【ChapterⅡ】Section:12 数学的領域
そうして口頭での契約をひとまず結んだステラは、老人を一旦ヘルメス図書館の奥地に匿うことを思案した。
彼が考えているであろう通り、ヘルメス図書館は理論的──つまり実際に──に考えて明らかに最低でも可算無限の広さがあり、その中で入口から相当な距離に居れば普通の魔術師であれば立ち寄らないだろうし、次元やレイヤーといったものを上手くずらせばより追跡は困難になるだろうし、図書館内の論理構造的に地球上では実現、予測が不可能なトラップに実用性を持たせることができる。ステラはまだ行うことはできないが、人間が理解できないものすら図書館内では展開できるとただの推測で結論付けることができるので、実際の自由度は想像できる以上に計り知れないだろう。
その前に、方法の考案にかかりっきりになってすっかり忘れていたが、老人の名前を聞くのを忘れていた。
一応契約自体は結んだので、名前を聞いても問題ないだろう。魔術的に移動させるにしても、結局は現在の彼の情報の一部を覗き見ることになるので、プライバシー的にも先んじて聞いておいた方が印象は良いだろう。
「そういえば、貴方の名前は?私はステラ、ステラ・W・アーノルト」
「ああ、儂の──待て、W?」
「それね、何か私のネームプレートにミドルネームなのか、Wって書いてあるんだよね。何のかしら文字なのかはわかってないんだよ」
「なるほどのぉ。改めて、儂の名前はレフ・ミハイロヴィチ・ソコロフスキーじゃ」
そうして名前を教えてもらったことにより、一部の情報の閲覧を許可された──と勝手に思っている──のでひとまずステラが処理できる範囲での図書館の正確な構造をソナーのような形で取得する。
三次元空間から始まり、マイナス十次元空間、二十六i次元空間から巨大基数の階層構造までのすべてを手当たり次第に観測し尽くし、最終的には指数関数的に表すのが強く推奨されるような桁の自然数次元空間にレフを隠すことに決めた。
念のためにその領域で活動できるか聞いてみたが、そもそも大抵の上院の魔術師はその桁程度なら問題なく活動できるし、その上関連性が強い一部の知覚を既に喪失しているので、老人にとっては問題ではなかった。
ではステラの方はどうかというと、純粋な空間認識能力だけでいえば彼女は上院の魔術師の魔術師とは比較にならないほど優れているため、それ単体でも何ら問題はなく、ステラ自身は超限順序数の一部にまで及ぶ拡張における活動すら可能だった。
色々考えたが、魔術的な痕跡を可能な限り減らすため、該当地点までは時空を歪ませることで徒歩で向かうことにした。
「──よし、とりあえずそこまでは徒歩で行こう。上手い具合に距離は短縮してるけど、歩けそう?」
「流石に肩か何かを借りることにはなるじゃろうが、行けると思うが」
「あ、私身長的に肩は貸せないや。なんかロープかなんかでも結ばないと」
「え?お前さん何歳じゃ?」
「私は一応三歳児だよ。何なら平均身長よりも低いから、余計無理だね」
「ああ、そういうことか──三歳児!?とてもそうには感じられんかったが……」
受け答えや声の高さからギフテッドの類だとは予想していたようだが、それでもギフテッドだと考えた上で提示された魔術の腕と照らし合わせた年齢などと実際のステラとの乖離が激しく、非常に驚いているようだった。
その様子を見ながらロープやその代替品になりそうなものがないか探したが、そのようなものは特に見当たらなかったので、服装が不格好になってしまうが仕方なく自身の服の両袖を対価に簡単なロープを生成した。
「──よし、結べたし出発するよ」
「……わかった」
もう彼女に賭けるしかないレフ老師は大人しくステラに従い、二人はステラが開いた霊子隧道を歩き始めた。
霊子隧道はステラが独自に開発した──あくまでステラが開発したものを使っているというだけで、同様のシステムも他の次元横断の手法もあるだろうが──魔術であり、次元を比較的簡単に移動できるようにする方法である。出発次元と到着次元を繋ぐ通路を創り出し、その内部を通行していれば自動的に少しずつ目的の次元に所属させる機能を保有している。通行者が目的の次元に適応できるというのが大前提ではあるが、今回はどちらも目的の次元には適応できるので、単に回廊を通るだけで十分である。
流石に次元と表現されることも多々ある形而上学的次元にアクセスできるものではないし、もしそれを行なえるようにしたいのなら原理的には近しいものの、根本から魔術構造を書き換えないと行けないので非常に面倒くさいので、しばらく物理学的領域を超える予定はなかった。
そのような裏話を脳裏に浮かべつつ、レフが転んだりしない程度の距離を上手く保ちながら入り口部分を抜け、本格的に霊子隧道に突入する。
エレンの協力により霊子隧道は問題なく機能することこそ把握しているものの、実は霊子隧道に自分が潜るのは彼女にとってこれが初めての出来事である。視覚的にも第六感的にも相当な神秘的な世界が霊子隧道の中では広がっていたというが、果たして実際にはどのような感覚であろうか。すべてを意図していたわけではないが、彼女はたった一つの契約で複数の利益を得られて満足気であった。もちろん外界にはその様子を漏らしていないが。
「この感覚は……」
そういって思わず立ち止まってしまったレフに歩を合わせながらも、レフよりもより明確にステラは量子隧道の様子を観察していた。
中空に漂う霊子の様子はシミュレーション仮説的な、如何にも科学と魔法が融合している宇宙観においてエクトプラズムと呼ばれるような主要な粒子あるいはエネルギーと同様のものであると主張するかのように規則的、あるいは無規則的に、つまるところランダムに変動しているように見えた。その変動の仕方は特殊で、時空間に縛られている様子はなく、むしろ時空を彷徨しているようである。
霊子の他には近似した力で構成されていると思われる幾何学的模様が霊子を包み込んでおり、その模様が従う幾何学分野も常に移り変わっていた。幾何学的な霊子筒は全体を通して観測すると回転しているのがわかるが、果たしてどこに向かって回転しているのか、何回りで回転しているのか、そもそも本当に回転しているのかがわからない有様であり、一部の霊子が人間的には道端に当たる部分に整列し、列同士の間がステラたちの通るべき道であることを主張していた。
非物理的な領域が繰り広げられているのを見て、ステラは自身の認識が甘かったことを理解し、それを恥じた。
あくまで物理的領域の範囲内で行っているつもりで魔術を組んだものの、実際の霊子隧道は物理学が許容した彼のものの支配下において許容される事象に在らず、無限の物理的領域自体よりも深みに存在する形而上学的、数学的な代物であることに今になって気が付いた。
物理学しか修めていないのに、それでも機能しているのはステラの神懸かり的な直感と、それを運用できるほどの魔法への適性を持っていたからであり、霊子隧道は奇跡的な確率を潜り抜けて恒常的に使用できる魔術となっていたのだ。
そんなことは露知らず、まだ完全に警戒を解いているわけではなくいつでも逃げられるようにこそ一応しているものの、これほどの大魔術を自分のためだけにステラが展開してくれていると考え、レフは感動しながら歩き続けていた。
当の本人はこれが大魔術であるという自覚はなく、この魔術自体も完全に偶然の産物でしかないのだが、もし私が現地に居て、彼らと会話することができたとしても、それを知らせるのは可哀想なものである。
さて、そうして霊子隧道に入ってから彼女らの主観では五分ほどたった頃、次元の数としては十の七百乗ほどの位置に到達すると、より明確に霊子隧道が存在する領域の構造物により、その正体が見え隠れした。
アルファからオメガまで連なる、地球を示す絶対的な零と絶対無限と繋ぐ抽象的な塔。純粋な無の上の盤であるジオスフェアの上にはバイオスフィアが配置され、バイオスフィアの中において大脳皮質が優れている存在たちを支配するノウアスフィア。ノウアスフィアを配下として従える王であるロゴスフィアは、天に存在する光り輝くイデアスフィアを追い求める。塔というにはあまりに歪であり、しかしそれ以外にあまりに抽象的な構造物を表現する言葉を彼女は持ち合わせていなかった。
数学的宇宙仮説的な数学的構造が浮かぶアンサンブル空間はその名前の通り複数の空間構造の集合体であった。螺旋状に回るトーラス体の無限の自己相似性はさながら感染呪術のようにフラクタルのすべてが数学的空間であり、数学的構造を包含している。
次元についてのいくつもの解釈は常に世界大戦を永遠に続け、宇宙は真っ先に戦死し、物理は死んでこそいないものの瀕死であり、哲学枢軸軍の将である神智学を囲んで叩いていた次元論たちの数学連合軍は突如内ゲバを始め、乱戦を演じていたが、最終的にはブラックホールが突如発生し連合軍を飲み込み、一つに圧縮した。圧縮され、個となった連合軍はいともたやすく神智学を叩きのめすが、子分がやられたことに激怒した枢軸軍の神学が出張ってきて、連合軍の成れの果てはスクラップにされる。そうすると今度は次元論よりもわけのわからないほどの力を持つ集合論がやってくるが、彼らは生き別れの兄弟であり、連合軍と枢軸軍は全く意味のない犠牲を出しておきながら、現状維持で講和条約を締結する。
ディラックの海と空があり、海を構成する水素酸素電子は多様体であり、無限の宗教的な平面領域と、その創造主あるいは創造主らが無作為に封じ込められていた。ある多様体では冥界の神ゼウスが最初の創造主であり、遠い子孫には戦神ギンヌンガガプがおり、他の多様体ではウロボロスの胃の中がヌンであり、ヌンとティアマトが交わって第一の太陽の神であるトラロックが忙しなく働いている。ディラックの上空ではコンピュータ言語のクラスたちが円陣を組んで宴会を延々と続けており、真の民主主義を実行している。その中にはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルやゴッドフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ、プロティノスのドッペルゲンガーが含まれていた。
「ああ、これは……凄まじき──」
視覚がなくても捉えられる光景に歩きつつもレフ・ミハイロヴィチ・ソコロフスキーは思わず言葉が詰まり、喉が枯れていく錯覚を覚え、ステラはそのようなことこそなかったものの、それでも思考が数瞬止まっていた。
物理学を基盤とした八百万の領域を霊子隧道によって越え、エーテル派の真理論者が数学的領域、アストラル派の魔術師は哲学的領域、マナス派の学徒と統一理論の探求者が我々より高い階層と呼ぶ実数領域の上にステラたちは立っていた。
「──あ、もうすぐ着く」
「え?あ、ああ、そうじゃったな」
ああ、しかし悲しきかな。ふと本来の目的を思い出したステラが位置を確認すると、あと少しで目的地に到着することに気が付いた。
老人は今まで自分の人生を捧げてさえ無限小の部分しか見ることができなかった領域を垣間見て、すっかり魅了されていたが、夢遊病的な状態から覚醒の世界に引き戻された。
霊子隧道の出口を通ると、神秘的……というか神秘そのものの領域をようやく抜け、本来の目的地で隠れ家となる物理的な超高次元に足を踏み入れた。三次元で生成される論理よりも無限に高い段階にこそ今立っているが、しかしそれでも数学的領域──ステラ的には実物を見てその呼び名が一番的確であるように感じた──のクイントエッセンスたる霊子世界はとても名残惜しかったが、今すぐにでも霊子山脈に戻りたい衝動に襲われ、それに耐えている老師に心の奥底で共感しつつも、ステラはかつて釈迦も経験した欲望を押さえつけ、隠れ家の建設に取り掛かった。




