苦痛と、失敗時の大きすぎるリスクを踏まえて、魔術師内でも完全な秘匿こそ為されていないものの、積極的に口に出す内容でもなければ、もちろん推奨なんかもされていない。魂をほんの少し、魂の大きさを一千キログラムだと仮定して、そこにたった一ミリグラム足すだけだとしても、それは魂を改造したことに他ならず、改造の痛みを感じ取ることになる。

 魂の改造の痛みは非無痛症の人間に麻酔のような処置を行わずに心臓にメスを手術しているようなものと例えられることが多いが、そもそも魂を改造するような真似をする魔術師がどれだけいるものか。その例えすら信頼性は低く、結局のところどれほどの痛みを伴うのかは誰も理解していなかった。

 そして、歩行を物理的な肉体にすべて一任し、悪魔と戦っている土壇場でステラは自らを改造した。

 羊に人の顔と腕、足を着けた絵を見ているような、血管が広がりすぎて脳が圧迫されているような、目の前に親しい人物や自分自身の無惨に殺された死体が抛り捨てられているかのような不快感と吐き気。心臓を素手で鷲掴みにされているような、足の踵の腱を切れ味の悪い錆びた包丁で斬られているかのような、脊髄を鋸でゆっくりと切断を試みているときのような、鋭く、鈍い痛み。

 ああ、結果的にこれほど苦しい思いをするのならば、霊子隧道なぞ使わずに直接転移すれば良かったとも思ってしまう。しかし、急がなければならない状況下で悠長な手段を用いることはできない。だから、この苦痛は必要不可欠なものである。そうだとしてもこれほどだとは想像していなかった。現実は、ステラの想像を優に超えてきた。位階が上昇した者が下の領域へ戻ってきたことはないと語られているが、当人たちの気持ちがよくわかる。涅槃へと至った釈迦が下界に戻ってこれたのは奇跡か、あるいは彼が信じられないほどの精神力を持っていたのだろう。上界に行けたのならば、下界に戻る必要性は本来全くない。本当の意味で超高次元空間に適応しているわけではないが、それをわざわざ行おうとするとやはり苦痛でしかない。


 あくまで乗っかっているだけで適応はしていないレフは問題なく降りることができるだろう、と終わった後のことを呑気に考えることができる程度にはようやく余裕ができてきた。

 そう、つまるところ魂の改造は無事に終了し、意識の複数化が完了したということだ。複製した意識は思考能力をなくす代わりに迷宮化させたり、それを思考能力を持つ意識の外側に纏わせたり、悪魔への対抗だけではなく精神干渉の魔術の対抗策としても十分機能するものが完成した瞬間、悪魔は死んだ。不要なものを閉じ込める廃棄用の意識に悪魔を放り込んだことで、霊子隧道内でも問題なく活動できるようになった。

 と、結果論的ではあるが悪いことばかりではなかったな、と感じたところで本来の目的を思い出す。そうだ、父のところに行かなければならないのだ。霊子隧道はあと半分、経過時間はまだ二十分である。それよりずっと長くの時間が流れているように感じていたが、それはあくまでステラが無意識に思考速度を早めていただけであったようだ。

 霊子隧道の出口はあと少しで脱出することができる。できた余裕でしばらく前に見た地図を参照して宮殿までの最短ルートを脳内で構築する。ヘルメス図書館内は徒歩でしか動けないので徒歩で移動するとして、外に出たらどう移動するべきか。図書館から出てすぐの座標を基に、宮殿の座標を地図から特定して直接転移する方が早いだろう。

 そうしてルート構築を終え、移動に必要な時間を求めようとしたとき、彼女は霊子隧道を抜け三次元空間に戻ってきた。

 やはり時間は移動中に求めるしかないなと考えた瞬間に到着予想時刻は六時四十九分であると計算し、一応余裕はある程度はあると思いつつも出せる全力を用いて宮殿へと向かった。

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