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【ChapterⅡ】Section:6 アーヘン

 そして、革張りの椅子に座ると同時に目の前にシンプルな料理が運ばれた。

 シンプルとはいっても、シンプルと言えるのは料理の見た目だけであり、量はそれぞれの体格にとって適当になるよう計量されており、質についても少し視認するだけで問題なく担保されているのがわかった。


「まぁしかし、わざわざここにお前がここに居るとは珍しい。数学的な値がどうあがいても通用しないようなわけわからん場所に普段は居る癖に、有限の……それもわざわざこの値が必要にでもなったか?」

「何か勘違いしているみたいだけど、僕は元々有限さ。別に塔の上から落下したわけじゃないさ」

「それはそれは、ご苦労なこった。無限の反復入れ子はお前にとっては大したことないってことか。あんた、やっぱ天才だな」


 あまりにも抽象的な会話ゆえに、もし闇の世界を知るものが彼女ら以外にも今ここにいたのならば、店主が相当な経験を積んだ魔術師であることは即座に理解できただろう。

 彼らの会話に出てきた単語を簡単に推測してみよう。

 数学的な値が通用しない地というのはおそらく直近の、人類の精神世界を含むより広大な未知の精神世界についてを指しているのだろう。

 ステラが知る中での魔法によると、カール・グスタフ・ユング的な知性体の意識と無意識の集合体とその延長概念全体は、より高度な知性体の意識と無意識の集合体に内包されているという。

 人類と、人類と近似した段階の精神が到達しうる限界までのすべての情報の質量は、より高度の知性体が保有する幼稚な概念にすら質量で遥かに劣るという。

 魔術師たちは抽象化プロセスによって高位の知性構造の様相を推測してこそいるが、実際には無限回の抽象化を駆使してようやくその知性構造が作り出した影にしか触れることはできないのだという。

 魔術師の間で有名な寓話である”箱と塔”が存在するが、まさにその寓話が指し示す世界の在り方こそが、無限に存在する知性同士の格差である。


「それで、ただ飯を食いに来たわけじゃないだろう?」

「いや、本当に昼食を食べに来たのと、隠居した君の顔を見に来ただけで、その他の君に対しての用事は別にないが」

「……」


 ステラ自身もアートマンが知古らしき人物にわざわざ会いに来たのについて何かしらの思惑があると考えていたが、しかし本当にそれ以外の用事がないように見えるアートマンを見て、店主と共に呆然とした。

 無意味に見える行動を気分でよく行うことを知っているアンジェリカが苦笑いをしたのを起点として、店主はとりあえずカウンターの奥側に戻り、残された三人は目的を果たすべくフォークを動かし始めた。


 出された料理を改めて見てみると、それらはステラにとってあまり身近ではないものばかりだった。

 正確にいうのならば知識として持っていたり、家でも出されたことはあるのだが、基本的にはドイツ、延いてはドイツ語圏の伝統料理が主であり、その他の地域が発祥のもの──今回出されたのはイタリア料理である──は全体として食事に出る回数が少なかった。


 昼食を食べた感想としては、非常に美味であった。

 隠居した魔術師というのだから、悠々自適に黒字だの赤字だのということを気にせず趣味としてこの飲食店を経営しているのか、それとも収入のために店をやっているのか、それは本人に確認を取らないとわからないことだが、しかしその腕前はプロレベルであるように感じた。

 しかし、ステラが思うに、これほどの腕前でこの程度の値段だというのならば店内がもっと賑わっていてもいいのではないかと思いもするが、そういう飲食店の裏側についてわざわざ突く必要性を感じることもないので、特に言及するようなことはしなかった。

 店を出て車に戻ると、マシューも既に食事を終えていたらしく、すぐに出発できるように準備をして待っていた。いくらかコミュニケーションを取ると、彼らはすぐに出発し、再びアウトバーンに入り西へ向かった。



 二番以外のアウトバーンも利用して全く予定通りの時間にアーヘンに到着する頃には、既に空は朱くなっていた。

 徒歩数十分ほどの距離で降りると事前に決められていたのか、マシューは車に乗ったままどこかへと向かった。

 ともかく数十分ほど歩くと、ヨーロッパにおいて最古の大聖堂である、アーヘン大聖堂のその遥か何世紀も前に建てられたのがすぐにわかる古典的なローマ帝国の建築様式の姿が見え始めた。

 東ローマ帝国の様式も取り入れられた皇帝の大聖堂は、権威的に自身を主張しており、非常に広大な存在感を持っていた。

 目印としてアーヘン大聖堂を選んだのか、その近くにまで移動すると、マシューと同様のものに見える紳士服──ただし、違いとして特に勲章のようなものは身に着けていない──とシルクハットを着用するおそらく足腰が不自由な中年期の男性と、現代社会でよく見かける、スーツ姿の若い女性が待機しており、やはりこちらに気が付くとそのまま彼らは脱帽し最敬礼を行った。


「お待ちしておりました、閣下」

「到着したばかりで申し訳ありませんが、案内を始めさせていただきます」

「ああ、それじゃあ、早速出発したまえ」


 アートマンがそういうと、彼らはアーヘンの街中を進み始めた。

 直進、右折、右折、左折、直進。

 効率という面で見れば明らかにもっと近い道があるはずなのだが、既にそれについて推論を終え、道のりが示す意味に気が付いたステラは不可解な進路に言及することはなかった。

 体勢など、何かがあると気づかせないように巧妙に偽装こそされているが、この進路はそれ自体が協会へ行くためのパスワードの一種であり、一般人が迷い込むのを防ぐセーフティーの一つであった。

 実際、四回左折をして再び直進するというどう考えても不必要な手段を取っている。

 パスワードは進路単体だけではなく、紳士服の男性が突いている杖にも仕掛けられているのだろう。

 彼は杖によって歩行に合わせた一定のリズムではなく、散らばった、それでいて整った音を石畳から発生させている。

 その他にもあと二種類の、計四種のパスワードがアーヘンには散りばめられており、都市はこの程度を暗記できないのであれば魔術師になる資格はないと言外に囁かれている雰囲気すら漂わせていた。


 十分ほどそうして虚空へ向けて暗号を送り続けていると、次第にアーヘンが濃霧に包まれ始めた。濃霧といったように、霧は信じられないほど濃く、ぎりぎり半径四メートルの範囲が見えるという程度で、それ以上の距離となるとまったく見えなかった。

 人々の生活音や声も聞こえなくなり、霧がかかる前は右折か、左折が必要なT字路だったはずのそこをずっと直進し続けている。

 もちろん、これは本物の霧ではない。言ってしまえば濃霧の正体は認知の霧である。

 この認知の霧は協会への暗号を奏でる魔術師の存在についてすべての目撃者から違和感を感じさせないように記憶を薄れさせ、やがて魔術師がそこを歩いていたという事実自体を消し去り、補完する。そのような効能をこの霧は持つ。

 ステラも自身の”位置”がアーヘンの標準的な道ではなく、もっと高次の、物理的領域よりも高い位置に存在する実数領域に向かって、先ほどの”位置”から”上”に向かって歩いていることを直感が知らせていた。

 そのような直感の囁きをステラの足音から分析したアートマンが呟き始めた。


「この通路は元々現在のアーヘンが出来上がる以前から存在している暗号だよ。むしろ、暗号とそれを隠すためにアーヘンの街が作られたといっても過言ではないほどにね」


 続けて、元老はステラに教示する。


「東洋思想で説明するなら、普遍的な阿頼耶の樹、その枝を意図的に調整していたのがさっきの行為さ。葉や実、花は表層心理で、それらをつける枝は末那、そして根の先が真如……実数空間さ。僕らのいる末那枝から別の末那枝に移る。移動先の元来無人の末那枝に建てられたのが魔術協会本部になる」


 その解説を聞いて、やはり認識論に基づいた転移方法であったのかと納得した途端、ついに霧が晴れ、目の前に魔術協会本部が姿を現した。

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